▼礼拝説教のテキストとして旧約聖書と新約聖書と二箇所を挙げる牧師がいます。旧約か新約かどちらかを挙げる牧師と、半々、もしかしたら、両方挙げる牧師の方が多いかも知れません。私は、両方上げると、どっちつかずで散漫になるかも知れない、どうしても説教時間が長くなるという理由から、両方を挙げることは滅多にありません。 しかし、旧約預言の成就が新約だという観点からは、両方上げる方が正しいのではないかなとは、日頃考えています。 ▼今日の箇所こそは、旧約も上げた方が良いだろうと思います。理由は、聞いていただければ納得いただけるかと思います。聖書箇所だけで合点が行かれるかも知れません。 列王記下5章1節以下、ナアマン将軍の話です。引用・朗読すると長くなりますので、粗筋でお話しします。 ▼アラムの将軍ナアマンは、重い皮膚病に罹っていました。ナアマンの家で、捕虜にされ仕えていたユダヤ娘は、イスラエルの預言者エリシャならナアマンの病気を直せるだろうと、将軍の妻に進言します。 アラムの王は、これを受けて、ナアマンの病気を癒やしてほしいという内容の手紙と多くの贈り物を持たせて、イスラエルへ使いを送り出します。 イスラエル王は預言者エリシャとの関係がこじれていました。そこで、手紙を、アラムからの嫌がらせか、イスラエルを攻撃する機会を狙ったものと邪推しました。自分の服を引き裂き、この事態を嘆いた程です。それを知ったエリシャは、ナアマンを自分の元に送るように、王に願い求めます。 ナアマンは、自分の病を癒やすために、エリシャ自らが患部に手を置き祈ってくれるものと考えていました。しかし、エリシャは「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい」と命じます。そう言われて、ナアマンは一度は腹を立てて帰ろうとします。 ▼絶望的な病に苦しみ、召使いの少女の情報にまですがったナアマンは、しかしそれでも、有力な将軍としての立場を捨てることは出来ません。地位にふさわしい特別な手当、待遇を期待します。病にあったからこそ、自分の立場、プライドを保ちたかったのかも知れません。 ここに大きな教訓があります。人間は自分を特別扱いして欲しいのです。病気だからこそ、苦しいからこそ、神さまに特別扱いして欲しいのです。 ▼脱線かも知れませんが、この機会に申します。一昔前の学校では、学級の中にリーダーとなるべき子、逆に問題児になるかも知れない子を見出し、これをうまく利用したり協力させたりすることが、学級掌握の鍵だと考えられていました。一昔ではなく、二昔かも知れません。 今では、これは原則してはならないことです。人権問題とかもありますが、要は効果よりも弊害の方が大きいことが分かったからです。 ▼これは教会、牧会ということにも当て嵌まるかと思います。教会員の中で、真に頼りになる人を見出す、或いは作る、そして、絶対の信頼関係を持つ、これが牧師の牧会能力だと考える人がいます。確かに、一昔前の教会では、このような現実がありました。多分効率的で、確実な手段なのでしょう。意までもそのような組織を持っている教会があります。 しかし、ここからこそ、ほころびが始まり、破綻に至る教会も少なくないようです。何処がとかとは言えませんが、私は、こういう事例を沢山見せられてきました。 ▼ナアマン将軍の物語、続きを引用します。 12.イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。 13.しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」 14.ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。 15.彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」 ▼この物語の主題を、なるべく簡単に説明します。どんなに有力な人間であっても、神の前に特権などありません。謙虚にひれ伏して初めて、救いに与ることが出来ます。こういう話だと思います。もしナアマン将軍が、自分の立場・誇りを絶対のものとして、譲らなかったならば、彼は救いに与ることは出来なかったでしょう。 ▼百人隊長の物語に話を移します。 今日の箇所に登場する百人隊長は、ルカ福音書の並行記事だと、会堂一つを寄進したとあります。百人隊長のふところ具合は分かりません。しかし、百人隊長とは、高級軍人という程の地位ではありません。おそらく彼は、ローマ人でもギリシャ人でもないでしょう。決して、有り余る財産を持っていたのではないと考えます。会堂一つ建立するのにどれほどのお金がいるのかは分かりませんが、並大抵のことではありません。 ▼百人隊長の名前さえ記されていませんが、何とか百人隊長記念会堂とか、名前を付けたくなるのが普通です。この百人隊長には、そのような執着は見えません。 そのことが、むしろ、不思議です。そもそも、この人は、どのような信仰を持っていたのでしょうか。先程も申しましたように、この人が、ローマ人でもギリシャ人でもないことは、ほぼ確実です。 そして、勿論、ユダヤ人でもありません。聖書からは、結局何人かは分かりません。 しかし、深くユダヤ教に帰依していました。割礼を受けた改宗者だったのでしょうか。そうだとも、そうではないとも書いてありません。 ▼その辺りのことを読むのに、8〜9節しか手がかりはありません。 これを見ますと、割礼を受けた改宗者だったようにも思えます。だからこそ、会堂を寄進したのでしょうか。しかし、別様にも読めます。 つまり、ローマの軍人であるという立場を思い計り、改宗して、真のユダヤ教徒、ユダヤ人になり得なかったからこそ、このように言っているのかも知れません。そういう読み方も、否定できません。 ▼どちらにしても、このような言動が取れるでしょうか。 冗談や酔狂で、ユダヤ教に帰依しているのではありません。決断、覚悟のいることです。 その決断を覚悟をしたのですから、それを、誇るのが当たり前です。 また、何人だったのかは分かりませんが、ユダヤに進駐している軍人です。高級軍人とは言えませんが、百人の部下を持つ隊長です。こういう中途半端な地位にいる人こそ、威張るのが普通です。 この百人隊長の姿勢は、謙虚という言葉で表現出来ることを越えています。不思議です。 ▼その不思議の理由は、矢張り、信仰なのです。8〜9節。取り敢えず9節だけ読みます。 【わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、 一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。 また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」】 これをどう、受け止めたら良いのでしょうか。 軍隊の規律秩序と教会の規律秩序とを重ねでいるのでしょうか。確かにそうだとは思います。この箇所から、具体的教訓として受け止めるべき事柄でしょう。特に、私たち日本のプロテスタント教会には、あまりにも、この規律秩序が欠けているからです。 100人牧師がいれば100通りの意見があり、誰もが自分の説に固執して、そもそも、教会の規律秩序に照らして考えることをしない、それが、日本基督教団の大問題です。 ▼しかし、この箇所に於いて一番肝心なことはそういうことではないでしょう。 肝心なことは、イエスさまの言葉のことです。 直接には、8節後半にこれが出てきます。 『ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます』 『ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます』ここです。 イエスさまの言葉が、人を癒すのです。そのことを、この百人隊長は、信じて疑わないのです。 ▼そして、イエスさまの言葉こそが、教会の秩序規律です。 会堂を寄進した百人隊長が、イエスさまに願い求めるものは、イエスさまのお言葉です。唯、お言葉のみです。 このことそ、私たちがここから、信仰上の教訓として受け止めるべきことでしょう。 私たちは、何を求めて教会に集い、何を願って聖書を開き祈るのでしょうか。癒しです。病院でも得られない、魂の癒し、救いです。何が、そのような魂の癒し、救いを私たちに与えてくれるのか。それは、イエスさまのお言葉なのです。 イエスさまのお言葉以外にはありません。 にも拘わらず、私たちは、イエスさまのお言葉以外のものを、イエスさまのお言葉ではないものを、教会求めます。聖書に期待します。 ▼逆に、私たちは、何を述べ伝えることが出来るのでしょうか。何が、この世に於ける教会の存在理由でしょうか。 イエスさまのお言葉です。唯、イエスさまのお言葉を、宣べ伝えるのが教会です。 それ以外に、教会が持っていて、他人に分け与えることが出来るものなどありません。 ▼病床にある教会員が、この頃、とても多くなっています。この事実そのものに、挫折感、無力感を覚えます。牧師として何も出来ないからです。 テレビや新聞のCMには、難病に効くという薬の広告が出ています。繰り返し繰り返し宣伝しているところをみますと、あまり効果はないようです。実際に効果があったら、直ぐに宣伝などなくなるでしょう。その内に、たくさんの薬を飲み過ぎる人のための薬が発売されるだろうと思います。 映画にもドラマにもニュースにも、霊的な能力を持つ人の話が出て来ます。勿論インチキですから、腹立たしい思いがしますが、一方で、羨ましいと言いますか、そんな力があったら良いなとは考えます。奇跡が起こることを、夢想します。看病に疲れる家族が慰められるような奇跡を願い求めます。 自分にはその超能力があると主張する牧師がいます。アメリカ南部や韓国では当たり前にいます。勿論インチキです。ロバート・マキャモンの小説には、このようなテレビ伝道師の偽善が詳しく描かれています。インチキでないなら、その能力を存分に発揮して、少しでも早く、少しでも多く、病気の人を癒やして貰いたいものです。教会に通えとか、献金しろとかもったいを付けずに、直ぐに癒やして貰いたいものです。 ★しかし、真に信仰に生きて来た人こそ、教会や牧師にそんなことは期待しません。 期待するのは、イエスさまのお言葉なのです。祈祷会で、祈ることなのです。 ★10節。 『イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。 イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』 『これほどの信仰』とは、会堂を寄進する程の、熱心な信仰の生活のことが踏まえられているのかも知れません。しかし、マタイ福音書では、直接そのことに触れられていません。むしろ、会堂を寄進したという事実に拘泥しないこと、手柄とはしないことこそが『これほどの信仰』の意味でしょう。 そして、それ以上に、自分の軍人としての立場や、他のことに拘泥せず、むしろ、自分を、本来、ユダヤ人ではない者、つまり、無資格な者であるとし、謙遜に信仰に仕えたことでしょう。 そして、それ以上に、他の者ではなく、イエスさまのお言葉を求めたことです。唯、イエスさまのお言葉に信頼し、そこに救いを見たことです。 ★13節。 『そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」 ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。』 イエスさまのお言葉は、病人を癒しました。『あなたが信じたとおりになるように』、その点では、正に百人隊長の信仰こそが、彼の僕の命を救ったのです。信仰が人を救うとは、その人に、主の言葉が与えられるということです。 |