日本基督教団 玉川平安教会

■2022年7月3日 説教映像

■説教題 「供え物への心の備え

■聖書   マタイによる福音書 5章21〜26節 供え物への心の備え


★【わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。

   兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、

   『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。】

 イエスさまが弟子たちに語られた、このお言葉を読んで、「アーメン、その通り」と、ごく素直に受け止めることの出来る人は、とても幸せな人です。

 そのような人は、親兄弟や身近な人々と良い関係を保ち、愛し愛されて、毎日を平和に過ごしておられるのでしょう。素晴らしいことです。うらやましい程です。

 しかし、多くの人は、そのようにはまいりません。むしろ、この言葉を聞いて強い抵抗を感じないではいられません。

 世の中には、親兄弟や身近な人々と、何らかの軋轢を抱えている人、そのために苦しんでいる人が、圧倒的に多いと思われます。

 家族や親戚との関係は良好であっても、他の人との関係はどうでしょうか。隣人と関係は、職場の人間関係は。

 どこでも関係良好で、兄弟に向かって『ばか』と言うなど考えられない、隣人を『愚か者』と思ったことなどないという人は、殆ど誰もいないでしょう。残念ながら、それが人間の悲しい現実です。


★私などは、親兄弟や親戚との関係では、必ずしも良いものだけではありませんでした。良いことよりも、煩わしいことの方が多かったような気が致します。

 また、どうしても、連想させられます。

 今、ウクライナでの戦争の報道の中で、ロシア正教が取り上げられています。政治的にプーチン大統領寄りで、戦争犯罪を批判しないどころか、むしろ支持していると見られることが指摘されています。

 あの地域にはロシア正教、ギリシャ正教そしてローマ・カトリックが入り交じっています。他にも小さな宗派があります。プロテスタントも皆無ではありません。勿論イスラム教徒もいます。ユダヤ人もいます。

 私たちには、一緒くたにされたくないという思いがあります。しかし、世間の人々から見たならば、似た者同士の争い、兄弟喧嘩としか映らないでしょう。神さまの愛を説く教会が、2000年間、常に何かしらのことで、別れ争っている、これもまた、隠しようもない現実です。


★とにかく、順に読んでまいります。21節。

 【「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』

   と命じられている。】

 『あなたがたも聞いているとおり』とありますが、何書何章何節の引用と言う必要はありません。このような主旨のことは、何カ所にも記されています。それらをまとめて言えば確かに、このようになるでしょう。『殺すな』は、そも十戒にあります。

 旧約の律法に限らず、もっと、自然法的な、普遍の事柄であると言っても良いかも知れません。これを否定する国も文化も、滅多にはないだろうと思います。

 しかし、22節。先ず前半。

 『しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。』

 『兄弟に腹を立ててはならない』という律法ならば、出典を上げることが出来ます。しかし、『兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける』となりますと、出典を上げることは出来ません。誰もがなるほどと肯くものではありません。


★22節、後半も同様です。

 【兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、

   『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる】

 こんな律法は存在しません。勿論、誰も納得出来ません。

 【兄弟に『ばか』と言】ったぐらいで、裁判にかけられ、まして、【『愚か者』と言】ったぐらいで、【火の地獄に投げ込まれる】のではたまりません。

 10人に9人、100人に99人までが、いや、1000人に999人までが、裁判にかけられます。

 

★このように、敢えて極端な表現を取ることで、聞いている者を立ち止まらせ、むしろ、躓かせるのは、山上の説教でしばしば用いられる手法です。極端に表現することで、事柄の本質に目を向けさせます。これは山上の説教が語られた目的とも言えます。

 『兄弟に腹を立ててはならない』という戒めだけならば、多くの人が、そのままに抵抗なく聞いてしまいます。肯いてしまうかも知れません。

 そして、その時には、『兄弟に腹を立てて』いる事実・現実は、隠されてしまいます。

 『兄弟に腹を立てて』いるのが事実・現実なのに、『兄弟に腹を立ててはならない』、「ああ、その通りだね」と賛成して、何ら矛盾を感じません。

 他の多くの事柄についても同様です。信仰的な事柄では、こういうことがまま起こります。

 それは、私たちが、理想と現実を別々にしていて、信仰は理想を説くけれども、現実は難しいよと、二重の戒律の中で生きているからかも知れません。

 イエスさまは、今、敢えて極端に話を導くことで、私たちに対して、自分の姿を振り返らせています。我が身を省み、罪の現実に気付かせようとされているのです。


★23〜24節。先ず、23節。

 『だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、

   兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、』

 教会のことは教会のこと、世間のことは世間のことという、二重の戒めの中に生きていてはなりません。しかし、これが、私たちの現実でしょう。一方では兄弟と憎しみ合い、その一方では、礼拝で神さまの愛について記されている聖書を読み、その間に矛盾を感じません。


★ここではちょっと拘りたいことがあります。

 『兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら』と記されています。『自分が兄弟に反感を持っている』とは記されていません。

 『自分が兄弟に反感を持っている』と言うことならば、合点が行きます。確かに、それでは、平気な顔をして礼拝に出ることは難しいかも知れません。

 しかし、『兄弟が自分に反感を持っている』と記されています。

 これを何とかしろと言われても困ります。向こう側の問題です。『兄弟が自分に反感を持っている』のですから、自分が悔い改めても、向こうは変わらないでしょう。謝罪しても、向こうが受け入れるかどうかは分かりません。


★24節。

 『その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、

   それから帰って来て、供え物を献げなさい』

 これもまた、極端な表現です。

 『供え物を祭壇の前に置き、まず行って』ですから、兄弟と喧嘩している者は、礼拝へと向かう道を引き返しなさいと言われているようです。

 これを、兄弟と争っている人は礼拝に出る資格がない、という方向に読んでしまったら間違いです。

 まして、先程申しましたように、『兄弟が自分に反感を持っている』です。それで礼拝に出られないということになりますと、礼拝に出られる人は激減してしまうでしょう。

 ここでも、自分の姿を振り返って見ることが、求められているのです。

 むしろ、礼拝に出る、神さまの前に出ることによって、現実に気付かさせられるのです。


★兄弟と争っていながら、そのことに鈍感になっているのは、自分が悪いとは思っていないからです。相手が間違っている、自分は間違っていないと考えています。

 それでいて、相手を憎んだり、攻撃したりしない分だけ、自分の方がずっと寛容で、だからこそ、正しいと考えています。『兄弟が自分に反感を持っている』のはいかにも不当で、私に反感を持っているあいつはろくでもないやつで、それでも我慢している私は、何と善良で、何と信仰的なのだろう、そんな風に考えているのでしょう。

 しかし、神さまの前に立った時に、そこまで自分を正当化出来るのか、初めて、我が身を振り返らされます。そして、『兄弟が自分に反感を持っている』そのこと自体が、決して正常な状態ではないことに、初めて気付かさせられるのです。


★『兄弟と仲直りを』するということは、一方的に赦すということでも、問題を曖昧にして、棚上げしてしまうことでもないと考えます。

 むしろ、よくよく、事柄を見詰めて、解決を図らなくてはならません。

 『早く和解しなさい』の、和解とは、正しい状態の回復ということです。

 大抵の場合、解決・和解の近道は忘れることです。深刻な対立は簡単に忘れられるものではありません。しかし、深刻な対立ほど、忘れる以外に解決の道はないでしょう。

 戦争は正にそうです。どちらに義かあるのかと争って、完全に相手を論破できたら戦争は止むのか、むしろ戦火は燃えさかるでしょう。

 戦争こそ、「忘れてはならない、風化してはならない」と言われます。その通りでしょう。記憶にも記録にもしっかりと刻み、忘れないことで、同じ間違いを防がなくてはなりません。

 しかし、忘れてはならない、風化してはならないとは、その恨みを、憎しみを忘れてはならない、ではありません。恨み、憎しみは忘れなければなりません。そうでなければ戦争は繰り返されます。忘れることは、解決の放棄ではありません。積極的な解決方法です。最も有効な和解への道です。

 

★25節。前半だけ読みます。

 『あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。』

 『一緒に道を行く』とは、そもそも、裁判所で裁定して貰うために、裁判所への道中を一緒に行くということでしょうか。良く分かりません。裁判に訴え出る程険悪な関係にある者が、一緒に行くと言うのは、不自然です。しかし、あくまでも例え話ですから、否定は出来ません。

 それとも、『一緒に道を行く』とは、何かしら、一緒に仕事をしていることでしょうか。

 つまり、必ずしも、裁判所で裁定して貰うために、裁判所への道中を一緒に行くのではなく、他のこと、仕事で、『一緒に道を行く』途中に裁判所がある、そこで、相手の人は、いまこそチャンスと考えて訴えると言うことでしょうか。断定出来ません。


★この裁判所を教会と置き換えて読んだらどうなるでしょう。そもそも礼拝に出る前に兄弟との争いをなんとかしなさいという話から始まっています。元々教会の話が裁判所に置き換えられて比喩になっています。元に戻して読んだらどうなるでしょう。

 一緒に礼拝を守る仲間の間に争いがあってはならない、礼拝の前にまず仲直りしなさいという話です。裁判所では、裁判官に訴え出ます。同じようにして、神さまの前で仲間を訴えるのでしょうか。

 教会でこそ、礼拝でこそ、兄弟を神さまに訴えてはなりません。兄弟を訴えるような祈りをしてはなりません。その前に和解しなくてはなりません。


★25節の後半と、26節で、少し、例え話の様子が変化しているように思います。

 26節。

 『はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、

   決してそこから出ることはできない』

 ここだけで判断しますと、この人は、何かしら借財があるようです。つまり、最初に帰って読むと、23節の、『兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら』と言うのも、他人に借りがあったらと言うことになります。


★今日の箇所の直前、5章20節を読みます。

 『言っておくが、

  あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、

   あなたがたは決して天の国に入ることができない。』

 17節から20節の段落全てをお話する時間はありません。先週の説教箇所ですし、結論だけを言います。

 『律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ』とは、律法の遵守のことではありえません。それは、愛のことです。律法の究極は愛にあるからです。

 私たちは、兄弟を愛することが出来ない理由を、幾つでも挙げることが出来ます。愛することが出来ないのは、兄弟の側に原因・責任が存在するからであって、私に原因・責任が存在するのではないと弁明することが出来ます。

 しかし、私たちは、誰の前で、礼拝を持とうとしているのか、誰の名前で、お祈りを献げようとしているのか、思い出さなくてはなりません。

 私たちは、十字架に架けられた方の前で、十字架に架けられた方の名前で礼拝を持ち、祈るのです。

 そんな私たちにふさわしい礼拝前の備えは、自分を正当化し、人を訴える証拠集めではありません。十字架に架けられた方の前に立つ姿勢を整えることです。その姿勢とは、悔い改めの姿勢です。悔い改めとは自分の姿勢を振り返ることです。何よりも、怒り恨みを忘れることです。礼拝で供え物をするには準備が要ります。服装ではありません。献金の用意でもありません。頭を垂れて、自らを振り返り、跪いて、手を組み合わせて、神に祈ることです。