日本基督教団 玉川平安教会

■2022年8月7日 説教映像

■説教題 「偽善者の祈り

■聖書   マタイによる福音書 6章1〜8節 


★2節と5節16節と繰り返し出て来る偽善者という言葉の語源は、舞台の上に立って演技する者、俳優です。ギリシャの古典劇で、演技者は役柄に合わせて、仮面・ペルソナを被って舞台に立ちます。舞台の上では、自分の素顔・正体を隠すことから、偽善者という意味になりました。偽善者、そこに素顔、真実はありません。素顔を隠している、素顔がなくなっているということが、既に偽善です。


★素顔のままでは絶対に出来ないような、悪事をも、仮面を付け替えると出来てしまう、当たり前のように行ってしまいます。何よりも、兵士の仮面であり、役人の仮面です。会社員という仮面をつければ、賄賂を送ったり、裏金を作ったり、いかがわしい接待をしたり、そういう悪事が出来てしまいます。悪事をしているのは、本当の自分ではなく、仮面です。そういうことで、納得してしまうのです。自分で免罪しています。


★既にお気づきの方があったら、私としては大変嬉しいのですが、ここまでお話ししたことは、ほぼほぼ、2年前に読んだ時にお話ししたことです。この箇所では、多くの牧師が似たようなことを言うと思います。特に変える必要もありませんので、そのままお話ししました。

 しかし、前回は、仮面・ペルソナの悪しき面だけを強調しましたので、今日は少し角度を変えて読みたいと思います。仮面そのものが悪いのではなく、被る仮面を間違えているのではないかという発想です。偽善者とは、素顔を隠した人というよりも、なすべき役割を間違えた人ではないかという発想です。


★一昨年に隠退し、昨年亡くなった先輩牧師がいました。東北教区時代からの付き合いで、出版局でも一緒だった尊敬する牧師です。

 白河教会の時に、この人に誘われて、仙台郊外にあるこの人が牧する教会を訪ねました。

 彼は、付属幼稚園の門扉の前で立ち止まり、何やら身繕いし、顔に両手を当てて擦っています。何ですかと聞いたら、「今、幼稚園長の顔に変えたんだ」と言います。教会の入り口では、牧師の顔に、牧師館の玄関では、夫の顔に変えるのだそうです。それぞれの時と場合によって、仮面を付け替えるのだと言います。

 そうしないと、うっかり間違えて、幼稚園で牧師の顔になったり、妻の前で園長の顔になったりするのだそうです。確かにそんなことがあります。お面を付け間違えて失敗することがあります。それは、自分が果たすべき役割を間違えていることでもあります。

 彼は大学では落研だったそうで、話術は巧みです。また、顔の表情も豊かに語ることが出来ます。


★これを偽善とは呼べないでしょう。むしろ、自分が果たすべき役割を良く心得ていて、自覚をもって使い分けていると言うべきでしょう。偽善ではありません。役割、使命の自覚です。

 役割を間違えてはなりません。混同してはなりません。誤魔化してはなりません。

 このことは他の機会に話したり書いたりしたことがあります。この頃は、教会員とお友達になりたいと言う牧師がいます。偉そうにしないで、教師面しないで、一個の人間同士としてお付き合いしましょうと言う意味でしょう。分からないでもありません。

 しかし、こんなことを言う人は、私に言わせれば、傲慢です。牧師が牧師の仮面を外したら、何が残るのでしょう。一個の人間には違いありません。しかし、多くの教会員よりも若く、経験も乏しく、知識も足りない、何より信仰が足りない一個の人間でしょう。

 或いは真逆で、若い人から見たらただの老人です。老人が若い人とお友達になりたいと言って、受け入れて貰えるものでしょうか。

 牧師が、牧師の仮面を外して、お友達になりたいと言って、「ではよろしく、私をお友達にして下さい」と言う教会員がいるでしょうか。教会員とお友達になりたい、なれると考えているのは、むしろ傲慢ではないでしょうか。


★1節、『見てもらおうとして、人の前で善行をし』5節、『人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる』とあります。この点については、また、2年前と同じ話をしなくてはなりません。

 『見てもらおうとして、人の前で善行をし』、『人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる』、その結果、3節『彼らは既に報いを受けている』、5節『彼らは既に報いを受けている』とあります。普通に考えれば、何しろ偽善者と呼ばれている人のことですから、見栄え良くやっているようだけれども、内実は火の車だとか、肉体は死の病に捕らえられているというような意味かと思ってしまいます。

 しかしここで使われている報いというギリシャ語は、ミソスです。今日の言葉なら、ボーナスです。彼らは役者だから、その報いを、出演料=ギャラとして受け取ってしまっています。だから、天国の門での裁きの時に、それ以上の報酬・ギャラはありません。もう勘定は終わっているのだから、天国で受け取る分は何も残っていません。こういう意味です。


★ここに描かれている偽善者は、仮面を付け間違えています。祈り、つまり、神さまの前に立つのに、それにふさわしい素顔ないしは、一人の信仰者としての仮面を付けるのではなく、『人に見てもらおうと』、見映えの良い仮面を被っています。仮面を付け間違えています。


★ここに登場する偽善者とは、ファリサイ・律法学者です。今日で言えば私塾ということになりますでしょうか。学校です。ここに描かれているように、辻に立って、演説したりお祈りしたりすると、それが弟子の勧誘になります。

 要するに、2節、『人からほめられようと会堂や街角で』演説しまです。弟子の勧誘のためです。その結果は、『人からほめられ』、弟子が集まります。

 神さまに向けて祈っているのではありませんから、当然、この祈りは、神さまの所には届かないでしょう。

 要するに、偽善者は、神さまの前なのに、神さまに向かって祈っているのに、実は、顔を他に向けている人のことです。神さまを見てなどいないし、自分の声が神さまに届くとも思っていません。

 つまり、麗々しく言葉を重ねながら祈っている本人が、神さまが聴いていて下さるのは思っていないのです。これが偽善と言うことです。もっとも飾らない言葉で言えば、嘘つきです。

 偽善者は嘘つきです。この祈りを聴いていてる人を欺き、そして、いい気分に盛り上がって、自分自身をも欺しています。


★ちょっと回り道になるかも知れませんが、この機会に申します。

 先月の役員会で、牧師のガウンのことが話題になりました。暑そうで、見苦しいとは言われませんでしたが、気の毒とは言われました。節電、クールビズが推奨される時代ですから、簡易で薄着の服装で良いのではないかという結論になりました。実際、汗で眼鏡がくもり、説教原稿や式文が読めないということもありましたので、場合によっては、今後、上着を脱ぐことがあるかも知れません。若い人の中には、Tシャツにジーパン、勿論ノーネクタイで何か不都合があるのか、と言う人もあります。ネクタイは説教しないそうです。

 にも拘わらず、私も他の多くの牧師も背広やガウンに拘るのは、今、説教しているのは、説教できるのは、神さまの御用に当たっているからで、牧師として任命されているからだと、考えるからです。自分個人が、個人の資格や能力で、個人的な意見や思想を説教するのではないと考えるからです。その印がガウンであり、ネクタイなのです。

 お祈りの時に、祈祷書を掲げて読むのも同じ理由からです。これが牧師の仮面です。

 仮面は素顔を隠します。それがイコール悪とは言えません。


★元に戻ります。神さまの所に届くように祈りたかったならば、6節、

『あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる』。

 真に、祈りたいと思うならば、隠れた所で、人々からの賞賛という報いを得ないようにして、祈らなくてはなりません。『施し』についても同様です。本当に祈るのならば、他の人を見てはならないということです。神さまだけを見なくてはなりません。


★赴任した先々の教会で、必ずお話しすることがあります。私の座右の銘です。

 詩人金子光晴は言いました。

 詩を書きたいと思ったなら、良い詩を書いてはならない。間違っても、人を感動させる詩を書いてはならない。 … これは、説教に当て嵌まると考えます。

 説教したいと思ったなら、良い説教をしてはならない。間違っても、人を感動させる説教をしてはならない。 … 祈りにこそ、全く当て嵌まります。

 祈りたいと思ったなら、良い祈りをしてはならない。間違っても、人を感動させる祈りをしてはならない。 … これでは毒が強いでしょうから、少し薄めます。

 祈りたいと思ったなら、良い祈りをしたいと思ってはならない。間違っても、人を感動させる祈りをしたいと思ってはならない。 … 説教も同様です。

 説教したいと思ったなら、良い説教をしたいと思ってはならない。間違っても、人を感動させる説教をしたいと思ってはならない。


★2節前半。

 『だから、あなたは施しをするときには、

  偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、

  自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない』。

 こんな人、神父や牧師が実際にいると思います。新興宗教の指導者は、ほぼこれに当て嵌まります。自己顕示欲が強いのでしょう。自己顕示欲が強いだけなら、あくまでもその人の性格のことであって、特に咎め立てする必要はないかも知れません。私には真似できない、苦手だと言うことに過ぎないかも知れません。

 しかし、イエスさまがこのような人を、嫌いと言ったら語弊があるでしょうか、否定的に見ていることは間違いありません。それは、福音書を読めば、はっきりと分かります。


★3節。

 『施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない』。

 非常に文学的神学的な表現ですが、簡単に言えば、自己陶酔であってはならない、偽善であってはならないということでしょう。自己顕示欲で語ってはならないということでしょう。


★4節。

 『あなたの施しを人目につかせないためである。

  そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる』。

 方便的な表現です。要は、兎に角神さまに向かい合いなさい、人の目の前に立つことを目的としてはならないということでしょう。ここでは、仮面の下に素顔を隠してはならないとも言えるでしょう。

 もっと簡単に言えば、神さまが祈りを聞いて下さると信じて祈りなさい、神さまがいると信じて祈りなさいということでしょう。


★5節は先に読みました。6節。

 『だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、

   隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、

   隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる』。

 これが私たちに与えられている祈りの形です。重大なことです。イエスさまの直接のお言葉なのですから。

 そして、この言葉をも含めて、この6章、これ程無視され、ないがしろにされているイエスさまのお言葉は、他にありません。

 本当に不思議です。イエスさまは、人に見せるための祈りをしてはならないと、はっきりとおっしゃっているのに、大見得を切るような祈りがなされます。そうしますと、「待ってました○○屋みたいに、かけ声がかかります。アーメンです。」そんな大向こうをうならせるような祈りをしてはならないとイエスさまは、はっきりとおっしゃっています。


★こんな風に言いますと、ますます人前では祈りたくないという人が増えるかも知れません。それでは、祈祷会は成り立ちません。

 しかし、逆に言えば、大向こうをうならせるような祈りをする必要はありません。たんたんと自分の心に正直に祈ればよろしいのです。教養が滲み出るような、美しい言葉、難しい言葉を連ねる祈りは必要ありません。大きな声も要りません。ただ祈ればよろしいのです。


★7節。

 『また、あなたがたが祈るときは、

   異邦人のようにくどくどと述べてはならない。

  異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる』。

 これは注釈するまでもないでしょう。

 祈りに難しい注文がつくことはありません。短くてよろしいのです。

 8節。

 『彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、

  あなたがたに必要なものをご存じなのだ』。

 神さまへの信頼、これが祈りの大前提です。それだけがあれば、祈ることが出来ます。