日本基督教団 玉川平安教会

■2022年10月16日 説教映像

■説教題 「言葉で癒やされた

■聖書   マタイによる福音書 8章14〜22節 


★14節から順に読みます。

 『イエスはペトロの家に行き、

  そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった』

 『しゅうとめ』とあります。自然、ペトロは妻帯していたことになります。他にも、そのように解釈できる言及があります。しかし、逆に言えば、結婚していたことが類推されるというのが、せいぜいで、それ以上詳しいことは何も記されていません。

 マタイ福音書4章とマルコ福音書1章には、2組の兄弟計4人が弟子として召し出される話が出て来ますが、今日の箇所と読み重ねますと、ややこしいことになります。


★つまり、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言うイエスさまの言葉を、弟子として召し出されたと解釈し、更に言えば『二人はすぐに網を捨てて従った』という記述から、出家したくらいに受け止めるのが普通の読み方です。

 しかし、やかましいことを言えば、今日の箇所と重ね合わせますと、少なくとも出家とは言えないことになります。イエスさまの弟子になって以後も、ペトロは、その妻との関係を保っていることになります。出家しても、関係は続いていたとなりますでしょう。


★そうしますと、ヤコブとヨハネについても、

 『そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、

   父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、

   彼らをお呼びになった。

 22:この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った』

 この『舟と父親とを残して』という表現も、出家とかではなくて、ちょっとお茶を飲んで来るよ、夕方には戻るよと言う次元の話なのでしょうか。


★このようなことを考えても、これ以上、何ら判断材料は与えられません。考えても無駄です。そもそも、マタイ福音書も、マルコ福音書も、ペトロの妻、ペトロの結婚生活については、殆ど何も関心はありません。他の弟子たちについても同様です。

 勝手に想像を巡らして、薄弱な根拠に基づいて、弟子たち、ましてキリスト者一般の信仰と結婚についてあれこれ言うのは、全く意味を持ちません。結婚問題に関心がある人は、他の箇所、イエスさまが結婚について論じておられる箇所を読むべきでしょう。


★15節。

 『イエスがその手に触れられると、熱は去り、

  しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした』

 これは、極めて例外的な記事です。例外的な表現がなされている記事です。

例外的と言いますのは、『イエスがその手に触れられると』、この部分です。

 何の抵抗も疑問も持たずに読んでしまってはなりません。イエスさまは、普通、このよなことをなさいません。福音書に描かれるたくさんの奇跡物語、癒やしの場面で、実は、イエスさまが手を延ばされて、患者に触れられるのは、ごく例外的です。大抵の場合は、祈ることさえなさいません。痛い所に触りもしません。祈ることもありません。


★16節。

 『夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。

   イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた』

 これが普通の場面です。『言葉で悪霊を追い出し』と記されています。痛いところに触ったり、祈ったりはなさいません。

 『言葉で悪霊を追い出し』とありますから、何か呪いめいたことをなさったという感じがしますが、私は、15節の『イエスがその手に触れられると』と比較して、コントラストを付けていると解釈します。


★『イエスがその手に触れられると』が特別なのです。では何故、普段はなさらない特別な手法を用いられたのでしょうか。一番弟子ペトロの妻の母親だから特別扱いなのでしょうか。イエスさまは、日頃からペトロのしゅうとめをご存知だったのでしょうか。

 牧師はつまらないことに拘っていると受け止められる方があるかも知れません。しかし、私は拘りを持ってしまいます。

 何故なら、今日の箇所の直前、先々週の礼拝説教箇所です。長くなりますから、結論だけを申します。これは、一人の人が神の前に立つ時に、特別扱いなどない、誰もが一個の人間として、神の憐れみを求めて、ただ、それだけを求めて額づくという話をしました。その際にも引用したナアマン将軍の逸話が分かり易いでしょう。一国の将軍であっても、神さまの前に特別扱いなどありません。


★先々週の箇所でも、決定的なのはこの言葉です。

 『百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」

   ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた』

 イエスさまは、病人の元に赴くことはありませんでした。そもそも百人隊長は、8節、

 『「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。  ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます』

 イエスさまの言葉だけを求めました。言葉が与えられた時、病人は癒やされました。


★ペトロの姑の癒やしは、特異な出来事です。そして、もっと特異なのは、ここです。

 『イエスがその手に触れられると、熱は去り、

  しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした』

 前半部も例外的なことですが、後半はもっと例外的です。

 他の癒やしでも、病の者がたちまち元気になり、踊ったり歩いたりしますが、ちょっと性質が違います。

 『起き上がってイエスをもてなした』

 たちまち元気になったことも驚くべきことですが、それよりも大事なことは、『起き上がってイエスをもてなした』という事実です。感謝です。喜びが表現されています。踊ったり歩いたりする以上に、感謝、喜びが表現されています。

 今は、女性特有とか女性らしいとかと言うと叱られるかも知れません。しかし、2000年前のこの時代です。もてなすことが、ペトロの姑にとって、喜びと感謝を表す最大の行為だったのだと考えます。否、考えることもなく、元気になった体が、そのように動いたのでしょう。


★どこの教会でもそうですが、病気が治り、退院できた教会員が、感謝献金をします。これは、牧師としても、とても嬉しいことです。勿論、教会財政にとってもありがたいのですが、それ以上に、病が癒やされたこと、今は喜びがあることが、伝わって来るからです。

 玉川平安教会は、感謝献金が多くなりました。だんだん多くなりました。これは、教会が、そして一人がひとりが健全な信仰生活に活かされていることの、一つの印です。嬉しいことです。一方で、病を得る人が多いと言うことでもあります。喜んでばかりはいられないかも知れません。しかし、癒やされたこと、そこに喜びがあり感謝があることは、素直に嬉しいことです。


★18節。

 『イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、

  弟子たちに向こう岸に行くように命じられた』

 居合わせた誰が見ても素晴らしいことが起こりました。不思議な奇跡が現実になりました。いよいよ、イエスさまの評判は上がり、福音は進展する、そういう場面です。

 しかし、イエスさまは、その場を避けられました。群衆から離れようとなさいました。

 肉体の癒しがイエスさまの活動目的ではありません。信仰に依って肉体の病が癒やされると信じる人々、教会があります。そのことについては、何も申しません。しかし、肉体の癒しがイエスさまの活動目的ではないこと、はっきり言わなくてはなりません。当然、イエスさまにはそのような神癒の力があった、と信じることが信仰ではありませんし、その力を喧伝することが、教会の役割ではありません。伝道ではありません。

 このことは明確にしなくてはなりません。言わなくてはなりません。それだけで、キリスト教を名乗る新興宗教は、大半インチキだと分かります。


★19節。

 『そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、

   どこへでも従って参ります」と言った』

 後にペトロが言うことになる決意と、殆ど重なります。そのことも理由になります。18節と19節とを重ねて読むと、イエスさまは、この時点で、十字架の意義をほのめかしておられます。

 『向こう岸』とは十字架の立てられる場所のことです。苦しみの中にある群衆を残しておいてでも、イエスさまは、『向こう岸』へ渡らなくてはなりません。十字架のためです。

 一人ひとりの病を癒やすことよりも、人の罪を贖う十字架の道をイエスさまは選ばれるのです。キリスト教にとっては、病気の癒やしよりも罪の贖いの方が、遙かに重要です。


★20節。

 『イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。

   だが、人の子には枕する所もない。」』

 これを、イエスさまにだって休養が必要だ、心と体を休める場所と時間が必要だと読む人は、一人もいないでしょう。しかし、まるっきり見当違いではないかも知れません。

 イエスさまにも体力気力回復の休息が必用だと言ってしまったら、あまりにも人間的な見方でしょう。しかし、この箇所を想い出して下さい。ゲッセマネでの祈りの場面です。


★マタイ福音書26章37節以下。

 『36:それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、

   「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

  37:ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、

   そのとき、悲しみもだえ始められた。

   38:そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。

    ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」

   39:少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、

    この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

    しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

   40:それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、

    ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、

    わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。』


★この出来事も、イエスさまとても、弟子たちに祈り支えて貰わなくては、疲れ、倒れてしまうのかという読み方はありません。それは実は統一原理の解釈です。イエスさまにも力の限界がある、95%まではイエスさまご自身が担われるが、残りの5%を、信者が働き支えなくてはならないというのが、統一原理の解釈です。そんなことではありません。


★敢えて統一原理並みにうがった解釈を試みます。

 確かに統一原理の解釈は前提は間違っていないでしょう。教会は、信者は、イエスさまの働きを覚えて、このために祈ります。しかしそれは、イエスさまの力を補うためではありません。祈ることが、教会の役割、使命だからです。そして、イエスさまの言葉を、福音を、人々に取り次ぐことこそが、教会の役割、使命だからです。

 その意味で、教会は世の人々の体や心の痛みを忘れて、眠りこけていてはなりません。

 教会は世の人々の体や心の痛みには目を向けずに、自分たちのことばかりを考えていてはなりません。


★また一方で、どんなに善意が動機であっても、世のことだけに関心を持ち、教会が世の人の思いに占められてしまってはなりません。

 イエスさまは、しばしば、群衆を残して船に乗り、対岸に渡られたのですから。

 ペトロは、弟子たちを代表して信仰告白をした直後に、イエスさまが十字架を予告されると、それを押しとどめようとされました。十字架を防ごうとしました。マタイ福音書16章21〜23節。ちょっと長い引用です。

 『21:このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、

   律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、

   と弟子たちに打ち明け始められた。

 22:すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

  「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

 23:イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。

  あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」』

 21節22節も同様です。教会は人間のことばかりを思っていてはなりません。