◇1節。 『イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。』 『誘惑を受けるため、“霊”に導かれて』と記されています。これは偶発的な出来事ではありません。必然的です。イエスさまが、必ず通らなければならない道筋の一つでした。その道とは、十字架へと続く道です。十字架、苦難・受難を目的地とする歩みの、その始まりは『誘惑』という試練でした。 マルコ福音書が一番はっきりしています。16章中、最後の一週間に、直接的に十字架の出来事に、半分以上の9章が割かれます。極端に最後の一週間に偏って、イエスさまの物語が描かれています。つまり、マルコ福音書は、イエス伝ではありません。十字架の物語です。このことは、マルコ程顕著でなくとも、他の福音書にも当て嵌まります。 ◇マタイ福音書の場合にも、4章にして、十字架への歩みが始まっていると言えます。2章には、ヘロデ王が、キリストである可能性があるベツレヘムとその周辺で生まれた2歳以下の男の子を皆殺しにしたと記されています。もしかしたら、マタイでも2章から十字架が始まっているのかも知れません。 ◇さて、誘惑するのは、悪魔です。元の字を見ますと、ヘブル語のサタンに相当する字が使われています。ヘブル語のままですとサタンですが、ギリシャ語では悪魔と翻訳されます。いずれにしろ、元の意味は「訴える者」です。ヨブ記の冒頭部分を読んでいただければ分かります。元々、サタンとは、人の罪を告発する存在です。暴き出す存在です。それが、更に誘惑して罪を引き出す、罪を促す存在と理解されるようになります。 しかし、今日はサタンとは何者かについてはこれ以上説明しません。そうではなくて、誘惑について、誘惑の内容についてみたいと考えます。 ◇2節。 『そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。』 神の子が人間の姿になられたのが、キリストですから、食べるし、食べないとお腹が空くのは当然でしょう。食べなくとも良い、食べなくともお腹が空かないのでは、とても人間の姿になられたとは言えません。 それでは、食べたからには排便はどうかとかと、想像を巡らすのは意味がありません。聖書に全く記されていないことを詮索するのは、不敬というよりも無意味だと考えます。答えは出て来ませんし、出たとしても、意味はありません。 ◇イエスさまも『空腹を覚えられた』と書いてあります。この書いてあることが大事な事です。 人間は食べなくては生きていけません。食糧問題こそが、人類が始まって以来の、最も切羽詰まった問題です。それは現代でも同じです。 だからこそ、イエスさまも『空腹を覚えられた』と書いてあることは、とても大事な事です。イエスさまは、正に人間の姿になられました。そして、人間の苦しみ、悩みをご存知です。それが『空腹を覚えられた』という表現になっています。 ◇3節。 『すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」』 言い換えれば、『神の子なら』、人間にとって最も深刻な問題である食糧問題を解決しろと、言ったことになります。 悪魔の言う通りかも知れません。食糧問題を解決することこそが、多くの国の指導者に求められることです。 ◇しかし、ほぼほぼ食糧問題は解決されている国があります。少なくとも深刻な問題ではありません。日本もそうです。むしろ、飽食とそれによる健康問題、生活習慣病の方が、深刻になっています。 世界には、未だに食料に窮し、十分な栄養が取れない何千万、もしかしたら何億人の人がいるのに、飢えた子どもがいるのに、一方では、アメリカや日本のように、飽食の民がいます。この飽食の民の中にも、飢餓のこどもが暮らしています。 この事実を見たら、あまりにも明らかです。『石がパンになる』ことがあっても、問題は解決しません。飽食の国は、飢餓の国よりも遙かにましかも知れません。しかし、飽食の国民が、貧困な国民よりも幸福だとは限りません。 数年前、ブータンの国情が盛んに報道されました。国民一人当りの所得が年間20万円なのに、その国民の97%が、幸福だと感じており、その10倍もの所得がある日本では、遙かに数字が低いのです。むしろ不幸を感じているのです。 ◇また、空腹は、ある意味、象徴的な表現です。人間は空腹を覚える生き物です。空腹ならば動物たちも、それを感じます。深刻です。 しかし、人間は十分に食べてもなお空腹を感じています。それが飽食になるのでしょう。ライオンは、満腹ならば、他の生き物を襲うことはありません。むしろ、満腹を感じないのが人間です。 空腹とは、足りないもの、足りないこと、不満の象徴です。人間は、満足を知らない生き物です。食べ物でも、より多く、より美味しく、更により珍しいものを求めて飽くことがありません。食べ物だけではありません。人間は、あらゆることで満足を知りません。 ◇中世のヨーロッパでは、錬金術が追求されました。アルケミストが、本当に存在しました。マタイに書かれていることと、ぴったりと重なります。 『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」』 言い換えれば、『神の子なら、これらの石が金になるように命じたらどうだ。」』 同じことです。 流石に近代では錬金術は廃れましたが、この言葉は今でも盛んに使われます。何かの産業や商売でぼろ儲けすることを錬金術と言います。大抵良い意味ではありません。 ◇4節。 『イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」』 元々は、ヨシア王の宗教改革と結び付いた言葉だそうです。端折って言えば、兵隊の給料は払えないけれども、お国の危機のために命がけで働きなさいという意味だそうです。 人間は、真に大事なことのためには損得なしで働くという意味にもなるかと思います。 今日でも、ウクライナの国で、損得を超えて、命掛けで働く人がいます。国を守るために戦う兵士たちもそうですが、戦争の悲惨を伝える報道陣、医療現場で働く人たちがいます。『人はパンだけで生きるものではない。』、全くの事実です。 ◇どういう理由であれ、戦争そのものを、兵士そのものを礼賛するのは、憚られますが、豊かさの中でも、不平・不満を言い、満足を知らないのが人間ならば、損得を超えて命がけで働くのも人間です。動物は、そんなことはしません。 3.11の一月程後、被災した町々を訪ねました。『教団新報』の取材です。都合、5回ほど参りました。 その際に、釜石の町の教会の前にテントが張られ、医療相談に当たっている人物を見掛けました。何だか、見覚えがあります。近づいて良く見ると、かつて玉川教会でお招きし、講演をして貰ったお医者さんです。その当時は、ネパールで働いておられました。 ◇「先生、今どこにおられるのですか」と挨拶しました。「ネパールでの働きは終えられたのですか」「その後、こちらにお移りになられていたのですか」という意味です。 ところが彼は、「ここにいますよ」と答えました。とんちんかんな問答になってしまいました。多分、彼が言いたいのは、「患者がいる所に医者あり、医者がいるべき所は他にあらず」という意味なのでしょう。 この人に、「ネパールでの月給はいくらですか」と聞いたことがあります。1万円でした。月1万円です。この数字に、金額に、ただただ驚いたのを覚えています。 『人はパンだけで生きるものではない。』それを実践する人が、実際に存在するのです。 ◇5〜6節。 【次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 6:言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。 『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」】 人間にとって、食糧問題の次に深刻なのは、健康問題です。日本では、食糧問題はほぼ隠れていますから、一番の問題かも知れません。テレビでは、毎日毎日、何が健康に良い何が悪いということが、伝えられています。健康体操だけで大した数で、これを全部やったら、一日24時間でも足りないでしょう。 薬とかサプリメントも盛んに宣伝されています。全部摂ったら、お腹がいっぱいになるでしょう。その内に、薬を飲み過ぎる人のための薬が発売されるかも知れません。もしかしたら既に発売されていますか。 ◇健康第一、健康のためならば命も要らないと言ったのは誰だったでしょうか。 中性では錬金術が盛んだったと申しましたが、それ以前、古代から、王や権力者は、不老不死を求めました。エジプト、ヨーロッパでも中国でも、日本でも、これを追い求めて一生を費やした人々がいます。 不老不死でなくとも、若さを求める熱心もあります。これも、体操、食事、薬、更に美容手術、大変盛んです。 ◇7節。 【イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』 とも書いてある」と言われた。】 イエスさまは、この誘惑をも退けました。誘惑とは、イエスさまご自身の健康や怪我の心配ではありません。当然です。心配は、勿論、国民のこと、人間のことです。 現代ですと、医療の問題、それを支える保険制度のことが、深刻な問題になっています。日本では、最も切実にに求められることでしょうか。 イエスさまは、これも絶対のことではないと判断されています。 ◇8〜9節。 【更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、 世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 9:「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。】 最後の誘惑は、政治です。確かに、神さまご自身が政治を執られたら、世の中、良くなり、食料問題を初め、いろいろな困難も解決に向かうのではないでしょうか。 現代でさえも、とんでもない政治家がいて、これが国民を苦しめ、命を脅かしています。他国に侵略する者もいます。 ◇イエスさまは、この誘惑をも退けました。10節。 【すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』と書いてある。」】 ここに至って良く分かります。 人間の不満とは、神への不満なのです。神への不信なのです。サタンとは、1節の悪魔も同じ意味ですが、人間を、神への不満、不信へと誘惑する存在なのです。 ◇聖書研究祈祷会でヘブライ書を読みました。1章から少しずつ学び続け、先週読み終えました。30週程も費やして学んだことを、数行に要約することは出来ませんが、このことだけお話ししたいと思います。 当時の教会員は、使徒たちの教えだけでは満足出来ず、イエスさまだけでは満足出来ず、いろんなものに誘惑されました。星や月を拝む星晨信仰、モーセの神格化、天使崇拝、律法、いろんなもので使徒たちが伝えた福音を補おうとしました。 こういう人たちに、ヘブライ書は、イエスさまが、イエスさまだけが救いの根拠であること、十字架だけが人の罪を贖うと諭しました。そして、足りないものを数えるのではなく、与えられているものを数えなさいと言います。 ◇私たちの教会も同様です。足りないものを数えだしたら、キリがありません。一つ与えられれば、次のものが欲しくなります。終わりはありません。むしろ、今与えられているものを数え、その恵みに感謝しなくてはなりません。 そのようにいうと老人くさいと批判されるかも知れません。確かに、不満が進歩をもたらすという側面は否定出来ません。しかし、その根底の感謝がなくては、先もありません。 |