★『お清め』という言葉は最近あまり耳にしません。一昔前までは、葬式の後などで『お清め』の塩が配られました。葬儀に列席した帰りには、玄関で頭から上着に塩を振りかけたものです。 『お清め』は『お浄め』とも書きます。清浄のせいとじょうです。漢字は、どちらでも良いようです。穢れ汚れを落とす振り払うことが、浄化、清めです。 教会にも『浄め派』が存在します。メソジスト教会のウェスレーの流れを汲む教会です。これも清浄どちらも使われるようです。 ★『清め』を重んじる教会は、当然ながらバプテスマを重んじます。バプテスマは、バプテスマのヨハネにまで遡れば、禊ぎです。つまり、体を洗い清めることで、心の内側まで洗い清めるという意味合いです。こういう人たちは、洗礼の様式に拘り、全浸礼、頭まですっぽり水に浸かるのでなければ、洗礼は有効ではないと考えます。完全に水に潜ることは、死を意味し、浮かび上がることは再生・新生を意味します。 クリスマスに雪降る中で川の流れに浸かり、洗礼を受けた人の話を聞いたことがあります。秋田では珍しくもない光景です。私は玉川平安教会と同じく、滴礼でした。頭のてっぺんにしずくを垂らすだけです。 全身真冬の氷のような川に浸かり、ガタガタからだが震えるような体験をした人は、一生忘れることはないでしょう。洗礼とは何かを分かり易く表していますし、その意味では、全浸礼、大いに結構です。 しかし、滴礼であっても、洗礼を受けた日を忘れられるものではありません。 ★『清め』とは、水の力で、穢れ汚れを落とすことです。 不思議なことに浄水器が存在します。大昔から、諸宗教を通じて、水で『清め』が行われて来ましたが、今では、水そのものが『清め』られなければなりません。 空気も同様です。コロナのことがあり、空気清浄機が当たり前の存在になりました。現代では、空気も『清め』られなければなりません。 ★最近キャンプが大流行しているそうです。これも、コロナの影響でしょうか。 キャンプで山や海にまいりますと、水が旨い、空気が美味しいと言います。普通に言います。そのように言わなければならないと決まっているもののように、口にします。 水が旨い、空気が美味しい、山や海では、水や空気に何か入っているのでしょうか。美味しいと感じさせられる何かが入っているのでしょうか。マイナスイオンがどうとか言う人もあります。 しかし、実際には、山や海では、水や空気に何か入っている訳ではありません。逆です。何も入っていません。それを、水が旨い、空気が美味しい、と言います。水や空気に、穢れ、汚れがなければ、何もなければ、美味しい、と言います。 ★マタイ福音書5章8節。 『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。』 『心の清い』とは具体的には、どういうことでしょうか。どのような人を指して言うのでしょうか。 私はアッシジのフランシスを連想しました。本や映画で観た程度の知識しかありませんので、特に皆さんに説明することはありません。しかし、多分多くの人が、共感してくれるでしょう。他にも、聖人に叙された人が大勢います。ローマカトリックのカレンダーは、聖人の記念日で毎日が埋まっています。 聖人、日本ですと仙人でしょうか。少し響きが違うようにも思われます。 しかし、共通しているのは、世の喧噪を逃れて、孤独に生きるという点でしょうか。その点では世捨て人も同様です。西行法師や芭蕉を、聖人、『心の清い人』とは呼ばないでしょうが、共通点は存在すると思います。 ★聖人、仙人、世捨て人、皆、世の喧噪、まして世俗の欲得、ドロドロした人間関係から離れた人です。人から離れて、他の人は見ないもの、見えないを見ている人です。 金子みすゞの、近年あまりにも有名になった詩の一節。 「青いお空の そこふかく、 海の小石の そのように、 夜がくるまで しずんでる 昼のお星はめにみえぬ。 見えぬけれども あるんだよ 見えぬ ものでも あるんだよ。」 サン・テグジュペリの『星の王子さま』には、こんな一節があります。 「心で見なければ何も見えないよ。 かんじんなものは、目に見えないんだ」 サン・テグジュペリと金子みすゞは、1900年と1903年、ほぼ同時代の生まれです。互いに互いを知らないと思います。不思議な一致です。その作品にも共通性がありますが、若くして亡くなったこと、孤高の人だったこと、似通っています。 ★『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。』 サン・テグジュペリと金子みすゞを、聖人だと言っているのではありません。『心の清い人』に数えたい気もしますが、それも妥当かどうか、私には分かりません。 しかし、引用した言葉には、教えてくれるものがあると考えます。 『心の清い人々』とは、他の人には見えないものを見ている人々です。 昼間の光が星の光を隠すように、様々なものに邪魔されて見えないものがあります。神さまです。人間の欲や、忙しさや、不安や、憎しみ、嫉妬、そういうものに邪魔されて見えないのが、神さまです。 『心の清い人々』とは、他の人には見えないものを見ている人々です。神さまを見ている人々のことです。だから、このように言われています。 『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。』 ★マタイ福音書5章7節。 『憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。』 『憐れみ深い』とは、具体的にはどのようなことか、分かっていることなのですが、なかなか説明は困難です。話を拡げないで、聖書はどのように語っているかを見ます。 マタイ福音書9章13節。 【『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、 行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、 罪人を招くためである。」】 同じく12章7節。 【もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』 という言葉の意味を知っていれば、 あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。】 やがて読むことになる箇所ですし、あまり詳細な話は出来ませんが、ファリサイ的な教条主義が批判されている言葉です。 ★この出典とも言える言葉がホセア書6章6節にあります。 『わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。』 ホセア書こそ、『憐れみ』を主題として記されています。しかし、それに触れていると戻って来れなくなる心配があります。他の機会に譲ります。 ★ここで批判されている人々は、自分たちは神を見ている、知っていると主張し、そこに強い特権意識を持っています。その結果、目の前で苦しんでいる人々の現実が見えません。 『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。』と対をなしています。真逆とも言えます。 よりテーマが明確なのは、マタイ福音書25章31節以下の譬え話です。これも、やがて読むことになる箇所ですし、今日は詳細な話は出来ません。『靴屋のマルチン』の元になった譬えと言えば、お分かりいただけるかと思います。 ★小さい者、弱い者、苦しむ者への思い、それが憐れみです。これは、聖書の世界でも、日本語でも変わりません。小さい者、弱い者への労り、愛ならば、聖書の世界よりも日本の方が細やかかも知れません。 日本には、『枕の草紙』の昔から、小さいものを慈しむ心があります。それこそ脱線になりますから、引用は控えますが、小さいものを愛でる気持ちがあります。 小春日和とか、小京都とかと言う表現もあります。これは、小さいことを、本物に比べて紛い物だと否定しているのではありません。むしろ、そこにこそ、美を見ています。 ★先週もヤコブ書を引用しました。今、聖書研究祈祷会で読んでいますので、宣伝の意味も込めて、また、引用します。 『みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、 世の汚れに染まらないように自分を守ること、 これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。』 ヤコブだけではありません。聖書は、旧約聖書も含めて、『みなしごや、やもめ』に象徴されるような小さい者、弱い者への労りに満ちています。これに眼を向けない信仰など、紛い物だと言い切っています。 昨日から、『子ども食堂』、玉川平安教会流には『だれでも食堂・アガペー』が始まりました。数年来の願いが叶えられ、実行することが出来たことを喜んでいます。いろいろと困難も予想されますが、何とか継続して運営したいと願っています。 ★『みなしごや、やもめが困っているときに世話をし』 そして『世の汚れに染まらないように自分を守ること』 ヤコブはこの二つを上げています。これは互いに矛盾しないどころか、究極、一致することだと考えています。 この二つこそが、『神の御前に清く汚れのない信心です』と言い切っています。 一見矛盾するように聞こえます。人間を見ていれば神が見えなくなり、神を見ていれば人間が見えなくなると言った方がすっきりとします。 しかし、ヤコブは矛盾しないどころか、一つのことだと言っています。 ★先ほど、いろいろと混じり物があるから、水や空気は汚れているのであり、いろいろと邪魔するものがあるから、肝心なものが見えなくなるという意味のことを申しました。 その通りです。訂正は出来ません。 しかし、見ることを手助けしてくれる存在もあります。眼鏡がそうです。レンズは、ガラスです。人の目の前に置かれて、視界を遮っている筈です。しかし、私などは、このガラス、レンズを通さないと、見えません。どうしても必用で、普段、10個の眼鏡を持っています。掛け替えながら日常的に使う眼鏡だけで6個です。 ★私たちには、日常神さまは見えません。旧約聖書では、神さまを見たら死ぬと考えられていましたし、新約聖書では、特にヨハネ福音書で『見えると言い張るところに罪がある』と記されています。見えると言う人ほど神さまが見えないということが、旧新約聖書に共通ですから、やはり、私たちには神さまは見えません。 いろいろなものが邪魔しているからでしょうか。何を洗い清めたら、何を取り除いたら、神さまが見えるのでしょうか。 ★逆かも知れません。神さまを見るためには、道具が必用なのではないでしょうか。信仰者は、神さまを見るための道具を持っているのではないでしょうか。大道具も小道具も持っているのではないでしょうか。礼拝堂、聖書、その他もろもろ。 何よりも、一番の眼鏡、レンズは、隣にいる人でしょう。隣にいる『みなしごや、やもめ』でしょう。『みなしごや、やもめ』と言うと差別語、不快語だと指摘する人がありますから、貧しい人、困っている人と言い換えましょうか。問題は何も変わりません。 『みなしごや、やもめ』、最も困難な状況に置かれ、辛い思いをしている人こそが、神さまを見るための一番の眼鏡、レンズでしょう。 このことは、先ほど触れたマタイ福音書25章を読めば良く分かります。 ★7節だけが、前後の他の節と言い回しが違います。 全部繰り返しませんが、ちょっとご覧いただければ分かります。今日の箇所でも、8節、 『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。』 『心の清い人』が『神を見る』に繋がります。しかし、7節は、 『憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。』 『憐れみ深い人』が『憐れみを受ける』になります。 神を見ることと、神に見られることとが、重なるからです。鏡もガラスで出来ています。レンズは、光を通しますが、鏡は反射します。私たちは、神さまを見ることが出来ない以上に、自分の姿を見ることがなかなか出来ません。隣の人の瞳に映った自分なら見えます。 神さまの目という鏡に映して見なければ、本当の自分の姿は見えません。 |