◇先ず、2〜3節をご覧下さい。 『兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、 3:そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った』 ローマ帝国軍の兵士たちは、何故、このような狼藉を働くのでしょうか。イエスさまに何の恨みがあるのでしょうか。実は、恨みも意味もありません。兵士たちは、ユダヤ教徒ではありません。ですから、メシアであれなんであれ、イエスなどという男に、特別の関心はありません。しかし、ピラトに命令されて、嫌な仕事、むしろ面倒くさい仕事させられていました。 24節もご覧下さい。 『そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、 くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、 わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。 兵士たちはこのとおりにしたのである』 ここに書いてある通りでしょうが、私は、もう一つの隠された事実が存在すると思います。そもそも、何故くじなのかということです。 兵士たちは、つまらない見張り番のような仕事をさせられた時に、サイコロなどを使い、博打をして、気を紛らしていたのだと推測します。 ◇十字架刑は残酷な刑罰です。殺すこと以上に、苦しませることに意味があります。ですから、槍で突き刺して速やかに確実に殺すのではなく、両足両手に釘打って、十字架に吊します。体重の全てを、釘打たれた傷口が支えます。 釘が塞ぎますから、出血はあまりありません。頑強な男なら、息絶えるまで3日もかかったと言います。ですから、途中で誰か助けに来ないように、兵士が張り番をします。呻いたり泣いたりする死刑囚の足下で、場合によっては、3日も過ごさなければならない始末になります。 おそらくは、それが、兵士たちが、狼藉を働いた理由です。 ◇兵士たちは、ユダヤ人ではありませんし、おそらくはローマ人でもありません。かなり高い確率で言うことが出来ますが、ローマに侵略された周辺民族から徴用されたものでしょう。こういう兵士たちこそ、最前線に送られ、一番きつい嫌な仕事をさせられます。 ローマのために命がけで戦う気持ちなど、全くありません。嫌々戦い働いています。それならば、かつて自分たちが味わった苦しみの中に今ある、村々の住民に同情、親近感を覚えても良さそうに思うのですが、どうもそのようにはならないようです。絶対的な権力を持つローマに抵抗出来ない分、その憂さを、現地の住民に向けてしまいます。それが略奪や虐殺に繋がります。歴史上、そのような出来事が繰り返されて来ました。現代でも同じことでしょう。 『失われた地平線』や『チップス先生さようなら』で知られるヒルトンに、『鎧なき騎士』という長編小説があります。そこには、ロシア革命時の赤軍白軍双方の虐殺行為や略奪の様が、これでもかというくらい詳細に描かれています。小説の中とは言え、出来事の一つ一つは、ほぼほぼ史実を反映していると言われています。ベトナム戦争時にも、虐殺が繰り返されたようです。今もまた、同じことが起こっているのかも知れません。 ◇4〜5節。 『ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。 そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。 ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。 6:祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。 十字架につけろ」と叫んだ』 ピラトが『わたしが彼に何の罪も見いだせない』と言ったのは、イエスを庇ったからでも、その無罪を信じたからでもありません。拘わりたくなかったからです。先週もお話ししましたように、ローマの地方長官という仕事は、任期中、事なきを得て、財を蓄え、それを元手にローマで立身出世をするためのポジションです。日本で言えば長崎奉行でしょうか。大手柄を立てる可能性は少なく、逆に、何事かが起これば責任問題です。ですから、どうしても事なかれ主義、無責任になります。ピラトは単に、責任転嫁をしたのです。 ◇それは『祭司長たち』も同様です。彼らはイエスさまを憎んでいたようですが、手っ取り早く暗殺する、またはリンチに架ける気はありません。それはローマとの関係を損ねる危険があります。治安維持に反する行為です。 彼らも責任転嫁します。7節。 『ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、 この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」』 ならば自分たちの律法で死罪にしたら良いと思うのですが、それはしません。何故なら、裁判権をローマに取られているからです。裁判・死罪を強行すればローマの権益を犯したことになり、ローマへの反抗と受け取られかねません。だから、ピラトに裁判死刑宣告を要求しています。 しかし、これは、彼らにとって、大きな矛盾です。つまり、この要求が即ち、ローマの裁判権を認めたことになります。自らの権限をローマに委譲したことになります。 ◇8節。 『ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ』 『ますます』と言うのですから、当初から『恐れ』ていました。この出来事が、騒乱に繋がり、果てはピラトの責任問題になることを『恐れ』ていました。 今、『祭司長たち』の要求を飲めば、イエスの支持者たちがどのような反応を示すかが心配だったでしょう。弟子の中に剣を抜いた者がいたことも、報告されていたでしょう。 何より、例えばゼーロータイ・熱心党の者は、イエスを守るためではなく、裁判権を守るために、ローマに反抗するかも知れません。 ◇9〜10節。 『9:再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。 しかし、イエスは答えようとされなかった。』 『お前はどこから来たのか』と何故問うたのか、分かりません。裁判を始めようとしたのでしょうか。そういうことではなくて、先週お話ししましたように、この前後で、それぞれの立ち位置が問題になっていますので、それに関連した言葉でしょう。先週の主題ですから、ここでは取り上げません。 『イエスは答えようとされなかった』が大事かと思います。これは、言質を取られまいとするためではありません。「神の元から来た」と答えれば、神を僭称する者とされたでしょう。しかし、それを避けるためではありません。 本来裁判権を守るべき立場の『祭司長たち』がローマに迎合していますが、イエスさまは、この法廷を認めてはいません。大いなる皮肉です。 『祭司長たち』は何かにつけ、イエスさまをユダヤ教の権威に反抗する者だと言いますが、彼らこそ、その権威を貶め、むしろイエスさまが、それを守っています。皮肉です。 ◇10節。 『そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、 十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」』 『祭司長たち』は、結果的に権限をピラトに委譲しました。ローマの権限を認めてしまいました。 ◇11節。 『イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、 わたしに対して何の権限もないはずだ。 だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」』 イエスさまはローマの裁判権など認めません。しかし、『祭司長たち』の権限をも認めていません。その権限はただ神にあります。 ピラトも『祭司長たち』も、これが分かっていません。 結果的に、『引き渡した者の罪』とは、『権限はただ神にあ』ることを否定したことです。神の権限をローマに『引き渡した』のです。 ◇12節。 『そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。 「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。 王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」』 自分の損得しか考えていないピラトでさえ、裁判から手を引きたいと考えたのに、 『ユダヤ人たちは叫んだ』 何を叫んだのか、彼らは分かっていません。 『王と自称する者は皆、皇帝に背いています』 彼らは、この言葉で全くローマ皇帝の権威を認めたことになります。 これは15節後半でよりはっきりとします。 『祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた』 イエスさまに限らず、神によって立てられたユダヤ人の王は、全て否定されました。ローマ皇帝だけが、本当の王だと、『祭司長たちは』叫んでしまったのです。 ◇このローマ皇帝は、現人神でした。ユダヤ教の神殿の中にまで、ローマ皇帝の偶像が立てられ、これを拝むことが強制されていました。このことを巡って反乱が起きては鎮圧されるという出来事が繰り返されていました。 しかし今『祭司長たちは』、明確に『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と言いました。これは言い換えれば「わたしたちには、皇帝のほかに神はありません」になります。大いなる皮肉です。彼らは自らが掘った穴に落ちました。 ◇13節。 『ラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、 すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。』 ここでも立ち位置が問題にされていますが、先週の説教の主題ですので、今日は触れません。省略します。しかし、総督官邸ではなく、他の場所で裁判が行われたということは重要でしょう。『敷石』とは、ローマの法廷などに見られるもので、モザイクの敷石があったと言われています。つまり、ローマの権威の元での裁判になってしまいました。 ◇14〜15節。 『14:それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、 「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、 15:彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」 ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、 祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。』 後半部は既にお話ししました。『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』彼らは、ローマ皇帝を王として、現人神として認めてしまいました。 前半部、ピラトは『見よ、あなたたちの王だ』と言いました。 ヨハネ福音書の著者がどこまで意識していたのかは分かりませんが、これも結果的には、『祭司長たち』が要求したローマの法廷で、イエスさまは『見よ、あなたたちの王だ』と言われました。『祭司長たち』が権威を認めたローマの法廷で、『見よ、あなたたちの王だ』と宣言されました。このピラトの言葉によってこそ、形式的には、イエスさまはユダヤ人の王として裁かれ、『殺せ。殺せ。十字架につけろ』と、死罪を言い渡されました。 ◇振り返ってみれば … 、2〜3節をもう一度読みます。 『兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、 3:そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った』 『兵士たちは』、結果的にイエスさまを王位に付けたのです。この狼藉は同時に戴冠式でもありました。王の座る椅子とは、勿論十字架です。 ◇16節。 『そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。』 『イエスを彼らに引き渡した』とあります。つまり、最終的に死刑を執行したのは、『彼ら』です。『祭司長たちや下役たち』です。 彼らは、自分たちには死刑判決が出せないと言って、裁判をピラトに持ち込んだのですが、ここで再び、『引き渡し』を受け、自分たちの手で執行しました。これは18節にも符合します。『そこで、彼らはイエスを十字架につけた。』 直接手を下したのはローマの兵士だったとしても、やはり、この罪の責任を負うべきは『祭司長たち』です。彼らは、ユダヤ人の王、自らの王を十字架刑に処したのです。 |