★白河教会員で、お米を作っている人がいます。この田んぼの稲は、文字通りの完全無農薬です。また、有機肥料のみを使っています。農機具もあまり使いません。狭い田で、機械を入れづらい理由もありますが、むしろ、この人の信念です。全て手作業です。 その時に大変なのは、雑草を抜くことだそうです。殆どの農家は、薬品を使います。彼は、一本一本、自分の手で、手だけで抜き取ります。一昨年、この田を見せて貰いました。田の近くの空き地に、稗や粟の類いが、山になっています。その場所の、3反歩ばかりの畑から抜いた稗粟が、山のようになるのです。 稗粟など、普段全く見掛けることはありません。しかし、その種が、どこからか入り込んで、稲に混じってしまいます。大変な生命力だと感心します。それだけの生命力がある植物ですから、これを食べたら、お米以上に栄養になりそうですが、いかがなものでしょう。流行の五穀米には、入っていると思います。 ★大曲教会には農家が計18軒もありました。お米も作ります。この田んぼの真ん中に、特別な田んぼがあります。そこだけが、無農薬です。その周囲の田には農薬を散布します。農薬の田に囲まれた無農薬の田で育ったお米は、自分たちが食べる分です。東京に出ている子や孫には、この無農薬のお米を送ります。 農薬を使っている農家は、農薬の怖さを、知っているのです。周囲が全部農薬付けの畑だから、その真ん中の無農薬の畑にも、虫は出ません。 この集落は17軒全員が大曲教会員です。お盆の頃、墓前礼拝を持ち、その後、教会の庭で、教会のお祭りをします。その話は、今日は我慢しまして、省略します。お話ししたいのは、夜の集会の時のことです。田んぼの中に教会があります。ふと気付いたら、蚊が一匹もいません。蠅も見ません。イナゴも何も、虫一匹いません。 その事実を知ると、食べる側の私たちが怖くなります。我が家では、島根の知り合いから分けて貰うお米と、紹介した白河教会員が毎年送ってくれるお米だけを食べています。 ★玉川教会員に、カンボジヤの田舎で小学校建設に携わっている人がいました。この人は、カンボジヤに戻る時に、ケイルの種を持ち帰りました。厳密には違法かも知れません。このケイルが数年後には、小学校の周囲に無数に生えました。 虫が付くでしょうと心配したら、小学生の人手はいくらでもあるとのことでした。子どもたちは、競争のように虫を見つけ捕らえるそうです。 この地は、雨期になると水に浸かってしまいます。ですから、大抵の野菜は水没して育ちません。勿論、キャベツは駄目です。ところがケイルは背が高いものですから、水没を免れ、日本のケイルの倍の背丈なり、倍以上の葉を付けます。貴重なビタミンになるそうです。その内、この畑のケイルが青汁に加工されて、日本に輸入されるかも知れません。 このケイルの種は、玉川の我が畑から採れたものです。更にその出自は、松江にあります。これは、かなり自慢の種です。 ★3つもの例を上げました。諄かったかも知れません。本題に入ります。 24〜26節。 『ある人が良い種を畑に蒔いた。 25:人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 26:芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。』 『人々が眠っている間に』、正にその通りです。畑作を経験した人なら誰もが実感します。人間が眠っている間も、雑草は育ちます。休むことを知りません。とても適いません。雑草のしぶとさと言ったら、『敵が来て … 蒔いて行った』としか思えないくらいです。一体、雑草の種はどこから、どうやって来るのでしょうか。『敵が来て … 蒔いて行った』としか思えません。 ★27節。 【僕たちが主人のところに来て言った。 『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。 どこから毒麦が入ったのでしょう。』】 全く僕たちの言う通りです。『どこから毒麦が入ったのでしょう』。サタンの仕業でしょうか。 トルストイに『地獄の崩壊とその復興』という短編があります。イエスさまの福音が語られたことによって、サタンは自分たちの時代は終わったと考えます。親分のベルゼブルは、地の底深く潜ってしまいます。ところが時が経って、地上が騒がしい。ベルゼブルが地の底から出て来ると、地上はイエスの福音によって平和になるどころか、以前にも増して争いに満ちていました。 ベルゼブルは子分のサタンを呼び出し、次第を聞きます。サタンは答えます。「親分は隠れてしまうし、もう終わりだと思いました。イエスの福音は、単純明快で、曲げることは出来ません。そこで、偽福音の種を無数に蒔きました。その結果、人間は、本物と偽物との区別が出来ず、むしろ、偽福音が蔓延っています。」 世の中の、そして教会の中でも起こる争いの種は、サタンが蒔いたものかも知れません。 ★28節前半。 【主人は、『敵の仕業だ』と言った。】 主人とは神さまの比喩でしょうから、『敵の仕業だ』とは正しくサタンの仕業でしょう。 28節後半。 【そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと】 もっともです。早い内に抜かないと、肝心な麦の栄養を奪い、光を遮り、成長を妨げてしまうでしょう。 主人が神さまの比喩なら、畑は教会の比喩でしょう。教会に生えてきた毒麦も、抜かなくてはなりません。 最初は、畦かそれに近い所に生えます。しかし、放っておくと、どんどん畑の中に進出して来ます。あらゆる異端はそうです。端っこの方にあるからと、油断していてはなりません。なるべく早く、抜き取らないと手遅れになります。 ★29節。 『主人は言った。いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもれない。』 これも、もっともです。 雑草の除去には、農薬が一番効果的です。しかし、先ほど申しましたように、農薬を使うと、或いは使い過ぎると、作物全体が毒になってしまうかも知れません。 ★トルストイの同じ本に、『名付け子』という作品も収められています。 その中の小さいエピーソードです。 畑に、仔牛が入り込んでしまいました。畑の持ち主は、これを追い立てようとします。仔牛は興奮して、暴れ、畑の田の畝を踏みにじります。そこで人手を増やして、取り押さえようとしますが、逆に仔牛は暴れるばかりです。畑の被害はどんどん拡がります。 様子を見ていた主人公の『名付け子』がアドバイスします。 「かえってそのままにしておきなさい。」 少し静まったところで、仔牛の飼い主のご婦人が、声をかけると、仔牛は温和しく、婦人のもとに寄ってきました。 ★30節前半。 『刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』 『刈り入れ』とは、終わりの時の神の裁きを比喩しています。 主人つまり神さまは、麦も毒麦も、育つままにしておきなさいと言います。 かなり強い言葉です。毒麦は放置されるのではありません。育つのです。麦と同じように、もしかしたら、麦以上に背丈を伸ばし、肝心の麦の栄養を奪い、光を遮り、成長を妨げるかも知れません。それでも、それを承知で、『両方とも育つままにしておきなさい』と言います。 ちょっと危機感が足りないような気がします。譬え話の中の神さまとは言え、不敬かも知れませんが、生温いと不満を言いたくなります。 ★30節後半。 『刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、 麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。」』 これも比喩的に説明した方が分かり易いでしょう。 『刈り入れの時』とは、先ほど言いましたように、世の終わりの裁きの時です。 『まず毒麦を集め、焼くために束にし』、毒麦は偽の麦、異端のことでしょう。彼らは、畑の中で育ちます。しかし、それは束にされて焼かれる定めです。 世の終わりの裁きの時には、必ず焼かれるのです。これを確信していれば、何故神さまは悪を放置されるのかと、つぶやくことは出来ません。 ★最近、繰り返しお話ししますが、統一原理問題と関わっていた時、本当に躓きを覚えました。どうして、あのようなインチキ宗教が、若い者に受け入れられるのだろう。どうして、政治家はあの詐欺を放置するのだろう。どうして、マスコミも消費者センターも、見て見ぬふりをするのだろう。 何より、神さまが早く彼らを退けないと、被害は増すばかりなのに、何故と、躓きました。結果は、やる気をなくしました。統一原理とは一切関わりたくないと思いました。 白河と松江とで、計30件以上に関わり、10人ばかりは、所謂救出に成功しましたが、もう沢山だと思いました。雑草のように、抜いても抜いても、次々と出て来るからです。 東京にまいりましてからは、具体的な救出活動はしませんでした。 ただ、教団新報の責任者になりましたし、その次は出版局の責任者になりましたから、知らんぷりは出来ず、統一原理問題連絡会は取材したり、同席したりしていましたが、全くやる気は回復しませんでした。 ★統一原理問題に関わると、膨大な時間を取られます。気持ちを奪われます。それ以上に、気持ちが削がれます。人間に対する不信感、時に嫌悪感が生まれます。 私は、逃げ出しました。教団新報以来、とてもそんな時間も心の余裕もなくなりました。 ですから、これに取り組み続けている牧師たちには頭が下がります。絶対に必要な働きです。 ★白河の時に、時間を戻します。教会員の中に、80歳になる、とても小柄なご婦人がいました。自宅の庭で、沢山の草花を育てていました。 私は当時草花に凝り、400坪ある敷地の至る所に、アジサイやらバラやらを植えました。それぞれ70株、24株だったと記憶しています。 撫子を育てたいと思いました。京都から高い高い種を仕入れ、説明書の通りに育てました。芽は出たものの数週間後、絶え果てました。絶望的落胆です。 しかし、件のご婦人にも少し種を分けていました。これは、順調に育ちました。苗が里帰りし、花を付けました。改良品種で、他の撫子とは全く比較にならないような、深紅の花を咲かせます。輝くばかりの赤です。あれほどの深紅は、バラでも適いません。 この人に、花を咲かせるこつについて教えを請いました。彼女が言うには、「かわいいお花を咲かせてね」と、草花に語りかけるのだそうです。 ★この撫子は、それっきりでした。改良品種で、種は出来ません。一年きりです。 翌年また種を購入すればよろしいのですが、実現しませんでした。 理由は、先のご婦人の草花が全滅したからです。ならば私には到底無理です。 話を拡げないように端折って申しますが、これは専門家の診断です。葉が枯れた原因は、お世話のし過ぎだそうです。特に、お花のためにと、丁寧に丁寧に雑草を抜きました。このために、土が水分を蓄えることが充分に出来なくなったのだそうです。 全く無用、害にしかならないと思われている雑草にも、役立つ面があるのだそうです。 また、過剰に世話を焼くと逆効果だという教訓かも知れません。 ★聖書には、試練こそが人間を鍛える、試練に躓いてはならないという話が無数に出て来ます。その通りなのでしょう。神は何故悪を放置するのかと、正直思いますが、しかし、その思いをつのらせると、神への不信となり、反発となり、最後には悪となります。 アウグスチヌスはこんなことを言いました。 『教会も人間の集まりなのだから、そこには間違いも罪も生まれる … と言うのではない。間違いも罪も生まれる人間の集まりだから、そこは教会なのだ』 信仰的で、模範的な人間だけが集められ、毎日毎日、清く正しい行いだけが繰り返される、そんな教会はありません。過去の修道院はそれを目指したかも知れません。そのためには、一切この世と遮断し、自分たちだけの純血・清潔を守ろうとしたかも知れません。しかし、そんなことは実現しません。実現したとしても、それは教会ではありません。 一方で、毒麦も雑草も教会の中で、神の国で市民権を与えられ、大いばりできるのか、毒麦は何時までも栄えるのか … それはありません。 『刈り入れの時、 … 集められ、焼くために束に』されます。 |