日本基督教団 玉川平安教会

■2022年3月13日 説教映像

■説教題 「わたしである

■聖書   ヨハネによる福音書 18章1〜11節

◇今日の個所の末尾、10〜11節から読みます。

 『シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、

   その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。

   イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。

   父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」』

 同じ場面を、マタイ福音書は次のように描きます。

 『51:そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、

   大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。

  52:そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。

  剣を取る者は皆、剣で滅びる。』

 剣を抜いたのはヨハネ福音書ではペトロ、マタイ福音書では『イエスと一緒にいた者の一人』で特定されてはいません。ルカ福音書もマルコ福音書もほぼ同様で、名前は上げられていません。


◇ヨハネ福音書が、剣を抜いたのはペトロだとしているのは、ペトロに敬意を表した結果だと言う人がいますが、本当かどうかは、ヨハネに聞いて見なければ分かりません。

 『剣を取る者は皆、剣で滅びる』というとても印象的な言葉は、何故かマタイ福音書だけにあります。これについては、当時の諺のような言い回しであって、マタイ福音書が付け加えたものだとか、マタイよりももっと後の人が写本する際に付け加えたものだと言う説もあります。


◇福音書の、とても大事だと思われる場面で、4つの福音書に、少なからぬ異同があります。中には矛盾と言わなくてはならない相違もあります。「だから、福音書は信頼出来ない。史実かどうか疑わしい」と批判的に見る人がいます。

 私はそうは考えません。逆に4つの福音書が、口裏を合わせたようにぴったりと一致していたら、それは史実かどうか疑わしいと考えます。それぞれが、自分が見たこと聞いたこと、解釈したことを記しています。だから、必ずしも一致しません。

 4人の新聞記者が、同じ場面を報道したとしても、4人の記事が、全く一致する訳ではありません。4人とも本当のことを書いているからこそ、必ずしも一致しません。これが大本営発表ならば、細かいことまで、完全に一致するでしょう。そんな報道は、おそらく嘘っぱちです。


◇そもそも、一番後から記されたヨハネ福音書は、他の3つの福音書を読んでいると思います。その上で、記しています。ヨハネなりの考え方、認識があるからです。ヨハネが剣を抜いたのはペトロだとしているのも、出来事について、ペトロについての情報、ヨハネなりの理解があるからだろうと思います。この理解については後でまた申します。

 そもそも、4つの福音書が肝心な場面で一致しないことが不都合なことならば、初代教会で聖書正典が定められた時に、いくらでも調整できた筈です。当時の教会も、そのような必要を全く感じていません。

 4つの福音書を矛盾がないように調整して新しい福音書を創ることも、簡単に出来た筈です。それは5番目の福音書として、最も権威ある福音書になったかも知れません。しかし、そんな福音書は存在しません。必要がなかったからです。

 それが記されたのは、19世紀も終わりになってからです。トルストイの『要約福音書』です。これが権威を持ち、人々の心に響くことは決してありませんでした。


◇本当は無駄な話が長くなりました。全く省略しても良い話なのですが、「福音書は信頼出来ない。史実かどうか疑わしい」と批判する人が現実にいますから、そのような理解がややもすれば教会に入り込みますから、無駄とは思いつつも、お話ししました。

 4つの福音書の相違点よりも、一致する所に目を向けなくてはなりません。 

 一致するのは、この点です。

 イエスさまは、剣を押さえました。捕縛に来た者に対して、全く抵抗しませんでした。

これが一致点で、これが最も大事なイエスさまの教えです。


◇イエスさまが抵抗されなかった理由は、勿論、十字架の道は避けられないもの、避けてはならないもだからです。イエスさまの十字架だけに人の救いがあるからです。

 もう一つの理由が上げられています。8〜9節です。

 『8:すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。

   わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」

  9:それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と

   言われたイエスの言葉が実現するためであった。』

 『この人々は去らせなさい』、

 『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』、

これがヨハネ福音書の強調点であり、基本、他の3つの福音書も同じです。


◇十戒に『殺してはならない』とあります。聖書の教えの根本の根本です。しかし、この最も基本的な戒律は、キリスト教の国でも、教会の中でさえ、尊重されて来たとは言えません。殺しても良い理由を、殺さなければならない理由を、キリスト教の国でも、教会でさえも、たくさん拵えて来ました。殺しても良い理由、殺さなければならない理由は一杯数え上げられています。この理屈の方が、『殺してはならない』よりもずっと説得力を持ち、遙かに人気があります。

 中世の教会では、神父が短刀や、杖で武装していました。杖は、とても普通の杖ではありません。人の頭をかち割ることが出来るような武器です。それが必要な時代だったのかも知れませんが、『殺すな』という戒律が重要視されていなかった証拠でもあります。


◇私は常々思います。『殺してはならない』よりもずっと大事な戒律があると思います。聖書には記されていませんが、こういう戒律です。『人を殺させてはならない』です。

 殺人は罪です。しかし、10人を殺せば豪傑として評価され、100人を殺せば英雄として歴史に名を残します。ならば、10人を殺させた人は、100人を殺させた人はどうなのでしょう。織田信長は、何人を殺したでしょうか。何人を殺させたでしょうか。歴史に名を残す英雄で、今でも他の戦国武将を圧倒する人気があります。

 しかし、20世紀の英雄たちは、この比ではありません。信長の10倍100倍を殺させた人が実際にいます。ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポルポト、他にもいます。

 中国古代の思想家墨子は、このような人を殺す英雄を否定し、絶対的な平和を説きました。紀元前5世紀の人です。

 これよりも早く、戦争を否定したのは第一イザヤです。紀元前8世紀です。

 第一イザヤを論じる時間はとてもありませんから、大胆と言うよりも乱暴な程に割愛して申します。

 第一イザヤは、国が滅びるという危機に、武器を取って戦うことを放棄せよと言いました。国が滅びても、信仰を持った人が生き続けるならば、信仰が守られ、やがては国をも再建することが出来る、死んでしまったならば、何もかも滅びる、国の復興もないと。絶望的な戦いに身を投じてはならないと。

 この思想が最も顕著に言い表されているのが、イザヤ書2章です。4節。

 『主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

  彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。

  国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない』


◇6節に戻って順に読みます。ここは4年前の説教と重なります。重なりますが、同じことを言わないではいられません。4分の1に端折って申します。

 『イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた』

 『イエスが「わたしである」と言われた』ら、イエスさまを捕らえに来た者たちは、まるで魔法に打たれたかのように、その場に倒れ込んでしまいました。

 これは、何を表現しているのでしょうか。

 『わたしである』と言うギリシャ語には、「エゴーエイミ」という表現が用いられています。英語の聖書を見ますと、I amです。ただ、I amですから、直訳すれば、『わたしはある』となります。この用語自体が、ヨハネ福音書の神学用語であり、神学概念であり、『あってある』とか『存在』『存在の根拠』とか、いろんな表現、いろんな言葉・術語がここで用いられ、説明されます。

 

◇同じ言葉が、ヨハネ福音書4章26節の所謂スカルの井戸で語られます。ヨハネ福音書6章20節で、イエスさまが『湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て』、弟子たちが恐れた時にも、繰り返されます。イエスさまは言われました。『わたしだ。恐れることはない』。『わたしだ』が、エゴー・エイミです。

 『わたしだ』つまり、イエスさまが共に居るから安心だと言われています。エゴー・エイミは、平安の、そして救いの根拠となる言葉です。


◇今日の個所と併せて、3回のエゴー・エイミ、これに共通することは、先ず、人々は圧倒されます。打ちのめされます。跪いて、許しを憐れみを請うしかありません。

 イエスさまがその姿を顕されることによって、先ず、恐怖が引き起こされます。

 そして、『恐れることはない』という言葉が続いて与えられることによって、イエスさまが共に居るから安心だと、究極の安堵、心の平和がもたらされます。

 このことは、ヨハネ福音書に限りません。4つの福音書2共通しています。その中でも、ヨハネが、このことを強調して描いているように思います。


◇4っ目のエゴー・エイミを上げます。8章58節。

 [イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、

  『わたしはある。』]

 『わたしはある』がエゴー・エイミです。ここでは、イエス・キリストとしてこの世に誕生する以前から、およそ、世界創造の時から、キリストは、神と共にあったということが述べられています。エゴー・エイミは、キリスト告白、救いの確かさ、そういったことと重ねられて語られているのです。


◇6節でエゴーエイミと言われると、イスカリオテのユダをはじめ、イエスさまを捕らえに来た者たちは、倒れてしまいました。この表現からだけでも、エゴーエイミとは単純なものではなく、特別の意味合いが込められた言葉であることが分かります。

 ヨハネ福音書13章27節。

 『イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。

  それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。  27:ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。

  そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた』

 イスカリオテのユダに、サタンが入り込んでいました。18章5〜6節のエゴーエイミと言う言葉は、呪文のように、ユダの中にいたサタンを撃ち倒したのです。それだけの力、それだけの意味を持った言葉なのです。


◇復活のイエスさまは、マグダラのマリアにその姿を現され、このように仰いました。

 『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』

 人間はキリスト・救い主を捜して呻き、もがいています。そのことが言い表されていると考えられます。逆の視点から見れば、キリストを捕らえ、十字架に架けたのは、キリスト・救い主を捜して呻き、もがいている人間なのです。もしかすると、イスカリオテのユダもその一人なのです。そして、私たちもまた、その内の一人なのです。


◇その私たちにこそ、イエスさまは、語りかけて下さるのです。

 「エゴーエイミ」『わたしである』

 どんな悩みに苦しんでいても、病の床にあっても、「エゴーエイミ」『わたしである』というイエスさまが語りかけて下さる言葉を聞くことが出来ます。

 心に平安を取り戻すことが出来ます。


◇8〜9節。

 『すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。

   わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」

  9:それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も

   失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。』

 イエスさまには、弟子たちを、人間を盾にしてご自分を守るなどという考えはありません。この点だけでも、大いに注目すべきでしょう。世の宗教家が、政治家が、軍人が、国民を盾にして自分を守るという現実があるからです。

 『剣をさやに納めなさい』がイエスさまの言葉です。剣を抜く口実、抜かなくてはならない理由は無数に上げることが出来ます。剣を持った人が戦場に10000人いたら10000通りの理由があります。剣を抜いてはならない理由もたくさんあるかも知れません。しかし、私たちが剣を持たない理由は、『剣をさやに納めなさい』というお言葉です。