日本基督教団 玉川平安教会

■2022年10月23日 説教映像

■説教題 「覚悟が試された

■聖書   マタイによる福音書 8章23〜27節 


★今日の箇所を読む上で、大前提とすべきことが一つあります。一つだけと言っても良いかも知れません。その大前提とは、聖書の中で舟が舞台となる時は、その舟とは教会のことだということです。

 聖書を比喩的な解釈で読んではならないと言う人がいます。確かに、比喩的解釈法には、恣意と言いますか、わがまま勝手な読み方が入る危険があります。いたずらに、何は何の比喩だと、言ってはならないでしょう。しかし、著者がはっきりと、比喩として語っていることについては、比喩として読むべきでしょう。


★勿論、限度を超えてはなりません。

 例えば、マタイ福音書4章22節

 『21:そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、

   父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、

   彼らをお呼びになった。

  22:この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。』

 この記事を、二人は教会を捨てて、或いは教会から離れて『イエスに従った』と読むことは出来ません。まして、キリストの弟子たちが働くべき場所は、決して教会の中ではない、教会の外、世に出てこそ働くべきだと主張するなら、とんでもない、恣意です。

 ここでは舟は、単に漁師舟です。


★しかし、やはり比喩だと考え、漁師たちは、舟を舞台にして働いていたけれども、後には教会という舟で働くようになったと解釈するなら、まんざら見当違いではないかも知れません。これも、恣意的と言えば恣意的な解釈です。

 結論から言うならば、正しい信仰を語る、或いは学ぶためには、比喩はとても有効です。しかし、悪しき信仰、間違った信仰を説くために比喩を用いる人もいます。その辺りには注意が必要です。


★とにかく、ここでは、舟は教会に準えられる、聖書でも、教会の歴史を通じても、そのように解釈され、比喩が用いられて来たということを前提にして、今日の出来事を読んでまいりたいと思います。


★23節前半。

 『イエスが舟に乗り込まれると』

 比喩的に解釈するならば、イエスさまが教会に入られると、との意味になります。もっと言うならば、イエスさまが入られて初めて教会なので、イエスさまのおられない教会は、本当には教会とは言えないという解釈も出来ます。

 実際、イエスさまがおられない教会があります。ホテルに付属した結婚式場は、普通の教会よりも教会らしく、立派です。しかし、それは教会ではありません。

 ここで、形だけが教会の結婚式場を批判しても仕方がありません。問題は、私たちの教会には、イエスさまがおられるのかどうかです。イエスさまがおられると信じて、教会の集会が守られ、話し合いがなされ、様々な営みがなされているのかという点です。


★23節後半。

 『弟子たちも従った』

 イエスさまの後に従ったということであり、イエスさまのおられる教会に入って、そこで働くと言うことになります。

 ヤコブとヨハネが『舟と父親とを残してイエスに従った』という箇所を引用しました。だから、世のため人のために働きたいなら、教会を離れなければならないという解釈は乱暴だと申しました。しかし、50年ほど前には、このような思想が教会を覆っていました。

 日本基督教団の中でもそうでした。中南米の大地主や、これと結び付いたギャングと戦うべく、当時のローマカトリックの教会から離れた若い神父たちがいました。この事実を踏まえますと、一面の真理があるのかも知れません。

 その時にこそ、『弟子たちも従った』という箇所も見逃してはなりません。


★24節前半。

 『そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった』

 これが正に現実です。教会はこの世という海に浮かんでいます。これも比喩です。海が荒れると、舟は楫も効かなくなり、嵐の中を漂います。同様に、この世が混乱すると、戦争が起こると、教会もその影響を免れることは出来ません。嵐に翻弄され、進路が分からなくなり、時には座礁します。沈没だってあります。

 

★24節後半。

 『イエスは眠っておられた』

 イエスさまは、嵐に遭遇し難船しそうな舟の中で、何故だか、『眠っておられた』とあります。

 当然、25節。

 『弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った』

 当然です。何故イエスさまは、起きていて、弟子たちを守って下さらないのでしょうか。

 先週も触れたゲッセマネでの祈りを思い起こします。マタイ26章38節以下。

 『38:そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、

   わたしと共に目を覚ましていなさい。」

  39:少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。

  「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

   しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

   40:それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、

   ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、

   わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。』

 今日の箇所と真逆です。

 とても似通っていて、しかも真逆です。この二つの出来事が無関係な筈はありません。


★とにかく続きを読みます。26節。

 『イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」』

 『怖がる』のは、信仰が薄いからだと断言されています。そうかも知れません。しかし、それならば、『「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」』と言われたイエスさまも信仰が薄いのでしょうか。

 この辺が比喩的解釈法の限界なのかも知れません。比喩とは、話し手が、著者が意図を持って用いるものです。その意図を超えて、この比喩はこのように解釈できる、この人はこう言っている、言ったことになる、それは比喩の解釈の限度を超えています。恣意的解釈であり、むしろ曲解です。


★しかし、とことん拘るならば、イエスさまが言われたのは『わたしは死ぬばかりに悲しい』であり、『ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい』です。必ずしも、怖いとも、絶望したとも言っていません。

 それこそ限界を超えた恣意的解釈に過ぎないかも知れませんが、もう少し続けてみたいと考えます。

 ゲッセマネでの弟子たちは、肉体的にも精神的にも疲れ果てて、目を覚ましていることが出来ませんでした。信仰的にも、疲れ果てていたと言ってよろしいでしょう。

 その果てに睡魔に襲われていました。絶望の果ての眠りです。

 しかし、イエスさまは、この時、眠ってはいません。十字架への道を歩き続けるために、祈り続けていました。それは困難な道であり、だからこそ、困難な祈りでした。しかし、決して、絶望ではありません。むしろ、覚悟を固める祈りでした。

 『ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい』とおっしゃったのは、弟子たちにも十字架への道を歩き続ける覚悟を持って祈りなさいと言っておられるのです。


★今日の箇所では、眠っているのはイエスさまの方です。ゲッセマネでの逆です。弟子たちは、起きています。目を覚ましています。眠ることなど出来ようはずがありません。舟が転覆し、自分たちが海に投げ出されて、死を迎える恐怖に襲われています。

 そしてイエスさまに、『「主よ、助けてください。おぼれそうです」』と訴えています。

 これは、私たち人間の現実に重なっています。私たち一人ひとりもまた、常に、嵐の中にいて、少なくとも嵐の前兆に遭って、脅えています。何時だってそうかも知れません。

 何時だって、この嵐から自由になることは出来ません。


★その時に、イエスさまは『眠っておられた』のです。弟子たちは、今の状況が分からないのですか、私たちを見捨てるのですかと、イエスさまに迫ります。つまり、批判しています。助けてくれないイエスさまを、批判しています。

 しかし、これが問題です。最初に申しました。舟は教会です。今、この時点で、イエスさまは教会におられるし、弟子たちも、イエスさまと一緒に教会にいるのです。イエスさまと一緒に教会にいることこそが、救いではなかったのでしょうか。


★26節後半と27節。

 『そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。

  27:人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。

  風や湖さえも従うではないか」と言った』

 イエスさまは、この世界のあらゆる物を支配しておられるという意味でしょう。だから、この世界で起こるどんな災害も、恐れることはないという意味でしょう。

 しかし、それよりも大事なことは、今、舟の中にいるということです。

 

★先週の箇所の18節をご覧下さい。同じ頁です。

 『イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、

  弟子たちに向こう岸に行くように命じられた』

 先週お話ししましたように、病気を癒やすという奇跡を目撃した人々が、自分も奇跡に与りたいと、イエスさまのもとに殺到します。イエスさまは、それらの人々を避けるようにして、舟に乗り、向こう岸へと渡られます。

 今日の出来事は、その舟の中での出来事です。

 舟には、目的地があります。目的地がないのは遊覧船くらいです。

 ここでも、舟は教会の比喩だとすれば、教会には目的地があります。教会は遊覧船ではありません。アトラクション豊かな遊覧船ではありません。豪華客船である必要もありません。舟が舟であるために欠かすことの出来ないものは、装備ではありません。乗組員も最低一人あれば良いでしょう。欠かすことの出来ないものは、目的地です。教会が教会であるために欠かすことの出来ないものは、装備ではありません。教会員も最低一人あれば良いでしょう。聖書にありますから、一人ではなく、二人三人としましょうか。欠かすことの出来ないものは、目的地です。


★19節も改めて読みます。

 『そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、

   どこへでも従って参ります」と言った』

 『あなたがおいでになる所なら、どこへでも』と言います。後のペトロの言葉に重なります。この人は、舟に乗って『向こう岸』へ渡ったでしょうか。今嵐に遭遇した人の中にいたでしょうか。どうも、いなかったようです。

 弟子たちはちゃんと舟の中にいました。彼らは、『「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った』のでしょうか。


★もう一度、26節を読みます。

 『イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、

   起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった』

 申し上げるべきことが二つあります。一つは、『すっかり凪になった』、イエスさまの言葉でこの世の嵐は収まりました。凪になりました。そうしたら自然、舟は揺れなくなります。舟の中に、平安が戻ります。しかし、本来は逆なのです。教会が主の言葉によって、凪、平安を取り戻し、その結果、この世にも平安が戻るのです。


★もう一つ申し上げたいのはこのことです。こじつけに聞こえるかも知れませんが申し上げます。イエスさまは、『風と湖とをお叱りに』なりました。しかし、弟子たちのことは決して叱ってはいません。『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ』。この言葉で叱り、弟子たちを懲らしめた訳ではありません。

 彼らの心の動揺をご存じです。不安を知っています。『なぜ怖がるのか』、怖がらなくても良いという意味です。『信仰の薄い者たちよ』、たしなめているのではありません。彼らの不信仰、心の弱さをご存じです。『信仰の薄い者たちよ』、しかしあなたたちは舟の中にいる、教会の中にいる、心配ないよとおっしゃっておられるのです。

 彼らの弱さ、彼らの不信仰の罪、これを贖うべく、十字架へと向かわれるのです。