★教会の玄関前は、あまり人通りがありません。一日何人の人が通るのでしょうか。人通りが少ない割には、ワンちゃんは多くて、良く目にします。馴染みのワンちゃんもいます。 玄関前で立ち止まり、教会に入りたがります。そういうワンちゃんが少なくありません。飼い主がリードを引いても、踏ん張って階段を上りたがります。スロープの方に進みたがる子もいます。座り込む子もいます。 不思議に落とし物をする子はいません。飼い主がさせないのかも知れませんが、お利口なものです。お利口でないのは人間の方で、しばしば、たばこの吸い殻が捨てられています。ペットボトルも、空き缶もたまにあります。マスクさえ捨てられています。 ★玄関で立ち止まる人は、看板に眼をやります。今は、『だれでも食堂・アガペー』の看板もありますが、やはり眼が行くのは、礼拝の看板です。人目を惹くようです。 今日の説教題は『姦淫してはならない』です。道行く人は、どのように感じるでしょうか。興味深い題目だから、礼拝に出てみたいと思う人は、先ずいないでしょう。一人もいないでしょう。 それならば、もう少し関心を惹くような題にすればよろしいのですが、敢えてそのままにしました。そのままと言いますのは、新共同訳聖書の小見出しの通りという意味です。 ★回りくどい話をしているかも知れませんが、もう少し、続けさせて下さい。説教題となりますと、どうしても思い出し、話したくなる出来事があります。何度も聞いた人もありますでしょうが、お付き合い下さい。 大曲教会の伝道師だった時、つまり、牧師1年生の時です。主任の荒井牧師に呼び出されました。説教の出来が悪いと呼び出されますが、この時は説教題でした。私が付けた題が、あまりにも平板で、面白くもおかしくもないと叱られました。今日の説教題『姦淫してはならない』だったら、確実に呼び出されるでしょう。 「もう少し考えたまえ。道行く人が立ち止まるような題目を考えなさい」と言います。その場で改めて考えても、良い案が浮かびません。そこで「先生なら何と付けますか」と逆に聞きました。荒井牧師、しばし熟考、そして「見てくれよりも中身で勝負」。 私は素晴らしいと心から感心しました。そこで「先生、流石、素晴らしいですね。これなら、説教を聞かなくとも全部分かりますね」。 皮肉でも何でもなく、心からの感嘆だったのですが、叱られました。 ★今日の説教題『姦淫してはならない』、荒井牧師に叱られるような題ですが、案外に道行く人が、立ち止まるかも知れません。先ほども申しましたように、それで興味を持ち、礼拝に出たいと思う人はいないでしょうが、立ち止まる人も、考え込む人もあるかも知れません。しかし、今の時代だったら、反感を持つと言うよりも、むしろあきれて「教会は相変わらず、古くさいことを言っているな」と思うかも知れません。 もしそんな反応があったら、この説教題は成功でしょう。 ★ますます回り諄いかも知れませんが、難しい話ではありませんから、お付き合い下さい。 荒井牧師は50年以上、大曲教会一筋で働きました。その間、たった一度だけ、教会員を陪餐停止処分にし、結局除籍処分にしたそうです。理由は、この教会員が、いわゆるお妾さんを囲ったからでした。厳重注意をしても聞かず「誰でもしていることだろう」と開き直ったそうです。これに対して、牧師生涯で一度だけ、陪餐停止、除籍処分を下しました。牧師が、この言わば奥の手、禁じ手を使ったならば、自分自身も教会を去るのが牧師の常識です。使わなくては牧師の責務を全う出来ないこともあるでしょうが、使ったら、離任するのが常識です。松の廊下で刀に手をかけたようなものです。 荒井牧師は、教会を去ることはありませんでした。他の教会員の絶対的な支持があったからです。この人への陪餐停止、除籍処分を支持したからです。 ★もしこの時に、荒井牧師が断乎たる姿勢を取らなかったならば、教会員の支持もなく、50年以上働くこともなかったのではないかと思います。 それほどに、当時、今からもう100年近く前の話になりましたが、【姦淫するなかれ】という言葉は、新鮮、むしろショッキングな言葉だったのです。そしてこの言葉が、特にご婦人たちの心に響いたのです。この言葉だけでも、教会の門を潜るのに十分な魅力を持っていました。当時の社会、男社会の性的なモラルは、とてつもなく低く、女性はただ泣かされていました。 ★今はどうでしょうか。女性の社会的地位、家庭内の地位も上がり、かつてのようなことはなくなったでしょうが、しかし、未だに、不倫問題は尽きません。 私の個人的感想かも知れませんが、今再び、世の中は、このことに寛容になったように思われます。不倫を報道された俳優や歌手・タレントが、何事も無かったかのようにテレビの画面に現れます。CMにさえ出ています。それどころか、ニュース番組の司会者だったりキャスターだったりします。 ★牧師の世界でさえそうです。かつては致命的だったスキャンダルがあっても、堂々と牧師として働いています。堂々は言葉の綾で、同道ではなく肩身狭くかも知れません。 不倫であっても、それぞれに事情も背景も、一人ひとりの感情がありますでしょうから、それを暴き出して批判するつもりはありません。しかし、教会から、【姦淫するなかれ】という言葉が失われてしまったならば、教会の魅力も失われるのではないでしょうか。 ★イエスさまが人々の前で、【姦淫するな】と言った時、その時代の人々は、これを何と聞いたでしょう。 『「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。』 このように記されています。つまり、十戒の一条ですし、律法に盛られており、ユダヤ人ならば誰でも知っている言葉です。 知っていることと、行っていることとは別です。彼らは何と反応したでしょう。 ★当時は深刻な問題だった筈ですが、この言葉への反応は、現代とあまり変わらないのではないでしょうか。 「うるさいな、他人の家庭に口を出すな」 「はいはい、おっしゃるとおりです。悔い改めてまたやります」 「持てない男、甲斐性がない男が言いそうな言葉だ」 そんな様子ではないでしょうか。今日でも浮気は男の甲斐性、浮気の一つも出来ないのは、男として魅力のない人間の僻みだ、と言うご婦人は、今日でも少なくありません。 ★マタイ福音書19章16〜20節。少し長い引用になります。 『16:さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、 どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 17:イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。 善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 18:男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 19:父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 20:そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。 まだ何か欠けているでしょうか。」』 ★この人は、ごく真面目な青年です。 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 19:父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』 全部、十戒に重なります。この箇所そのものをやがて読みますので、多くはその時に譲りますが、このことだけ、確認しておきたいと思います。『姦淫するな』は、『殺すな、 … 盗むな、偽証するな』と並べられています。つまり、他の条項と並んで同じように重大事です。聖書では、殺人、強盗に比べられる罪です。 不倫が悪いことは、誰でも知っています。最も日本では「不倫は文化だ」と言ったタレントがいましたが。 ★この青年は真面目です。 『そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか』 この言葉にも嘘はないでしょう。しかし、彼は結局イエスさまに躓きました。その話は、何故躓いたのかは、何れこの箇所の説教でお話しします。 もし、この時にイエスさまが、マルコ福音書には収録されていない『まだ何か欠けているでしょうか』という問いに、このように答えていたらどうなったでしょうか。 『しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、 既に心の中でその女を犯したのである』 若いだけに、思い当たることがあって、逆にイエスさまに従ったのではないかと、そんなふうに考えてしまいます。 … 聖書に書いていないことを言っても仕方がありません。 ★聖書に書いてある話にします。ヨハネ福音書5章7〜9節。 姦淫の罪を犯した女が引き立てられ、石打ちの刑に処せられられようとする場面です。 『7:しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 8:そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 9:これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、 イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。』 イエスさまが『身をかがめて地面に書き続けられた』のは、この女を見ないがためです。好奇の眼で見ること、糾弾の眼差しを向けることが既に裁きです。人々は、このことに夢中になっています。 今日、私たちが週刊文春で俳優のスキャンダルを知り、批判の眼を向けるのと同じことです。この時ばかりは、自分が、道徳倫理の塊になったような気がしています。このような報道は既に裁きであり、刑罰です。三権分立を言うマスコミが、それを犯しています。この頃、賽銭泥棒とかの微罪を大きく報道するニュースが目立ちます。悪いことには違いありませんが、巨悪を放置し、微罪を告発する矛盾を感じます。 さて、イエスさまは、ご自分もこの女を見ようとはされず、人々には、『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が』と言って、我が身を振り返るように勧められます。つまり視線を、女から、それぞれ自分の胸に向けさせます。方向転換、これは悔い改めです。 ★『みだらな思いで他人の妻を見る者は』とは、そういう言葉です。人々を立ち止まらせ、むしろ躓かせるための言葉です。方向転換、悔い改めを迫る言葉です。 『姦淫してはならない』と書かれた教会の看板を見て、何も感じることはなく、通り過ぎる人はそれで結構なのかも知れません。多分、不倫の罪を犯してなどいないのでしょう。何も思い当たらないのでしょう。それはそれで良いのかも知れません。立ち止まり考え込む人がいたら、それはそれで意味があります。 ★またまた荒井牧師の話になります。 ある時、夜中に知らない男から電話があったそうです。その内容は、「人は罪を告白すれば救われると看板に書いてあったが、俺でも救われるのか」「そうだ」と答えると、「俺は今、女郎屋にいる。それでも救われるか」「そうだ」「それなら、ここに来てみろ」、この問答のあげく、真夜中、荒井牧師は夜中に女郎屋に出かけました。 この男は、農民運動の指導者となり、大曲教会の大長老と呼ばれる人になりました。 躓く人が救われるのです。聖書の言葉に、躓く人が救われるのです。『そういうことはみな守ってきました』と言う人、言える人が救われる訳ではありません。 ★今日は荒井牧師の話ばかりしています。ついでにもう一つ紹介します。 荒井牧師は牧師生涯でただ一度だけ、当てこすりの説教をしたことがあるそうです。牧師はしばしば、そんな意図は微塵もないのに、当て擦りだと批判されます。私も経験があります。経験があるのは、当て擦りの説教をしたという意味ではなく、意図を誤解されて当て擦りと批判されたという点です。 この時、荒井牧師は、あるご婦人を当て擦る内容の話をしました。礼拝が終わったら、この婦人が立ち上がり、このように言ったそうです。 「皆さん、先生のおっしゃる通りです。皆さん肝に銘じて、教えを守りましょう」 数多い荒井源三郎武勇伝の中で、ちょっと眉唾かなとも聞こえますが、私が荒井牧師から直接聞いた話です。 ★牧師の説教に躓く人は救われないか、そんなことはありません。むしろ、躓く人が救われるかも知れません。それは、牧師の説教に賛成するか反対するかという次元ではなくて、アーメンと言うにしろ、言わないにしろ、聖書の言葉に向かい合ったかどうかです。 長老主義の教会では長老席があって、一番前に座ります。これは、説教を聞いて、アーメンと言うためであり、場合によっては、「聖書とは違う」と、否を言うためです。 |