★15〜16節。 『「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。 むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 16:熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、 わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。』 舌が焼けるかと思う程に熱くなければ、値打ちの下がってしまうものがあります。食べ物にならば沢山の例を取ることが出来ますでしょう。逆に、キンキンに凍る程に冷えてこそ、値打ちあるものがあります。これも、飲み物にならば、幾つもの例を取ることが出来ますでしょう。直ちに思い浮かべて頂けるものと思います。 ★冷たくもなく熱くもない、生ぬるい方が良いもの、これも例を挙げるのに、困るようなことはありません。むしろ、大概の食べ物、飲み物は、冷たくもなく熱くもない、ほどほどが良いと思われます。特別に熱い方が好まれるのは、何よりも冷たいことが大事なものは、限られたものに過ぎません。 ★宗教や思想についても、同様かと思います。極端に冷たいもの或いは熱いもの、これは人を魅する力があります。しかし、長続きするのは、冷たくもなく熱くもない、生ぬるいものです。 『チップス先生さようなら』で知られるジェームズ・ヒルトンに、『失われた地平線』という小説があります。何れも映画にもなっています。ご存知の方が多いかと思います。 『失われた地平線』は伝説の「シャングリ・ラ」を舞台としています。ここに登場する宗教は、冷たくもなく熱くもない中庸を、徹底して重んじます。その徹底振りは、「この教えをあまり信じ過ぎてはならない」と言う程です。そこまで中庸を強調するのは、かなり極端であると言うしかありません。 ★私はかっと熱いお風呂が好きです。生温い風呂ならば、入らない方がましなくらいです。 栃木県の那須に、鹿の湯という温泉がありますが、ここは、一番ぬるい湯船が42度、一番熱いのは48度です。 私は44度から初めまして、48度の湯に、一瞬、30秒くらい浸かることができるまで、3年かかりました。これが、何とも、気持ちが良い。生温い湯では、こうはまいりせん。 ★しかし、健康には、生温い方が良いそうです。39度くらいの湯に、30分から40分も浸かるのだそうです。私は、それなら入らない方が良いと思いますが、実戦している人も少なくないようです。 温泉を巡っては、大いに議論がありまして、生温いからこそ、長く入っていられる、熱い湯ではそうは行かないという意見も、無視は出来ません。更に、生温い湯に長く入った方が、湯冷めしないのか、うんと熱い方か良いのか、両論あるようです。 ★さて、食べ物や温泉の話をこれ以上していては、ひんしゅくを買うでしょう。 肝心の聖書の話です。17節。 【あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。 何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、 目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。】 話は、食べ物、飲み物、まして風呂のことではありません。人生そのもの話です。 ★『満ち足りている。何一つ必要な物はない』 心から、そんなふうに思うことが出来たならば、言うことが出来たなら素晴らしいことです。羨ましい限りです。… しかし、それはあり得ませんし、それは許されません。 自分自身一人のことならば、それでも良いかも知れません。しかし、私たちの周囲を見渡せば、飢餓があり、病があり、戦争があり、泣き叫ぶ子どもたちの姿があります。そういう世界の中で、『満ち足りている。何一つ必要な物はない』そんなふうに言う人は、決して敬虔な信仰者ではありません。それどころか、独善的な人です。 エアコンがあって、寒くも熱くもない、しかし、それは、この人の部屋の中だけのことです。 ★それでも、一人のひとりの部屋が完全に満ち足りて、この部屋が二つ三つと増えて行くのならば、それもまた、真の豊さへの道筋かも知れません。しかし、それは現実と違います。 百喩経というお経の中に、黒白二鼠の譬えと言われる話が載っています。 旅人が荒野を歩いていると、荒れ狂った大きな象が現れ、襲ってきました。周りには逃げ隠れたりするところがありません。やっと古井戸を見つけました。 そこに垂れ下がっている藤蔓を伝って逃げ込み、ほっと一息つきました。しかし、井戸の底を見ると、大蛇が、とぐろを巻いていました。 旅人は、藤蔓にしがみついたまま身動きも出来ません。 そこに、白鼠と黒鼠が出て来て、藤蔓の根元をかじり始めました。 ふと気付くと、藤蔓にあった蜂の巣から、蜜が滴り落ち口の中に入りました。旅人は、蜜の甘さに一瞬全ての恐怖も忘れて、蜜を味わいます。 人生とはそのようなものだと言うお経の教えです。 ★このお経が言うのは現実でしょう。そしてキリスト者にも、残念ながら全く当て嵌まります。 17節の後半。 『自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、 裸の者であることが分かっていない』 そのような人は、真の救いの道から、吐き出されてしまいます。 『自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない』者は、そのことを知らないからこそ、『惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者』なのです。この人は、現実が見えない、自分が見えない人に過ぎません。 ★17節の前半。 『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』 ラオディキアの教会員が、実際にどのような生活・信仰を持っていたのか、詳細は分かりません。分かっていることは、直接にここに記されていることです。彼らは裕福でした。経済的に余裕があるという根拠だけで、信仰的な欺瞞に陥って、精神的・信仰的には少しも、豊かではありません。豊かではないのに、豊かだと思い、他の人の苦しみが見えず、心そのものが貧しくなっていたのです。 ★私には、このラオディキアの教会員と、つい先日までの日本人とが重なって見えます。 この頃、経済の失速、若者の貧困が表面に出て来ました。だんだん深刻な問題になっています。老後貧困と言う言葉も生まれました。貧しさを感じざるを得ない世の中になっています。 しかし、それ以前は本当に豊かだったのでしょうか。豊かだったとしたら、何故貧困になってしまったのでしょうか。やはり、本当には、豊かではなかったのだと思います。 例えバブルの時代であっても、心はどんどん余裕がなくなり、貧しくなり、だんだんに心に隙間が出来、その隙間に、欲望という名前の醜い思いが入り込み、気付いたら、心の内側にも、体の外側の貧しさが、染み込んでしまったのではないでしょうか。 ★18節。 『そこで、あなたに勧める。 裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。 裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、 また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。』 順番を逆に読みます。 『見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい』、つまり、あなた方は本当には見えていないと指摘しています。良く見通し、何事にも対処出来るように思っている、将来設計も盤石だと考えている。けれども、肝心なことが見えていないと言います。見えていなかったからこそ、設計が狂い、破綻を迎えます。バブルの時代、物が溢れているようでいて、一番肝心な、未来がなかったのです。国も、一人ひとりの国民もです。 ★『裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い』 若いお嬢さんは、着飾って、美しさを競っているつもりかも知れませんが、実は、恥を曝しています。醜さを露わにしています。着飾る人に本当に必要なものは、『身に着ける白い衣』です。醜さを隠す衣こそがあなたに必要なのだと言う、痛烈な皮肉です。 『火で精錬された金をわたしから買うがよい』 『精錬された』とは、何度も試練によって焼かれ、それに耐え、純度を増すことを意味します。身の回りにいろんな物を集め、積み重ねることではありません。それは、むしろ純度を損なうことであり、つまりは、値打ちのない者に成り下がることです。 ★19節。 『わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。 だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。』 神さまは人間を鍛えるために、試練、災いを下されるとは思いたくありません。しかし、誰もが免れ得ない辛い出来事に出遭った時に、これを試練と受け止め、教訓とするか、教訓・試練に出来るかが、問題です。心を精錬し、純度を高めることが出来るかです。 『悔い改め』とは、単に懺悔ではありません。後悔ではありません。人生の道の方向転換を意味します。人生の道を神に、正しい方向にむけることです。 ★20節。 『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて 戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、 彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』 『食事』とは、神の国の食卓です。そして、聖書の中で食事とは、神の言葉をいただくことを指します。礼拝です。 ★仏教では、仏壇にお供えをします。丁寧な人は、朝晩、ご飯をささげます。お花も上げます。私の郷里の秋田では、それも一昔前のことかも知れませんが、葬儀の後では、大勢で飲み食いしました。秋田ですから、お酒も出ます。お通夜で、葬儀の後のなおらいで、3日目にも7日目にも、法事と言って、実は盛んに飲み食いします。 決して批判はしません。故人を偲び、故人にもっとご馳走して上げたかったという思いならば、理解出来ます。しかし、一種の見栄であり、これを大人数で大々的に行うことが社会的ステータスです。そこには愛する人を失った悲しみさえ入り込む隙間がありません。 ハブルです。いろいろな物を持ち込んで、結果肝心な物が覆い隠されてしまう、見えなくなってしまうのではないでしょうか。これは非難ではなく、警告です。 ★教会では、葬儀でも、記念会でも、聖書が読まれ、御言葉をいただきます。神の国の食卓に着くという意味です。あまりいろんな物がありますと、肝心な物が見えなくなりますから、何も飾り付けはしません。ごくシンプルです。特に捧げ物はありません。捧げるのは、心の思いです。お集まりの皆さんの一人ひとりの思いですから、シンプルに見えて、貧しいように見えて、実は、沢山の物が捧げられています。一人ひとりに一人ひとりの思いがありますから、この捧げ物は、実に彩り豊かです。 ★22節。 『勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。 わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。』 『自分の座に共に座らせよう』これが、戦い抜いた者に、試練を潜り抜けた者に、ざっくりと傷付き、或いは倒れた者へのご褒美です。勲章です。 この世では、何かしらの分野で成果を上げた人が顕彰され、特別の宴に招かれます。 キリスト教信仰でも同じことです。顕彰され、特別の宴に招かれます。それが、この召天者記念礼拝です。 ★最後に、冒頭の15〜16節に戻ります。 『あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、 どちらかであってほしい。16:熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、 わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。』 火で焼かれるような、激しいそして辛い人生を送り、そして召される人があります。今日の名簿の中にもあるかも知れません。凍り付くような、厳しい寂しい人生を送られた方もありますでしょうか。あるかも知れません。 生温い人生を送った人は、 … 多分、いないのではないでしょうか。聖書に逆らうようなことは言ってはなりませんが、一生の間、ずっと生温い日々を送ることが出来たら良いかも知れません。羨ましいとさえ思います。しかし、そんなことは叶いません。特別辛い出来事などない生温い日々が、10年と続いた試しはありません。どこの国でも、どの時代でも。誰でも。 焼けるように熱い日々を送った方が、凍り付くような寂しさを味わった人が、今、ここに、神さまの食卓に招かれています。 |