◇先週も申しましたように、イエスさまの十字架を巡る大事な場面で、4つの福音書には少なからぬ異同があります。その中には、互いに矛盾すると言わなくてはならない程の、大きな違いもあります。  今日の個所でも、幾つかの相違があります。その中で、私が最も注目するのは、注目してしまうのは、この点です。諄いかも知れませんが、4福音書全部を引用します。  マルコ福音書14章  『67:ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。     「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」   68:しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、     わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。     そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。』  マタイ福音書26章  『69:ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って     来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。   70:ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、     わたしには分からない」と言った。』  ルカ福音書  『55:人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、     ペトロも中に混じって腰を下ろした。   56:するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、     じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った』  そして今日の個所ヨハネ福音書18章  『17:門番の女中はペトロに言った。「あなたも、     あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。   18:僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。     ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた』 ◇何が、どこが違っているのか、お分かりでしょうか。  マルコは『火にあたって』、ルカは『たき火』、ヨハネは『炭火』、マタイは火の種類については言及なし、この違いです。  大した違いではないじゃないか、どうでも良いことではないかと、反発を受けそうです。  しかし、私から見れば、大きな違いがあります。決定的とも言える違いがあります。  是非、『焚火』であって欲しいからです。『焚火』でないと、この出来事についての、私なりの解釈、理解が成り立たないからです。 ◇その解釈を申します。ルカ福音書が、テキストとして最適です。  『54:人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。     ペトロは遠く離れて従った。   55:人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、     ペトロも中に混じって腰を下ろした』  『ペトロは遠く離れて従った』のは、自分が逮捕されないためです。イエスさまは、どの福音書でもこの点共通していますが、剣を抜いて戦うことを良しとされませんでした。全く無抵抗で逮捕され、裁判に掛けられました。だから、ペトロは何も出来ません。一緒に戦えと言われたならば、きっと戦ったに違いありません。剣を抜いて祭司の手下の耳を切り落としたと書いてあるのはヨハネ福音書だけですが、他の福音書に描かれたペトロの人物像も大きな違いはありません。一緒に戦えと言われたならば、きっと戦っただろうと言い切ることが出来ます。多分、どなたも異論はないでしょう。  剣を抜いてはならないと言われたら、なす術がありません。仕方なしに、しかも、逮捕されないように、『ペトロは遠く離れて従った』のでしょう。 ◇にも拘わらず、ペトロは焚火をたいている人々に混じって、火に当たっていました。理由はひとつ、寒いからです。  そして肝心なことは、焚火だから、その炎の明るさで、ペトロの顔が見えました。寒いから、焚火に寄ったことで正体がばれたのです。  この出来事のひとつ前には、ゲッセマネの園で、ルカではオリーブ山ですが、イエスさまに『私のために祈っていなさい』と言われたにも拘わらず、三度眠りこけたことが記されています。三度という数字は、当然ながら、ルカ福音書の、  『ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」   と言われた主の言葉を思い出した。   62:そして外に出て、激しく泣いた』 に対応しています。 ◇ペトロはオリーブ山では眠かったために、イエスさまの言葉に従うことが出来ません。そして今度は寒かったために、イエスさまの言葉に従うことが出来ません。  弱いのです。ペトロ程の信仰の強さ、イエスさまに対する強い愛を持っていても、しかし、弱いのです。ペトロはペトロが代表する人間は、弱いのです。 ◇更に、やはりルカから引用します。女中にイエスの弟子だと指摘された後のことです。  『58:少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、     ペトロは、「いや、そうではない」と言った。   59:一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。     ガリラヤの者だから」と言い張った』  何故『ガリラヤの者だ』と分かったのでしょうか。  ここが私流の解釈ですが、と言うよりもそのように考えてしまう、考えずにはいられないのですが、『ガリラヤの者だ』と分かったのは、言葉です。ガリラヤの訛りです。私は東北人、秋田県人ですから、そのように感じてしまいます。 ◇無駄なことに時間が割けませんので簡単に申します。私が小学生だった頃、学校で、「悪い言葉を使うのは止めましょう」と教育されました。「悪い言葉」とは秋田弁のこと、秋田訛りのことです。このことでお話ししたいことはたくさんありますが、説教からは脱線で、時間の無駄ですから止めて置きます。  ペトロは『ガリラヤの者だ』と指摘されて、必死にそれを否定しますが、焦れば焦る程、訛りは強く出ます。否定していながら、ガリラヤ人だと告白しているようなものです。  ペテロは、眠いのに勝てません。寒いのに勝てません。そして、みっともありません。 人間はそうした存在です。 ◇さて、ルカ福音書の話に終始しています。ヨハネ福音書を見なくはなりません。  19節。  『僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。     ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた』  『寒かったので』とあります。先ほどお話ししたことの内、寒さに勝てない弱さがあったという点では当て嵌まりますが、『炭火』ですから、その炎で顔が浮かび上がって見えた、それで正体を暴露したという解釈は成り立ちません。『炭火』ですと、『焚火』程の明るさはありません。 ◇『炭火』と『焚火』どちらでも良さそうなものですが、やはり、ルカとヨハネとでは、強調する所が違います。  どちらが正確に事実を伝えているかではありません。ルカとヨハネとでは、この出来事の受け止め方が違います。  その違いは、ここにも出てきます。既に読んだ個所です。もう一度読みます。ルカでは、  『ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」   と言われた主の言葉を思い出した。   62:そして外に出て、激しく泣いた』  それがヨハネでは、27節。  『ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた』  三度否定したとも、悔やんで泣いたとも記されていません。 ◇この相違については、昔から、説明がされています。ヨハネ福音書が記されていた時代には、ペトロがかなりの程度まで神格化されていて、ヨハネもペトロに敬意を表して、結果、ペトロの躓き、弱さについては、あまり強調せず、逆に剣を抜いたのはペトロだという記述がヨハネだけにあるという説明です。そうかも知れません。 ◇しかし、私はこの点に注目します。  15〜16節です。  『15:シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。   この弟子は大祭司の知り合いだったので、   イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、   16:ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、     出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた』  『もう一人の弟子』は他の福音書には登場しません。誰のことなのか特定できません。『大祭司の知り合いだった』と言いますから、よほど社会的地位のある人でしょう。そうしますと、やはりヨハネ福音書だけに出て来るニコデモまたはアリマタヤのヨセフを連想させられますが、名前は上げられていません。  今の個所を省略して抜き出しますとこうなります。  『中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた』 ◇他の福音書を見ますと、ペトロはここぞという場面では必ずイエスさまに選ばれて、その側近くに置かれています。しかし、この肝心な場面では、『門の外に立ってい』ました。  ペトロは12弟子の筆頭格で、ちょっと偉いような顔をしていたかも知れません。当時のインテリが話すギリシャ語を話していたかも知れません。しかし、肝心の場面では、お国訛りは出るし、『門の外に立ってい』ました。ヨハネも、ルカと同様にかっこ悪い姿でペトロを描いたのでしょうか。違います。  ヨハネ13章36〜38節。長い引用をします。  『36:シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」     イエスが答えられた。「わたしの行く所に、   あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」   37:ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。   あなたのためなら命を捨てます。」   38:イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。     はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、   あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」』 ◇他の福音書と大差ない描写ですか、『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない』という言葉に強調があります。  これと『ペトロは門の外に立っていた』とが重なります。  更に、4月24日の聖書個所ですが、21章18節に重なります。  『18:はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、     行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、     他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』   詳細は4月24日に申します。上げた3つの個所とも、どこに立つのか、立たされるのかということに関心が置かれています。 ◇更に上げるならば、14章4節以下、また長い引用になります。  『4:わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」    5:トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。     どうして、その道を知ることができるでしょうか。」    6:イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。     わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』  ここも全く重なります。どこに立つのか、何を見て立つのか。こういうことです。 ◇4つの福音書で少なからぬ異動があります。どれが史実かという詮索は無用です。全部が本当です。4人の福音書記者が、それぞれの場所に立って、それぞれの場所から十字架を見上げています。そして、十字架を出発点として歩き始めます。目的地はまた、それぞれ自らの十字架です。  ですから、多くの共通点と多くの相違点が生まれます。どれも真実です。  前半で、ヨハネの説教なのにもっぱらルカの話をしました。しかも、かなり自己流と言いますか、私なりの解釈をお話ししました。福音書記者が、それぞれの場所に立って、それぞれの場所から十字架を見上げているように、説教する者もまた自分の立っている所からお話しします。それは必ずしも、恣意的な解釈ではないと考えます。  |