日本基督教団 玉川平安教会

■2022年10月30日 説教映像

■説教題 「悪霊と豚と

■聖書   マタイによる福音書 8章28〜34節 


★大変に難解な箇所です。何が記されているのかは分かりますが、この出来事を通じて、何を言いたいのかが分かりません。そんな時には、とにかく順に読むしかありません。

 28節。

 『イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、

   墓場から出てイエスのところにやって来た。

  二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。』

 マルコ福音書の同じ記事を見ますと、『こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた』と記されています。

 以前に申しましたように、海とはガリラヤ湖のことであり、その『向こう岸』とは、単純に対岸のことではない場合があります。仏教ではありませんから、此岸・彼岸と言うのは妥当ではないかも知れませんが、とにかくに、単純な対岸ではなく、異質な所、別の世界、神の国、そういうことと重ねられている場合が少なくありません。ここでは、異質な所であっても、神の国ではなく、その逆、汚れた所、悪霊の支配する所でしょうか。

 『ガダラ人』については特に申し上げません。学者の間にも定説は無いようですし、これを特定することが、解釈の助けになることもありません。廃墟ないしは荒涼とした土地という舞台設定だと考えておけば、それで充分だと思います。

 『悪霊に取り憑かれた』についても、他の機会に詳しく申しましたし、ここでは特に触れません。唯、『海の向こう岸』の世界を『悪霊』が支配していた、そんな世界が存在するのだと読めばよろしいと考えます。

 『墓場』について、注解書を見ますとちょっと面白いことが記されていますので、簡単に触れておきます。 μνημα(ムネーマ)は、本来は記念物・記念の場所の意味、ここから墓の意味を持ち、更に、寂しい所、荒涼とした所となったのだそうです。確かに、墓と記念碑は同じ物かも知れません。

 このムネーマは聖餐式の、記念して(アナムネーシス)と同じ語源を持ちます。しかし、このことも全然解釈の手助けにはなりません。


★29節。

 『突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。

  まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」』

 何とも不思議、不可解な描写です。

 悪霊が、『神の子よ』と呼び掛けています。これが先ず不思議、不可解です。このような箇所ではこんな風に解説されます。著者がイエスを『神の子』と理解していて、それ以外の形容で呼ぶことが出来ないからだと。つまり、一番簡単に言えば、『神の子よ』と呼び掛けているのは著者であって、悪霊では無いと言うことです。しかし、他ではイエスと呼び捨てにするのが当たり前だし、悪口も、ふざけた形容も出て来ますから、ちょっと無理な解説だと、私は思います。少なくとも今日の箇所には当てはまりません。

 

★異邦人や悪霊に、間接的な仕方でイエスが神の子=キリストであることを証言させるのは、マタイ福音書と言うよりも、マルコ福音書の言わば文学的手法です。平たく言いますと、悪霊でさえ、『イエス』は『神の子』だと認めざるを得ない、それ程客観的で動かない事実なのだと主張していると考えられます。

 『かまわないでくれ』、マルコでは、『わたしはあなたと何の関係がありますか。』この表現が意味するのは、悪霊と神とは全く相反するものだということです。

 

★31節。

 『30:はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。

  31:そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、

  あの豚の中にやってくれ」と願った。

 豚は、律法で食用を禁止されていただけではなく、不浄と見做され、豚を飼育する者は軽蔑されました。ユダヤを占領したセレウコス朝シリアは、ユダヤ人に豚を食べることを強制し、このことによって、ユダヤ教信仰を捨てさせようとしました。

 その豚が飼育されていたのだから、この地は異教の地であり、飼育者は異邦人と見るのが妥当でしょう。


★難解な記事に、余計な難問を持ち出すことになりますが、指摘せずにはいられません。

 つまり、マタイ福音書でも、マルコ福音書でも、イエスさまは、遠くを通りかかっただけで、特に、悪霊を退治しようとはなさっていませんでした。わざわざ、悪霊の方から、イエスさまに近づき、『我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った』のです。悪霊の方から近づかなければ、見逃して貰えたかも知れません。何故、わざわざイエスさまの前に出たのでしょうか。

 それは、イエスさまが、この『ガダラ人の地方に着かれ』たからです。汚れた場所にイエスさまが足を踏み入れました。その瞬間に、この地は、ただの汚れた場所ではなくなりました。もはや、悪霊の住むべき地ではありません。


★先週の箇所と重ねて読まなくてはなりません。

 教会に準えられるべき舟が、この世に準えられるべき海に漂っています。海は嵐です。しかし、『イエスは眠っておられた。』と記されています。

 『湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。』のに、

 『弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。』

のに、イエスさまは眠っておられました。

 イエスさまがおられる所は、つまり舟の中は、嵐の海ではありません。嵐の海に漂っているように見えても、そこは嵐の海ではありません。

 今日の箇所と同じ構造です。イエスさまが足を踏み入れられたからには、そこはもはや穢れた土地ではありません。悪霊が住める場所ではありません。

 悪霊は、汚れた場所にいられなくなったので、むしろ、穢れた場所ではなくなったので、汚れた動物の中に入ろうとします。汚れた者は汚れた住家を必要とするのです。


★32節。

 『イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。

   すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。』

 豚が溺れ死んでしまっては、悪霊も居場所を失います。ですから、理屈から言っても、『崖を下って湖になだれ込』んだのは、悪霊の意思ではありません。

 豚のような不浄な生き物でさえ、汚れた霊が入り込むことを命懸けで拒み、結果、自分の命を落としてしまいました。

 にも拘わらず、平気で汚れた霊と同居する者がいるという痛烈な皮肉が描かれているのでしょう。豚は汚れてなどいない、真に汚れているのは、悪霊と一緒に住むことに抵抗を覚えない者だと、こういう風に読むことも出来ますでしょう。

 『だれもその辺りの道を通れないほどであった』とありますから、共存などしていないと読むことも出来ますでしょうか。少し距離を置いて共存しています。棲み分けと言ったら良いでしょうか。


★そして、これは34節に直結します。後半だけ読みます。

 『イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。』

 神の奇跡よりも、汚れから清められることよりも、魂の救いよりも、経済的な利害の方が優先すると言うことでしょうか。それとも、神の業を神の業と理解することが出来ずに、まがまがしいものとしか捕らえられないと言うことでしょうか。何れにしろ、イエスさまの業に、ただ恐れをなし、敬遠する者がいました。そして、それはガリラヤでもユダヤでも今日の日本でも同じことです。

 イエスさまが救いの手を述べて下さらないのではありません。その手を拒んでいるのです。悪霊と一緒に暮らす今の生活を愛おしんで、変えられたくないのです。


★飛躍した解釈でしょうか。決してそうではないと思います。悪霊と暮らすことを、少なくとも、折り合いを付けることを望む人々が多いのです。

 松江で、統一原理の被害者救済に関わっていた時のことです。被害者を救うために、説得しなければなりません。しかし、そもそも会っては貰えません。統一原理と関係を遮断した所でしか、説得は出来ません。どうしても、家族等の協力が必要です。と言うのもおかしい話ですが、本来は悩む家族のために牧師が、協力するのです。

 しかし、実態は、先ず大抵母親ですが、この人を訪ねて原理の怖さを教え知って貰い、それから、救出に協力して貰えそうな、家族親族や友人たちに、集まって貰います。その場で、統一原理の罪の現実、その怖さについて説明します。それだけで数時間も要することがありました。

 それでも取り合って貰えないこと、話を信じて貰えないことがあります。少しでも関心を示してくれた人に限定して、更に何時間もかけます。証拠も見せます。原理から脱出出来た証人も立てます。


★やっと、理解して貰えました。そうしますと、協力できないと、その場を離れる人があります。とても適わない、怖い、名前を上げて指摘された政治家と関わりがある、それが理由です。この人たちは、そこで諦めます。家族の或いは一族の娘を、見放して、犠牲にして、自分の安全を確保するのです。

 こんな人もいます。「息子は、原理の教会の中で、どのくらいの収入があって、どの程度の生活が出来るのでしょうか。」

 親心と言えば親心には違いありません。しかし、例え加害者であっても、暮らしが立つのか、それが一番の心配なのです。それでは、暴力団に入っても、「どのくらいの収入があって、どの程度の生活が出来るのでしょうか。」と問うのと同じことです。何度も申しますが、統一原理は宗教ではありません。ただの詐欺集団です。

 親心だとしても、とても容認出来ないことです。

 

★このような考え方をする人は、悪霊と共存しようとしていることになります。

 有名な美人のタレントが、原理に入信し、それがニュースになった時には、問い合わせの電話がありました。その中には、どうしたら、統一原理に入れるかと言う問い合わせもありました。統一原理に入って、美人タレントと結婚したいということでしょうか。

 こんな事例を挙げるまでもなかったかも知れません。多くの政治家が、いろいろと弁明はしますが、要するに、悪霊と共存していたことが暴露されています。


★33節に戻ります。 

 『豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、

  悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。』

 これは、皮肉です。皮肉なことです。イエスさまが穢れた土地に入って来た時に、それに気づき恐れたのは悪霊でした。そして、悪霊が滅びたことを町の人々に知らせたのは、豚飼い、つまりは当時は町の人々に卑しめられていた豚飼いです。一種の伝道です。

 このような図式は、福音書の中にたくさん出て来ます。信仰しないばかりか、敵対する存在が、イエスさまをキリストと言ったり、結果的にイエスさまの業を人々に知らせたりします。極め付けは十字架の場面です。

 『28:そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、

  29:茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、   「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。』

 27章37節。

 『イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」

  と書いた罪状書きを掲げた。』

 このような狼藉を働いた人たちは、結果的に、イエスをユダヤ人の王としました。


★34節。

 『すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。

  そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。』

 話は元に戻ります。この土地の人々は、悪霊と共存していました。豚に象徴される罪・汚れと共に生きていました。

 その彼らが、『イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った』、イエスさまとは共存したくないと言うのです。罪から解放し、汚れを除き、平和をもたらす人とは、共存したくないし、共存出来ないのです。元の生活の方が、心地良いのです。


★罪とは何か、とてつもなく大きなテーマですが、このように説明することも出来ます。罪とは、必ずしも何かしらの悪いことを行うことだとは言えません。何かしらのなすべきことを怠ることだとも言えません。むしろ、罪の中にいて、そこで居心地が良いこと、痛痒を感じないことこそが罪です。罪を罪とは感じないことこそが罪です。

 祭り上げるという言葉があります。神さまとして崇めるという意味ではありません。距離を置いて、適度に関わるというのが、この言葉の意味です。悪霊と共存する人々、或いは棲み分ける人々は、イエスさまをも祭り上げ、棲み分けるのかも知れません。

 私たちは、イエスさまを祭り上げるために、礼拝しているのではありません。