日本基督教団 玉川平安教会

■2022年4月3日 説教映像

■説教題 「ナザレのイエス、ユダヤ人の王

■聖書   ヨハネによる福音書 19章17〜22節 

◇順に読みます。

 『イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、

   すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。』

 ここ数週、同じようなことを繰り返し申し上げました。4つの福音書の間で少なからぬ異動があります。それも、極めて重要な場面で、大きな違いがあります。

 ヨハネ福音書では、『自ら十字架を背負い』とあります。

 他の福音書を見ますと、

 マタイ福音書27章32節。

 『兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったの

   で、イエスの十字架を無理に担がせた。』

 マルコ福音書にもルカ福音書にも、キレネ人シモンがと記されています。

 

◇十字架を担うとは、キリスト者の生き方そのものとされる重要な事柄です。十字架を担う者即ちキリスト者です。

 その、そもそもの十字架を担ったのは、イエスさまご自身だったのか、それともキレネ人シモンだったのか、これは絶対に見逃せない違いです。どちらの福音書が正しいのでしょうか。

 時間が違うと説明する人がいます。最初はイエスさまがご自分で担い、後で、イエスさまが草臥れたからでしょうか、キレネ人シモンに押し付けられたのだという解釈です。

 ルカ福音書23章26節。

 『人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、

  十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。』

 確かに『イエスを引いて行く途中』とあります。最初は誰か他の人が十字架を担いでいた違いありません。しかし、イエスさまが『自ら十字架を背負い』とは記されていません。


◇マルコ福音書も見ます。15章20〜21節。

 『このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。

   そして、十字架につけるために外へ引き出した。

  21:そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、

   田舎から出て来て通りかかったので、

  兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。』

 ルカと同じだとも言えますが、『十字架につけるために外へ引き出した。21:そこへ』ですから、ルカ福音書の『イエスを引いて行く途中』とはちょっと違います。マルコでは最初からキレネ人シモンが担ったように見えます。


◇マルコ福音書には、他の福音書との大きな違いがあります。

 『アレクサンドロとルフォスとの父で』というシモンについての説明です。他にはありません。他にはありませんから、矛盾ではありませんが、何故、マルコはこのような注釈を付け加えたのでしょうか。逆に言いますと、何故他の福音書はこれを割愛したのでしょうか。

 これが、誰がイエスさまの十字架を担ったのかという疑問に大きな手掛かりを与えてくれるように思います。

 マルコ福音書が、『アレクサンドロとルフォスとの父で』と言ったのは、マルコ福音書の教会で、この兄弟が良く知られていたからだという解釈があります。私も賛成です。そして、マタイ、ルカ、ヨハネの教会では知られていなかったのかも知れません。『アレクサンドロとルフォス』が初代教会で指導的な立場にあったという解釈もありますが、これには疑問を覚えます。それならば、他の福音書が一番最初に記されたマルコ福音書にある記述をわさわざ割愛することはなかったのではないでしょうか。


◇本当の所は、分かりません。しかし、誰がイエスさまの十字架を担ったのかを考える時に大きな手掛かりです。

 同じ出来事を、マルコ福音書はマルコの関心で描いています。マルコの関心では、『アレクサンドロとルフォスとの父で』という表現は大事な欠かせないことだったのでしょう。


◇前準備が長くなりましたので、結論を急ぎたいと思います。

 マルコ福音書について先に述べた方が分かり易いかと考えます。

 14章51〜52節。

 『一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。

   人々が捕らえようとすると、

  52:亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。』

 この『裸で逃げてしまった』という『一人の若者』とはマルコ自身のことだという解釈をする人が圧倒的多数です。私もそのように考えます。

 マルコ福音書にはペトロの失敗談がたくさん盛られています。これは、ペトロが当時の礼拝の中で自分で語ったことであり、また、福音書を記しているマルコに、この話はちゃんと書きなさいと指示したのではないかと考えられています。ペトロはイエスさまの弟子の筆頭ですが、聖書の専門教育を受けた人ではありません。学問は出来ませんから、自分の失敗を罪を語ることで十字架を証ししたのでしょう。

 ペトロの言いつけ通り、彼の罪・失敗を記したマルコとしては、自分自身の失敗、惨めさも書き残さずにいられなかったのだと思います。


◇話が飛躍するようですが、無関係ではありません。少しお付き合い下さい。

 浮世絵師写楽とは誰だったのかという謎があります。諸説ありまして何冊も本が出ています。私などは、それぞれを読む毎に納得していまいます。と言っても、写楽は一人ですから、諸説の中で真実は一つしかありません。

 画家で芥川賞作家でもある池田満寿夫も、『これが写楽だ』という本を著しています。

候補に挙げられてきたような人ではなく、任期役者の大首絵の中に独り描かれた無名に近い役者こそが、写楽だという結論です。

 その根拠は、およそ絵描きは、その作品の中に自分自身を描くということにあります。確かに、そういう事例はたくさんあります。大勢の登場人物の中に、ひっそりと画家の顔があります。写楽も同様で、たくさんの絵の中の一枚を自分を当てたのだと言うのです。

 シュテファン・ツブァイクは、『トルストイ』伝の中で、トルストイの登場人物は、全て自分自身だと言っています。


◇これも長くなりました。結論を申します。

 マルコは自分の罪を失敗を描きました。つまり、自分は逃げ出した、イエスさまの十字架を担うことが出来なかった、逃げ出した、と罪の告白をしているのだと考えます。自分が逃げ出したから、本来無関係なシモンが、代わりに十字架を担ったのだと、強調しているのです。

 一方、ヨハネ福音書は、

 『イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、

  すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。』

 このように記します。つまり、あの十字架を自分が担うべきであった、しかし、弟子たちはいなかったから、『イエスは、自ら十字架を背負』はなくてはならなかったのだと、描いています。


◇そもそも、この時、十字架を担うのは、受刑者自身でした。イエスさまか担うのが決まりです。そんなことは、当時の人なら誰でも知っています。自分で棒を背負い、自分が埋められることになっている穴の前に運びます。この棒に、横木が加えられ、十字架にされて、立てられます。この穴を自分で掘らなくてはならない場合もあったようです。

 つまり、4つの福音書とも、当たり前のことを当たり前のようには描いていません。それぞれに、この十字架の意味を、そして自分たちの罪を告白しているのです。

 ヨハネは単に自分が見たこと、或いは聞いたことを記しているのではなく、自分の信仰の目で見たこと、信仰の耳で聞いたことを記しているのです。


◇写楽は誰だったのか、諸説あります。そのどれもが説得力を持ちます。もしかしたら、全部本当なのではないかと思うくらいです。そうしますと写楽は何人もいたことになります。それとも、何人かが協力したのでしょうか。それはあり得ないようです。

 しかし、十字架を背負った人については、複数説が正しいかも知れません。それは、時間差でいろいろな人が背負ったという意味ではありません。

 マタイも、マルコも、ルカもヨハネも、十字架を背負いました。それぞれの十字架を背負って、それぞれの信仰の道を歩きました。

 私たちも同じです。人には、それぞれの背中に十字架があります。それは自分自身の人生に与えられた十字架ですが、同時に、イエスさまの十字架です。


◇18節は省略して19節を読みます。

 『ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。

   それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。』

 ピラトが何故このようなことをしたのかは分かりません。先週読みましたように、ピラトは、決してイエスさまの十字架刑を望んではいませんでした。しかし、イエスさまに同情していたのでも、ましてその教えに感服していたのでもありません。ただ、騒動を恐れただけです。結果、ピラトは祭司長たちの言いなりに、イエスさまを十字架に架けることになってしまいました。自分の意見が通らなかった腹いせと言いますか、嫌みで、『「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書い』たのに過ぎないかと思います。

 しかし、これは称号です。決定的に重要な称号です。

 イエスさまは、経緯はともかく、『ユダヤ人の王』として十字架に架けられ処刑されたのです。


◇20節。

 『イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、

  多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、

  ギリシア語で書かれていた。』

 『場所は都に近かった』とあります。拘れば、『都に近かった』とは都ではないとなります。エルサレムは城郭都市です。ゴルゴダの丘は城郭の内ではないし、『都に近かった』とは、むしろ都から離れていたということでしょうか。つまり、今日ゴルゴダと呼ばれる場所ではなかったかも知れません。

 このことにもう少し拘りたいのですが、より重要なことがありますので、省きます。


◇『それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた』、これらの地名は、キリスト教がいち早く伝えられることになる土地です。『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』は、これからキリスト教が伝えられる国々の王でもあります。

 私たち日本人キリスト者は、キリストが王だということ、私たちはその国民だということを、殆ど意識しません。しかし、イエス・キリストを信じて洗礼を受け教会に連なるということは、神の国の市民として住民登録をすることです。

 当時のクリスチャンにとっては、このことは命がけの大事でした。

 ローマ帝国は多神教でした。つまり、帝国の中にいろいろな宗教があり、いろいろな神々が拝まれていました。ですから、その中に、聖書の神を拝む者がいても、痛痒はありません。キリスト教が迫害されたのは、聖書の神を拝むからではありません。聖書の神以外を拝まないからです。ローマ帝国の市民であることよりも、神の国の市民であることを優先するからです。


◇21〜22節。

 『ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、

   『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。

   22:しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、

   書いたままにしておけ」と答えた。』

 このやりとりを記すことで、イエスさまが『ユダヤ人の王』として処刑されたことが、より強調されています。十字架は、人々が自らの王を処刑した物語なのです。王だとは認めなかった物語なのです。


◇19章12節、先週の個所です。

 『そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。

   「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。

   王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」』

 ローマ帝国に占領され、虐げられているユダヤ人が、自ら、『この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています』と言って、現人神を自称する皇帝を拝み、「ユダヤ人の王」を処刑した物語です。

 二人の王に兼ね仕えることは出来ません。二人の神に兼ね仕えることは出来ません。しかし、ローマ帝国が禁じたのではありません。ローマはそれでもかまいません。ローマ帝国の信仰、倫理が、教会の中にはびこったら、当時のユダヤ人と同じことです。