◇先週の個所ですが、先ず13節から読みます。  『神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。     このことから、わたしたちが神の内にとどまり、   神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。』  神の愛について論じている文脈の中に、いかにも唐突な仕方で、聖霊の話が出て来ました。聖書の中のことですから、何時、何所で聖霊の話になっても怪しむには足りないかも知れません。  しかし、実は聖霊という言葉は、ヨハネ書簡の中には殆ど出て来ません。新共同訳聖書でも口語訳聖書でも、聖霊と訳されているのはゼロ、どこにもありません。口語訳聖書で御霊と訳されているのが、今日の箇所だけ、霊と訳されているのが4章の始めの所で8回出てきますが、まあ簡単な言い方をすれは、良い霊が『神の霊』『告白する霊』『真理の霊』の3回だけで、後は悪い霊などです。  内容的なことに重点を置いて見れば、2章1節の助け主こそ、聖霊です。ヨハネ書簡の中には聖霊という字が一回も使われていません。とても意外な感じがするのですが、事実です。最もヨハネ福音書でも3回に過ぎません。  その代わり、愛はヨハネの第1の手紙だけで、実に、53回です。全部で105節の内、53節、2節に1回以上の割合で用いられているのです。  ヨハネという人は、愛と言う言葉は大好きだが、何か理由があって聖霊という言葉を嫌っているのではないか、とさえ思わされます。 ◇聖霊が殆ど用いられていないのに、突然として聖霊の話になったのですから、この13節は大いに注目すべきでしょう。何故なら、13節に述べられていることは、内容的に、聖霊と言う言葉が大好きと言いますか、頻繁に用いるルカが言っていることと、完全に一致するように思うからです。  例えば、使徒言行録2章のペンテコステの出来事を思い起こして下さい。詳しくお話ししていたら、それだけで1回分の説教になりますから、端折って端折って結論だけを申します。  ペンテコステの出来事は、創世記11章のバベルの塔の物語と丁度反対の極にあります。つまり、創世記11章では、人間が力を合わせてけしからぬ塔を築き、自分たちが神の高みに登ろうと考えます。その結果、神の怒りが下り、彼らは塔からバラバラと落とされ、そして、彼らは互いに言葉が通わなくなってしまいます。勿論気持ちが通わなくなってしまいます。これは、人間が力を結集したら、例えば戦争のようにろくなことをしない、むしろ、バラバラでいる方が、世のため人のためだという、暗い否定的な人間観に立った物語です。  確かにその通りだと思えることがあります。今日の韓国大統領選挙絡みの反日運動などを見ますと、そんなことを考えさせられます。反日というスローガンで、国内のいろいろな問題や国民の不満をごまかしてしまうのです。  勿論同じことが日本にだって同じことが当てはまります。人は互胃の理解によって結び付くことは困難だけれども、実に容易に憎しみによって結び付きます。理解は人と人との接着剤にはならないようです。効果的な接着剤は憎しみです。 ◇一方、使徒言行録に描かれるペンテコステ・聖霊降臨は、聖霊が下ったことによって、教会に世界宣教という一つの目的が与えられました。人と人との心が通い合い、一つの目標のために祈りを合わせます。祈りを合わせ、力を合わせるということが描かれています。  ペンテコステに始まる使徒言行録の物語は、聖霊が主の十字架と復活を宣べ伝え、教会を作り上げていく様子を描いています。  4章13節では、人と人とが心通わせ、人と人とが力を合わせることよりも、神の御旨が人間に示される、届けられるということの方に強調が置かれています。 ◇ヨハネの愛も同様であると考えます。つまり、愛は、信仰共同体の基であり、伝道と教会形成のエネルギーを与えるものです。ヨハネは聖霊という字を使いませんが、愛という言葉で、聖霊の働きを描いています。  勿論、その愛とは、第一義的に、人間同士の愛や、相互理解とかではありません。  14〜15節。  『14:わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、     またそのことを証ししています。    15:イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、     神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。』。  『御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見』これは、使徒言行録の聖霊体験と同じことです。  キリストの十字架と、使徒言行録の教会に聖霊が下されたこととは、全く同じ出来事に基づくのです。それは、神の愛が人間に下されたことです。  この辺りは、急がないで、聖書の順番に読んでまいります。 ◇16節。  『わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。     神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、     神もその人の内にとどまってくださいます。』  神の愛について、述べられています。愛は神の一部である。神の性格である、神の属性である。つまりは、神さまの一面である。そんなことを言っているのではありません。『神は愛なり』。愛は、神の本質だと言っているのです。  先週読みましたように、8節でも同じように、『神は愛なり』と断定しており、9節が、その説明になっています。  『神は、独り子を世にお遣わしになりました。     その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。     ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。』  これは、神の愛の証拠を上げているのです。しかし、ヨハネにはもっと明確に述べている箇所が、幾つもあります。3章16節がその極めつけです。  『イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。     そのことによって、わたしたちは愛を知りました。     だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。』 ◇4章9節には、もう一つの要素があります。もう一度読みます。  『神は、独り子を世にお遣わしになりました。     その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。   ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。』  彼によってとは、勿論、イエスさまの十字架の出来事です。そのことによって、つまり、イエスさまの死によって、『わたしたちが生きるようになる』のです。つまり、3章16節の『主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さいました』と同じです。  生きる者となる。命を与えられた。愛を与えることと、命を与えることとが、一つこととして語られています。このことが強調されています。 ◇少し飛躍しますが、創世記1章7節の人間の想像の場面を思い起こして下さい。  『主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。     そこで人は生きた者となった』  今日の箇所と符号します。『命の息』とは、聖霊であり、そして愛です。神が私たちに生命を与えて下さった。それは、神が私たちに聖霊を与えて下さったことであり、且つ、神が私たちに愛を与えて下さったことです。 ◇聖霊・愛・命が、互いに不可分離的であることは、17節、18節にも述べられています。17節を読みます。  『こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、     裁きの日に確信を持つことができます。     この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。』  『裁きの日』という新しい要素が出てきて、重ねられて論じられていますから、大変分かり辛いのですが、むしろこれが全てのことの出発点かも知れません。当時のキリスト者にとって、『裁きの日』は、極めてリアルなものでありました。私たちも終わりの日の信仰を持っているのですが、リアルさが全然違います。  当時のキリスト者は、この世の終わりがやって来て、誰もが裁きの座に立たされる、そういう信仰を現実味のあることとして持っていました。言い換えれば、信仰と言うよりも、終末の死への恐怖、滅びへの恐怖、自分の存在の全てが否定されることへの恐怖を感じていました。  これに何とか対策しなければならないくらいの気持ちを持っていました。 ◇18節。  『愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。     なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。』  死への恐怖、滅びへの恐怖、自分の存在の全てが否定されることへの恐怖、これを克服するものが、イエスさまの十字架の出来事です。そのことによって示された、愛であり、そのことによってもたらされた、生命であり、聖霊だけが、これらの極めてリアルな恐怖と闘う力なのです。 ◇このような文脈で、19節の言葉を聞かなくてはなりません。  『わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。』   前回の説教で、この言葉をごくごく人間的な観点から説明しました。つまり、愛されて育った者だけが、本当に人を愛することができるようになる。神の愛を知っている者は、どんなに辛い環境にあっても愛に生きることができると。間違ったことを言ったつもりはありませんが、しかし、それだけでは、本当にこの箇所を読んだことにはならなりません。  『わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。』   この言葉の意味は、イエスさまの十字架が、私たちを、私たちの教会を贖い取って下さったということです。私たちに聖霊を下さり、命を下さっているということです。  そういう私たちが、愛を忘れ、ましてやそれを憎しみに変えることなどあってはならない、ある筈がないと言っているのです。 ◇20節。  『「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。     目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。』  『兄弟を憎む』ことは、愛情・思いやりが足りないという次元の話ではありません。イエスさまの愛を、つまりは、その十字架の出来事を否定することに他なりません。 ◇21節。  『神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。』  今回のTヨハネの説教を通じて、同じことを繰り返しお話ししています。  つまり、私たちは、その相手に愛すべき美点があるから愛するというのではありません。しかし、一方で、美点がないのに、愛することができないのが正直な気持ちだなどと言ってもなりません。これは、『戒め』なのです。 私たちの感情・私たちの好き嫌いではありません。  逆に言えば、主の戒めだから、私たちには、この人を愛する十分な理由が・根拠が与えられているのです。愛することができるのです。  私のために十字架に架けられた方が、この人のためにも十字架に架けられたのだから。  この人は、イエスさまに愛された人なのだから。 ◇蛇足になってしまうかも知れませんが、おまけで申します。  公園で遊ぶ子どもの姿を思い浮かべて下さい。よちよち歩きの子どもが、もう少し大きい子供たちが遊んでいる仲間に入ろうとします。邪険にされます。そうしますと、この子は泣きながらお母さんのところに行き、抱っこされます。そうして、また、意地悪な子供たちの所に近づいて行きます。同じことをもう一度繰り返すかも知れません。  しかし、このよちよち歩きの子どもを愚かだと言ってはなりません。この子は、一番大切なことを、一番賢いことをしているのです。大きい子どもによって傷付けられた心を、お母さんの元で癒やし、勇気づけられて、また世界に出て行くのですから。  うまいことを言う人がいるものです。このような良く見られる光景は、ビタミンI(愛)の補給だそうです。  どんな時にも絶対に愛してくれるお母さんのところで、ビタミンI(愛)を補充します。そうしますとまた元気が出で、恐れることなく、外の世界に挑戦出来るのです。  私たちも同様でしょう。この世界には厳しい現実があります。私たちを傷付けます。私たちを貶め、躓かせ、時に鞭打ちます。  しかし私たちにはビタミンI(愛)があります。十字架の救いがあります。  『愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。』   |