★ チャールズ・ディケンズの『二都物語』、あまりにも有名な小説です。映画化もされています。知っている人には、諄いかも知れませんが、肝心な箇所にちょっとだけ触れます。主人公は、一人の女性を愛していましたが、彼女には、主人公よりふさわしいと思わざるを得ない恋人がいます。この恋敵の男性は、フランス大革命の人民裁判にかけられ、ギロチン台に送られそうになります。この時、主人公は容貌が似通っているこの男性の身代わりとなり、自ら首をはねられるという話です。 これだけお話ししますと、何だか、あまりにも漫画的、あまりにも嘘っ臭い話に聞こえますが、そこはチャールズ・ディケンズ、読者は物語に引き込まれ、手に汗握り、ハラハラドキドキのしどうしです。 ★『二都物語』が描き出すのは、一言で言えば、究極の『無償の愛』です。全く見返りを期待しない、愛する人の愛さえも期待しない『無償の愛』です。普通の人間ならば、愛されるという見返りがなく愛したとしても、愛する人が、他の男を愛することには我慢がならなりません。まして、愛する人がこの男と結ばれるのを助けることは出来ません。 否、ここまでならば、『シラノ・ド・ベルジュラック』があります。似たような小説は他にもあります。山本周五郎にはたくさんあります。しかし、そのために我が命をも捧げるというのは、『二都物語』だけかと思います。あるかも知れませんが、私は知りません。 ★ 報いがなければない程、『無償の愛』であり、純粋な愛でしょう。 一ヨハネにも通じます。 『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、 わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。』 一ヨハネでは、十字架の出来事は、神の『無償の愛』であると、繰り返し説かれます。 ホセア書にも重なります。ホセアは『ゴメル』、その名前の意味は「何の価値もない者」 を、苦界から救い出し、妻としますが、繰り返し裏切られます。男と逃げ、子どもまでもうけた背徳の妻ゴメルを、それでも救い出します。 正に『無償の愛』です。ホセアは、神の愛こそ、背徳の妻を愛するような『無償の愛』だとします。これは、明らかに、主の十字架を預言しています。 ★『鞭打ち教徒』と呼ばれる人々がいました。中世ヨーロッパの異端宗派と言っても良いでしょう。世の腐敗を嘆き、非難し、自らを鞭打つことで、世の罪から免れ、神に近づこうと考えました。同じような人々は、繰り返しキリスト教の歴史に登場します。自殺教徒となる場合もあります。 キリスト教でなくとも、インドにも日本にも、難行苦行の修行僧が現れます。断食行者も登場します。神道にも仏教にもキリスト教にも、『鞭打ち教徒』がい、自殺教徒がいます。井上靖の小説にも、これを描く作品があります。補陀落渡海記(ふだらくとかいき)です。また、特に東北地方に伝えられる即身仏を、自殺教徒と言ったら怒られるかも知れませんが、それに違いありません。 命を賭するこれらの行動には、何か、人間の根源的なものに拘わり、魂を揺さぶる魅力があります。それは否定出来ません。 ★ しかし、12節。 『喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。』 間違いなく、『大きな報いがある』と言われています。報い、ギリシャ語でミソースと言います。これを普通の言葉に翻訳したら、ボーナスです。報いと言うと、仕返しの意味も持ちますが、ギリシャ語の意味は、報酬、ボーナスです。 ★3〜10節でも、繰り返されます。 『天の国はその人たちのものである』 『その人たちは慰められる』 『その人たちは地を受け継ぐ』 『その人たちは満たされる』 『その人たちは憐れみを受ける』 『その人たちは神を見る』 『その人たちは神の子と呼ばれる』 『天の国はその人たちのものである』 皆、報いが約束されています。最初と最後は、同じ表現で、天国が約束されています。報酬は、天国です。 ★キリスト教は、御利益宗教ではないと言われますが、これは、半分正しくて、半分間違っていると、私は考えます。 キリスト教では、お金が儲かるなの、いぼが取れるなのというような、御利益を説くことはありません。 … ローマカトリックなどにはありますが。 しかし、他のどんな宗教よりもありがたい御利益があると説いています。 それは、『永遠の命』であり、神の国・天国です。 この点で、キリスト教は間違いなく御利益宗教です。 縁が結ばれるとか、合格出来るとかと言わないだけです。 ★11節を改めて読みます。 『わたしのためにののしられ、迫害され、 身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。』 『ののしられ、迫害され』、嫌です。たまったものではありません。まして『身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる』、とんでもないことです。 しかし、これを『あなたがたは幸いである』と言っています。 ★かなりの回り道をしますが、多分、この方が分かり易いと思います。 マタイ福音書6章5〜6節。 『5:「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。 偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。 はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6:だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、 隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。』 ここで使われている『報い』というギリシャ語が、先ほど触れたミソース、つまり、ボーナスです。報酬です。 ★偽善者は、人の賞賛を得たいという動機によって、人目につく所で、目立ったきらびやかな服装をし、飾り立てた言葉でお祈りします。その狙い通りに、人々から賞賛されます。それでもう、祈りの報酬は受け取ってしまった、従って、天国に行っても神さまのもとに貰える報償は何も残っていません。既に、報いを貰ったのですから。 そも、報酬は地上で受け取ったから、天国に行くことも出来ないという理屈です。 これが偽善者への報いです。 ユダヤ教のラビや司祭に限りません。何教であれ、どうしてあんなにも高価な衣服に着飾り、冠を被り、宝石を身につけるのでしょう。それをどうして信者たちは礼賛するのでしょう。ひれ伏すのでしょう。私には理解出来ません。 ★この世では報いを受け取らず、分かり易い言い方をすれば、天国に宝を積みます。金銭的な報酬など受け取らずに、他人からの評価など受けずに、ただ黙々と働き続ける、それこそが天国銀行に貯金することです。人の賞賛を受けると、この貯金額が減ってしまいます。他人の評価を求めることは、天国の宝を減らすことです。 ★私たちは報いを求めて信仰生活を送る、御利益宗教の信者です。それに違いありません。その報いはケチなものではありません。『大きな報い』です。 報いとは何か、どんな報いを期待するのか、それがキリスト教信仰の肝心な所です。 金銭的報償よりも、世の人からの評価、勲章よりも、もっともっと値打ちのある報いを求めて信仰生活を送るのか、キリスト者です。 報酬を貰うよりも、感謝されたい、喜びの笑顔を見たい、この方が報酬です。もしかすると自己満足かも知れません。自己満足も報酬です。 ★チャールズ・ディケンズの『二都物語』は、『無償の愛』の物語です。自分の命を代価として支払い、愛する人の笑顔を、愛する人の幸福を、自分の報酬として受け取ることこそが、『無償の愛』です。 愛する人の幸せ、幸せな顔、これこそが報いです。最も尊い、最も美しい報いです。 しかし、天国に宝を積むという観点からは、感謝の声も要りません。喜びの笑顔さえ要りません。全く報いが得られない時にこそ、天国の宝は増えるのです。 だから、 『迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、 あなたがたは幸いである』 そして 『喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある』とあります。 ★イエスさまは、どんな報いを期待して十字架に架けられたのでしょうか。 どんな報いも期待しなかったと考える人もいるでしょう。それで正しいでしょう。しかし、別な見方もあろうかと思います。 イエスさまが期待した報いとは、人々の信仰であり、むしろ愛だと考えることも出来るかと思います。 マタイ福音書ですと21章に、『ぶどう園と農夫』の譬えがあります。 『ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、 見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。』 やがて収穫の時が来て、受け取ろうとすると、農夫たちは、収穫を自分のものにするために、使いの者を追い払います。主人は、息子を送れば収穫をよこすだろうと送り出しますが、農夫たちは … 『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 39:そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 … 使いの者とは預言者のことであり、『跡取り』息子とはイエスさまのことです。 ★教会も、神さまの農園です。神さまからいただいた愛の種を畑に蒔き、手入れして育て、その収穫として、より多くの愛を得て、これを捧げて神の愛に報いるのが、教会です。 間違っても、憎しみを育ててはなりません。 特に玉川平安教会は、このことを身に染みて感じた筈です。間違っても、憎しみを育ててはなりません。 ★よりはっきりとした譬え話、と言うよりも出来事がマタイ福音書21章18節以下に記されています。18〜19節。 『18:朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。 19:道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。 そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、 いちじくの木はたちまち枯れてしまった。』 イエスさまの言葉はあまりにも乱暴に聞こえます。イチジクに実がなっていなかったという理由で、この木をのろい、木は枯れてしまったとあります。 そんな非道なとさえ思います。マルコ福音書ですと、 『葉のほかは何もなかった』の後に、『いちじくの季節ではなかったからである』と説明がついています。 季節ではないのに、実を求められても困ります。まして、実がなっていなかったから、呪われたのではたまりません。 ★イチジクは、その名前の通り、無花果、花がない葉もない時に実が出来ます。かと思うと葉が茂っている時には実はありません。 教会はそのようであってはならないという譬えです。外目がどんなに立派でも、高い塔を持ち、ステンドグラスがあっても、そこに信仰の実がなければ、愛という果実が生っていなければ、何にもなりません。それどころか、イエスさまに呪われてしまいます。 ★『無償の愛』とは、何も見返りを期待しないことではありません。正しい実りを期待することです。親は子に、『無償の愛』を捧げます。金銭的な見返りなど期待しません。しかし、何も期待しないのではありません。親ほど、親だからこそ、子どもに多くを期待します。時には、要求します。 問題は、正しい収穫を期待するかどうかです。期待すべきものを期待するかどうかです。 |