◇5章1〜5節は、1〜4章の全体を、要約して繰り返しています。 1〜4章では、説明の角度を変え、表現を変えて、2度3度と、同じようなことが繰り返し述べられてきました。今、そのことを更に、短く繰り返しています。 諄いほどに繰り返し、同じことを強調しています。それだけヨハネにとって大事だということでしょう。勿論、私たちにとっても、繰り返し読むべき、大事な事柄だということです。因みに、次週礼拝でも同じ個所を取り上げて説教個所といたします。 ◇1節の前半だけ読みます。 『イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です』。 一人ひとりの信仰が、神さまから生まれました。つまり、一人ひとりが、神さまから信仰を与えられました。信者として生み出されたのです。自分の手柄で信仰を獲得したのでもありませんし、自分の想像力で頭の中に信仰を作り出したのでもありません。 丁度、私たち一人ひとりが親から命を与えられて生まれて、この世に生まれて来るようなものです。誰も、自分の決断で生まれて来たのではありません。自分の能力で生まれて来たのでもありません。 ◇だからこそ、1節の後半には、このように記されています。 『生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します』。 同じ親から生み出されたのですから、信仰者は互いに兄弟です。兄弟は互いに愛し合うものです。 兄弟を憎む者があるとするならば、兄弟を否定する者があるとするならば、その者は、自分の親を否定しています。 また、その親から生まれた自分自身をも否定することになります。 故に、教会で共に礼拝を守る兄弟姉妹を否定してはなりません。 ◇芥川龍之介に『河童』という作品があります。 河童の世界では、父親になるべき者が、妻となるべき者のお腹に耳を当てて、子として生まれるべき者に問います。主人公が出逢った河童も、同様にして、我が子たるべき者に問います。短く引用します。 … 「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バツグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してかう言ひました。それからテエブルの上にあつた消毒用の水薬で嗽(すすぎ)うがひをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼(きがね)でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。 「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」 … ◇河童という作品に流れる厭世観が、ここにこそ現れています。ヨハネと全く逆です。 生まれるか生まれないか、自ら決断して生まれる者の、人生観は暗いのです。 命も信仰も、神さまから与えられたものであると、受け止める者が、自分の人生を受け入れることが出来ます。同様に、兄弟を選ぶ者は、兄弟を受け入れられない者です。父母を選ぶ者は、父母を受け入れられない者です。 まして、私たちは神さまを選ぶことは出来ません。神さまを選ぶことが出来ると思っている人がいます。実際に選びます。しかし、そのような信仰は、脆く崩れるでしょう。大きな試練に耐えることは出来ません。 ◇神さまが人を選びます。それが、ヨハネの信仰です。聖書の信仰です。 一ヨハネ4章10節。 『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、 わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。』 一ヨハネ4章19節。 『わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。』 芥川龍之介の河童バツグは、生まれて来たいかと、子どもに問います。これは、私を愛するかと問うことにも重なります。 そんなことを子どもに問い、その返答で自分の姿勢を決定するようなら、とても、親の資格はありません。子どもに自由を与えているようで、その実は全く無責任です。 ◇母親が我が子を虐めるという出来事が、頻発しています。研究した訳ではありませんから、分かったようなことは言えませんが、どうも、共通して言えることがあるようです。虐待する親は、必ずしも、自分の人生に、この子どもの存在が邪魔だと考えている訳ではないようです。一端は預けた子どもを、児童施設に引き取りに行ったりしています。 虐待する親は、子どもが、無条件に母親を愛することを、従順であることを要求します。優秀であることを要求します。その上で、この子を愛するか愛せないか、自分が判断して決めているように思えるのです。 無条件に愛するのは、親の側の筈です。しかし、今、それが崩れています。何も、虐待する親だけではありません。子どもを愛するかどうか、親が試し、子どもがそれに応えないと愛することが出来ないのです。 ◇2節も、2章で詳しく、力を込めて語ったことの繰り返しです。 戒めを行うことこそが、神への愛を全うすることになると言います。 『このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、 その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します』 ここでは、『神を愛』すること、『掟を守る』こと、『神の子供たちを愛』することが、全く重ねられています。互いに関連があるどころではない、それらは、同じ事柄なのです。 ◇その理由は3節で述べられています。神の戒めは、第1に、互いに愛し合いなさいということだからです。『神を愛するとは、神の掟を守ることです』 『神を愛』すること、『掟を守る』こと、『神の子供たちを愛』することは、一つの事柄なのです。 愛することは戒め、愛さなくてはならない、こう聞くと反発する人が少なくありません。愛こそ、自由意志に基づくものだと考えるからです。 しかし、その結果はどうなのか。以前は当たり前だと考えられていたことが、崩壊しています。家族が愛し合うことが出来ない。兄弟が愛し合うことが出来ない。 私たちの心は、決して完全なものではありません。それを絶対視することは、偶像崇拝です。聖書は偶像崇拝のことを、己が腹を神とすると表現します。己が腹を神としてはなりません。自由意志といえば聞こえが良いものの、所詮は好き嫌いです。恣意です。 互いに愛し合いなさいという神さまの言葉だけが、本当の愛の根拠となりうるのです。 ◇4節は論理が飛躍しているように聞こえます。しかし、決して飛躍ではありません。 世とは何か、いろんなことを思い浮かべますが、あんまり意味はありません。 あくまでも、1〜3節との関連で考えなければなりません。そうでなければ、意味はありません。私たちは、神さまを第一にして生きています。少なくともそのようにありたいと祈っています。そうしますと、先ほど申しましたように、三つのことは互いに重なっているのです。私たち信仰者は、神の戒めを第1に、愛を第1にして生きています。少なくともそのようにありたいと願っています。 ◇ところが、世とは、そう言うものではありません。 他に大切なものがあって、それを第1にして生きています。神ならぬ何ものかを第1にして生きています。ある人にとっては、お金であり、ある人にとっては、権力であり、また、お金や権力によって得られる贅沢な生活です。 名声という人もありますし、道楽という人もあります。 この世を愛する彼らは、それ故に神の掟を守ることは出来ないし、つまりは、兄弟を愛することも、神を愛することも出来ません。 ◇3節の後半をご覧ください。 『神の掟は難しいものではありません』 そうかもしれません。哲学や神学を修めた者でなければ理解することが出来ないようなものではありません。理屈は単純です。 『神を愛』すること、『掟を守る』こと、『神の子供たちを愛』することです。これは、モーセの十戒にも通ずると考えます。理解するのに、困難なものではありません。しかし、行うことは、なかなかに難しいのです。 それどころか、この律法を全うした者はかつて一人もいないとさえ言われているのです。 ローマ3章10〜12節。 『「正しい者はいない。一人もいない。 11:悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。 12:皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。 善を行う者はいない。ただの一人もいない。』 ◇4節に戻ります。 理屈は単純だけれども、実践は困難な、『掟を守る』ために、私たちは、『世に打ち勝つ』ことをしなくてはなりません。世の様々な誘惑を退けなければなりません。 『世に打ち勝つ』とか世の様々な誘惑を退ける、そのように言いますと、極めて禁欲的な生活をしなくてはならないというように、聞こえますでしょうか。 そういうこともあるかも知れませんが、世の様々な誘惑を退ける、ということと、禁欲的であることとは、必ずしも、同じことではありません。 まして、『世に打ち勝つ』とは、反社会的であるということとは違います。あくまでも、『神を愛』すること、『掟を守る』こと、『神の子供たちを愛』することを、最重要とする生活です。 ◇4節を改めて読みます。 『神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、 それはわたしたちの信仰です』 結局信仰です。 『神を愛』すること、『掟を守る』こと、『神の子供たちを愛』することも、『世に打ち勝つ』ことも、つまりは、信仰です。 信仰を一番大切なこととして毎日を生きるということです。 ◇5節。 『だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか』 『世に打ち勝つ』信仰とは、十字架と復活の信仰によって生きるということです。キリスト・イエスへの信仰こそ力であると信じて、信仰を貫く生き方です。勝つという言葉は、克服する、大胆に生きることを意味します。相手をやっつけるいう意味ではありません。 ◇さて、3章15節にはこのように述べられています。 『兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、 すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません』 この箇所をストレートに当て嵌めるならば、同じ教会の信仰者を憎むことは、不信仰なばかりか、殺人になぞらえられるほどの大罪です。 この箇所だけで、明確な答えが出ているとさえ言えましょう。教会論や、聖書理解に大きな違いがあったとしても、その人々を兄弟として扱わなければなりません。 ◇しかし、その一方で、このように述べられています。2章18〜19節。 『子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、 あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。 これによって、終わりの時が来ていると分かります。 19:彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。 仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。 しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。』 ◇ここでも問われるのは信仰です。 信仰の仲間が先にあるのではありません。同じ信仰に立つ者が仲間であり、兄弟なのです。 そういう意味では、異なる信仰を退けなければ、真に、仲間、信仰の兄弟となることは出来ません。 |