日本基督教団 玉川平安教会

■2022年12月18日 説教映像

■説教題 「激しく嘆き悲しむ声

■聖書   マタイによる福音書 2章13〜18節 


★13〜14節によりますと、イエスさまの家族は、『エジプトに逃げ』、『ヘロデが死ぬまでそこにいた』ことになります。

 このことについては、昔から大いに議論があります。そのような歴史的事実があったとは信じられないと言う人がいます。一方には、これを事実と認めた上で、イエスさまが逃げたことで、16節以下に記された大虐殺が起こったのだから、大虐殺の責任はイエスさまの家族にあると批判する人がいます。

 逃げるように命じたのは主の天使です。そうしますと、悪いのは天使であり、天使を使わした神さまだということにもなりかねません。

 勿論、イエスさまの責任とは言えないと、弁明する意見もあります。

 何しろイエスさまは未だ赤ちゃんです。ヨセフさんマリヤさんにとっては、天使のお告げを守るのは当然のことでしょうし、ヘロデが2歳以下の男の子を皆殺しにするなどとは、とても予想できることではありません。この場合でも、結局天使と神さまの責任は問われるのでしょうか。


★以上のような解釈は、どの説も、根本から間違っていると、私は考えます。聖書学者でもないのですが、敢えて言います。そもそもの発想からして間違っています。

 ここに記されている出来事は新聞記事ではありません。新聞記事ならば、例えイエスさまに不利に聞こえる報道であっても、事実である上は記事にしないわけにはまいりません。曲げて書くことは出来ません。隠してしまうことも出来ません。

 キース・ピーターソンという作家がいます。アンドリュー・クラヴァンと同一人物で、この筆名の方が有名かも知れません。とにかくキース・ピーターソンの作品にこんな言葉が記されています。

 「私は新聞記者だから、事実をそのまま書く。自分の意見は言わない。」


★しかし、マルコ福音書は新聞記事ではありません。イエスさまに不利に聞こえる懸念があるのなら、何も書かなければ、それで済みます。現にマタイ福音書以外には、この出来事については一行も記されておりません。マルコにもルカにもヨハネにもありませんし、パウロ書簡にもありません。

 エジプト逃亡のことについても、虐殺のことについても、何も記されていません。

 にも拘わらず、マタイがこのように記録しているということは、マタイには、イエスさまの家族が、『エジプトに逃げ』、『ヘロデが死ぬまでそこにいた』ことが、不名誉なことになるとか、虐殺の責任がイエスさまの家族にあるとして責められることになるなどということは、全く念頭にありません。まして天使や神さまの責任が、などとということは、およそ、マタイが思い付きもしないことなのです。


★では、マタイは何故この出来事を記したのか、何を言いたかったのか、それについては、マタイ自身がはっきりと述べています。15節の後半です。

 『主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった』。

 マタイ当人が明確に述べています。

 ついでに、17節、23節もご覧下さい。

 『こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した』

 『預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった』

 イエスさまの身の上に起こったことは、全て預言の成就です。マタイはそのように考え、それを強く主張しているのです。逆に言えばそれだけがマタイの意図であって、それ以外のことを言ってはいません。意図していないことを読み取ろうとしても、仕方がありません。学者にはそれが必要かも知れませんが、信仰者には全く必要ないことです。

 

★そうしますと今度は、全てはマタイの筆による辻褄合わせでって、この出来事は歴史的事実ではないのだという話になってまいります。

 しかし、そういうけちくさい次元の話ではありません。マタイも、そんなちっぽけな視点で、預言の成就だと言っているのではありません。

 1章23節をご覧下さい。

 『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

  この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』

 インマヌエル=「神は我々と共におられる」は、イザヤの預言であり、クリスマスの出来事の、正に主題です。

 

★エジプト逃亡も、ヘロデの虐殺も、この出来事に重ね合わせて受けとめなければなりません。イエスさまは、イスラエルの歴史と共に居て下さいます。イザヤ・エレミヤ以来の八百年もの歴史の中で、受けとめられなければなりません。

 イエスさまは、エジプトに逃れる民と共に居て下さるのであり、子どもを失って悲痛の叫び声を上げる民と共に居て下さるのです。

 イスラエルの民の悲惨な歴史を思わなくてはなりません。イスラエルの歴史は、正にそのような歴史だったのです。このイスラエルの民と共にいて下さるのがインマヌエルの神なのです。


★イザヤ書8章23節及び9章1節。

 『先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、

  海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。

 1:闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた』

 これは、マタイ福音書4章15〜16節に引用されています。

 私たちの信じる神さまは、『闇の中を歩む民』と共に居て下さって、そこから一緒に光を見上げる神さまなのです。

 幼いイエスさまがエジプトに逃れた話は、イエスさまが民衆を見捨てた話ではなくて、『闇の中を歩む民』と共に、エジプトでも他の場所でも、共に居て下さって、共に苦しんで下さった話なのです。

 今日はそこまで触れる時間はありませんが、これはエゼキエル書のテーマです。神さまはバビロニアで奴隷とされたイスラエルと共にいた、それが、エゼキエルの信仰です。


★暮・正月になりますと、福の神、対するに貧乏神の話が聞こえてまいります。

 日本昔話などでは、福の神をしっかりとおもてなししないと、福の神が逃げ出して、その代わりに貧乏神が入り込むといった筋立てになっています。

 福の神と貧乏神が相撲を取る話などは、なかなかに愉快です。いろんなパターンの福の神・貧乏神の話がありますが、どうも結局は、金持ちの所には福の神が居着き、貧乏人の所には貧乏神が居着くということのようです。その筋立てが圧倒的多数です。


★私たちの信仰は、これとは全く違います。例えば讃美歌312番の3節、

 『慈しみ深き 友なるイエスは かわらぬ愛もて 導きたもう

  世の友われらを 捨て去る時も 祈りにこたえて 労りたまわん』

 これが私たちの信じるインマヌエルの神です。

 貧しい者、弱い者、傷ついた者と共に居て下さる神です。


★さて、逃げるということは、イエスさまの生涯につきまとうイメージです。否、正確に言えば、誰もが逃げ出す時に、決して逃げ出すことがないのがイエスさまです。

 マタイ福音書26章31〜32節。

 『そのとき、イエスは弟子たちに言われた。

   「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。

   すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。

  32:しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く』

 弟子たちがイエスさまを見捨てても、イエスさまは見捨てることはありません。

 常にそうです。神さまが人間に見切りをつけて見捨てるのではありません。人間の方が神さまに見切りをつけて見捨てるのです。

 どの教会でもそうです。神さまに見捨てられた人などはありません。

 例えその人が病気で礼拝に出られない状態であっても、イエスさまはその人と共に、彼の病室に居て下さいます。

 逆に、イエスさまを見捨てて、去ってしまった人は、どの教会でも、現在教会につながっている人の数よりも多いでしょう。40年以上の牧師経験からして、これは断定出来ます。神さまが見捨てるのではありません。人間の方が神さまを見捨てるのです。

 

★マタイ福音書26章56節。

 『このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」

  このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった』。

 そして何より、27章42節

 『「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。

   今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう』

 私たちが信じるイエスさまは、死を免れるために十字架から降りることはありません。十字架から逃げ出すことはありません。何故なら、この十字架こそが、病に苦しむ者の病室であり、敵に追い立てられる者の戦場であり、飢え渇く貧しい者の居る場所だからです。


★さて一番肝心な2章18節に触れていません。

 これは、エレミヤ書31章の引用です。   15〜17節。

 『主はこう言われる。ラマで声が聞こえる 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。

   ラケルが息子たちのゆえに泣いている。

  彼女は慰めを拒む 息子たちはもういないのだから。

 16:主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。

   あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。

   息子たちは敵の国から帰って来る。

  17:あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る』

 この箇所だけでも、十分に察していただけると思います。30〜31節は、回復の預言であり、新しい契約の預言です。本当は、30〜31章を全部読んでいただくのが良いと思います。基本的に、希望の預言です。


★マタイはその中から、敢えて、この一節だけを引用しています。

 ヘロデの虐殺の出来事と辻褄合わせをするためではありません。

 ここから、イエスさまの生涯が、イエスさまの宣教が始まるからです。

 エレミヤ書がそうであるように、エゼキエル書がそうであるように、全くの絶望、全くの暗闇と思われる時に、全くの絶望、全くの暗闇と思われる場所から、光が輝くのです。

 

★暗い定めから、絶対に逃れることの出来ない人間の現実があります。そこから始まるのです。

 イエスさまの家族がエジプトに逃げなければ、ベツレヘムとその周辺に住む二歳以下の男の子が虐殺されることはなかったのにと言って、イエスさまを批判する人は、正に、『今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう』と、十字架の上のイエスさまを罵る者です。


★主の十字架の死の時、マタイ福音書に依れば、

 『全地は暗くなり、それが三時まで続いた』とあります。

 全くの闇がありました。絶望がありました。そして十字架があり、復活があります。闇を否定し十字架を否定する者には、光はありません。

 何時の時代にも、何々だったら、とイエスさまの言動を批判的に見て、イエスさまを十字架から引きづり下ろそうとする者がいます。

 しかし、そこには、光はありません。何故なら、このように言う者は、自分こそが十字架から逃げ出しているのに過ぎないからです。


★キース・ピーターソンは、彼の主人公に

 「私は新聞記者だから、事実をそのまま書く。自分の意見は言わない。」と言わせました。マタイは新聞記者ではありません。ですから、事実起こった出来事を、脚色なく淡々と記しているのではありません。マタイは、自分の意見を、正しくは、自分の信仰を綴っています。彼の信仰の目で見た出来事を記録しています。これは他の聖書の記者についても当て嵌まります。誰も新聞記者ではありません。政府の報道官でもありません。


★遠藤周作の作品には、シッシッと追い払っても、のこのことどこまでも付いてくる野良犬とイエスさまとを重ねる描写が多数あります。『お馬鹿さん』もその一つです。これが強く影響したのかどうか、人間の人生に連れ添うイエスさま、寄り添うイエスさま、が人気のようです。このような信仰も間違いとは言えないでしょう。

 しかし、間違ってはなりません。十字架の上のイエスさまに、『今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう』と、言ってはなりません。

 『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。』と、言ってはなりません。

 イエスさまは、人の救いのためにこそ、十字架の上におられるのですから。