◇先週は1〜6節を読みました。特に1節をもう一度ご覧下さい。 『愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。 偽預言者が大勢世に出て来ているからです。』 『どの霊も信じるのではなく』と、言われています。同様の表現は、聖書中に少なくありません。『信じなさい』と言う表現と並ぶくらいに『信ずるな』と言う表現が存在します。本当の神を信ずるということは、本当の神以外は信じないということです。 クリスマスは教会で、その一週間後には初詣に出かけ、その間にも法事があってお寺に参るというような考え方は、聖書的ではありません。 ◇愛についても同様のことが言えます。それが恋愛であっても、誰か異性を真剣に愛するということは、最早、他の人には異性としての関心を抱かないということです。誰かを愛するけれども、他の異性にも大いに関心が有るというのは、愛だったとしても、恋愛までもいかない性愛です。 ギリシャ語のエロースからエロという言葉が生まれました。エログロ・ナンセンスと言うときのエロです。ですから、エロース=性愛という印象がしますけれども、聖書に限らずギリシャ語でエロースは、本来もっと美しいものを言います。敢えて言えば純粋な恋愛、純愛です。日本語になってしまったエロは、本来、愛とは呼べないものです。呼んではならないものです。 ◇使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙3章8〜9節でこのように言っています。 『そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、 今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、 わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 9:キリストの内にいる者と認められるためです。 わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、 信仰に基づいて神から与えられる義があります。』 これは大げさな表現に聞こえるかも知れませんし、比喩的な表現でしょう。 また、一人の異性を愛したからと言って、何も、他の異性を憎む必要も、糞だと思う必要もありません。 今日の箇所に於いても、使徒パウロのフィリピ書に於いても、本当に問題になっているのは、価値観の転換ということです。絶対の価値を持つものの前では、他の一切は、意味を失うということです。 ◇次に10節に注目致します。一ヨハネ4章10節。 『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、 わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。』 『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して』下さったという順番は、厳密に受け止められなければなりません。エロースのことや他のことは知りませんが、アガペーは、厳密にこの順番です。神の愛という根拠があって、私たち人間の世界にも愛がもたらされます。 ◇具体的な例でお話ししましょう。他の機会にも話したかも知れません。 私の以前の任地白河から、車で50分ほどの所に、堀川愛生園という養護施設があります。元々キリスト教の施設ですし、その園長夫人が白河教会のオルガニストでしたから、私もいろいろと愛生園と関係を持っておりました。ちょうどクリスマスの燭火礼拝の時です。礼拝が始まる前に、応接室で歓談しておりました。そこに来賓として招かれていた町の女性町長さんが、堀川愛生園の職員採用基準について、質問されました。 園長はこのように答えました。『幸せな家庭で育ったことが第一条件です』。 私は端で聞いていてびっくりしました。何とも意外でした。差別的だと思いました。そうでしょう。 養護施設という所には、様々な事情で親の愛の元に生活することのできない子供たちが生活しています。また、養護施設の出身者は、就職や結婚で、いろいろと差別を受けるという現実があります。その中で、養護施設の職員採用基準が、『幸せな家庭で育ったこと』というのでは、これは何とも。 ◇しかし、愛を豊かに受けて育った人でなければ、恵まれない子供たちを愛することは出来ない、これもまた現実です。 多くの心理学者が警鐘を鳴らしています。愛されないで育った女性が母になっている危うさについてです。愛を知らない人が母親になっている、その怖さについてです。 さて、蛇足かも知れませんが、堀川愛生園の名誉に関わるので申しますと、ここでは園出身の教師が存在します。堀川愛生園で育った者は、愛を受けている、愛を知っていて、人に伝えることが出来るという確信があるのだそうです。 ◇次回の箇所に入り込んでしまいますが、19節をご覧下さい。 『わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。』 10節と同じことを、繰り返しています。そして10節の後も、19節の後もまた同じ趣旨のことを繰り返して言っています。11節。 『愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、 わたしたちも互いに愛し合うべきです。』 20節。 『「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。 目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。』 神の愛を根拠にして、愛は拡がります。育まれます。深められます。 ◇ところで、結局隣人への愛ということに辿り着くのであったならば、別に順番はどうでも良いじゃないかとなるかも知れません。 10節19節に拘らなくても良いのではないでしょうか。 むしろ、神さまなの信仰なのというものを持ち出すから話がややこしくなるし、いろんな宗教が争うから、隣人への愛がどこかへ行ってしまう。神さまなの信仰なのはひとまず置いておいて、人間・そして愛を、絶対のものとすれば良いのだという考え方です。 人間が絶対です。人間こそ、人間の生命こそ絶対の価値を持つものです。これを大事に守り尊重し合う。そういう考え方です。 現代ではこのような考え方が主流かも知れません。もしかするとキリスト教の中にまでこのような考え方が入り込んでいます。 宗教の違いを乗り越えてとか、信仰の違いに拘泥しないでとかと言います。 ◇10節をもう一度ご覧下さい。 『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、 わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。』 特に、『わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。』ここの部分です。 ここを見逃してはなりません。 聖書は、無条件に人間を素晴らしい存在あるとは見ていません。人間が人間らしく伸びやかに生を贈ることこそが大事なことだなどと、残念ながら、言っていないのです。 人間を礼賛し、人間の生命を絶対視する考え方とキリスト教は違います。何が違うのか、『わたしたちの罪を償ういけにえとして』ここが違います。人間は、そのままでは幸福でもないし救われていないし、互いに愛し合うこともできない、これが聖書の思想です。 そのような人間観に、共感する人もしない人もいるでしょう。反発する人もいるかも知れません。しかし、人間は、そのままでは幸福でもないし救われていないし、互いに愛し合うこともできない、これが聖書の思想です。 ◇キリストの十字架は、単なる自己犠牲的な愛の象徴ではありません。そのような愛ならば他にも存在します。 子供のために生命を捨てる親、 … います。親子の関係がいろいろと問題になっている現代、子どもをかえりみず、自分ファーストの親が増えてしまっている現代、しかし、間違いなく、現代にも、子供のために生命を捨てる親は存在します。現代だって、そのような親が多数だと、私は思います。 ◇もっと徹底した自己犠牲的な愛もあります。極めつけは、チャールズ・ディケンズの『二都物語』でしょうか。この物語の主人公は、愛する女性とその恋人を救うために、普通に考えれば恋敵の男の身代わりとなって、断頭台に命を落とします。自分の生命を犠牲にしても、愛する女性を守りたいし、かつ、その女性に、愛する男性と結婚して幸福になって貰いたいと願うのです。 あくまでも小説の中の話ですが、そのようなことは、現実にも存在します。 自己犠牲的な愛ということならば、何もイエスさまの十字架の出来事でなくても良いのです。一週間のテレビドラマの中にだって、そんな話はたくさんあります。 イエスさまの十字架の出来事は、単なる自己犠牲の出来事ではありません。そうではなくて、罪の贖いです。贖罪です。 自己犠牲的な愛に殉じた人は、イエスさまの他にも存在しますが、しかし、その死でもって、他人の罪を贖うことのできる人は存在しません。 ◇聖書に描かれる愛は、罪のあがない、罪の赦しということと、深く結びついています。 ヨハネの第1の手紙こそ、愛と罪の問題を主題としているのです。 1章5〜10節の箇所では、罪の告白と赦しが真の交わりの形成と重ねられて論じられています。真の交わりの形成、即ち愛です。これが罪の告白と赦しと結びついています。 2章1〜6節では、罪を犯した者の助け主と神の愛とについて、2章12節以下では、罪と愛、3章では、 … こうして見ますと、ずっと、罪と愛の問題が述べられています。 一番簡単に整理して言えば、神の愛とは、罪の贖いであり罪の赦しです。罪の贖いであり罪の赦しという面を忘れて、神の愛を見ても殆ど意味をなしません。 ◇神さまの慈愛、限りない優しさ、自己犠牲ということならば、それが人間の救いになるのならば、聖書よりもお経に盛り沢山にあります。私はお経は殆ど知りませんが、百喩経には、お釈迦さんの自己犠牲的な愛を描く話が無数にあります。トルストイが盛んにこれを用いて児童小説を書いていますから、私も知っています。日本の童話作家もこれを引用しています。 一番知られているのは、こんな話です。修行僧のために他の動物がいろんな貢ぎ物をしますが、ウサギには何も持ち物がありません。そこで、ウサギは自らを火に投じて、食べ物として捧げます。 このウサギこそ、お釈迦さんの前世の姿だったという話です。 ◇うるわしい愛の物語、信心の極まりとして伝えられていますが、これに反感を覚えるのは捻くれているからでしょうか。 ズバリ、この物語では救われたのはウサギです。来世に功徳を積んだのはウサギです。ウサギを食べた者には、食べないでしょうが、食べたとして、食べた人に救いはありません。むしろ、禍(まが)となって、来世を奪うかも知れません。 キリストの十字架の犠牲とは、根本的に考え方が違います。十字架は自己犠牲に強調があるのではありません。罪の贖い、救いに強調があります。 ◇やはり、イエスさまの十字架の出来事が先です。罪の贖い、罪の赦しが、先です。人間には初めから人間としての価値があり愛に値するのではなくて、イエスさまが十字架に架けられてまで人間を愛して下さったから、人間に愛されるべき価値が生まれたのです。 私たちが兄弟を愛するのは、愛さなければならないのは、その兄弟のためにイエスさまが十字架に架けられたからです。兄弟を否定することは、その兄弟のために十字架に架けられたイエスさまの愛を否定することになるからです。 ヨハネの手紙を読んで、先ず第1に私たちが心に刻むべきは、人間の深い罪のことです。そして、その罪を贖って下さった主の十字架の出来事です。そして、十字架の愛を、罪の赦しを、そのことへの喜びと感謝を、私たちは宣べ伝えるのです。 ◇ここ数週同じことを言っています。今日も、結論部は同じことを言わなくてはなりません。人間にはどうにもならない好き嫌いがあります。人に任せていたら、或る人のことは愛し、或る人のことは憎み、そして多くの人々に対しては無関心です。自分の感情に任せていたら、人は互いに愛し合うことなどできないに決まっています。 教会だって例外ではありません。世間よりも少しはましだということさえ言えません。そうではなくて、私たちは、私たちが愛することのできない者を、イエスさまが十字架に架けられてまで愛されたから、この人を愛します。イエスさまが、十字架の上から、互いに愛し合いなさい、互いに赦しなさいと命じておられるから、愛します。 |