日本基督教団 玉川平安教会

■2022年5月22日 説教映像

■説教題 「柔和な人々は幸いである」

■聖書   マタイによる福音書 5章5〜6節

★『柔和な人々は、幸いである』

 全く違和感なく聞くことが出来ます。柔和を人間の美徳の内でも、最大級のものとすることに、誰も異論はないでしょう。自分も、もう少し柔和になれたら良いと思う人は少なくありません。なかなか柔和ではいられないことが多いからです。つい、腹を立ててしまう、人に批判的になってしまうことがあります。大抵、後で後悔します。言ってはならないことを口にして、取り返しがつかない羽目に陥ります。あんなことを言うべきではなかったのにと、後悔します。


★先々週祈祷会で読んだヤコブ書に、このような言葉がありました。

 『19:わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、

   話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

  20:人の怒りは神の義を実現しないからです。』

 単純に言えば、短気は損気という格言になるでしょうが、それだけではありません。『人を裁いてはならない』という、マタイ6章のイエスさまの教えに繋がります。再来月には読むことになります。柔和とは、単に人にも賞賛される美徳、性格ではありません。信仰と深く結び付いていると考えます。

 神さまの業を信じるからこそ、他の人に対して寛容になれます。自分の欠点や罪が神さまに赦されていると思うからこそ、他の人の欠点や間違いに対して寛容になれます。

 寛容になれない、柔和になれないのは、その人の単なる性格ではありません。怒りっぽい、少しでも意見が違うと、相手の言い分を聞かずに、反論してしまうのは、その人の、性格かも知れませんが、不信仰の故ではないかと反省する必要があるでしょう。


★『義に飢え渇く人々は、幸いである』

 これも全く違和感なく聞くことが出来ます。日本語の義理や正義とは、全く同じではないとは思いますが、全然別物でもありません。義と言う言葉は、大変に美しい響きを持つ言葉です。新撰組の旗印は誠ですが、正確には誠に義で、誠義です。実際の新撰組がこの名前にふさわしかったかどうかは知りませんが、誠義は美しい言葉です。

 論語の「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」という言葉が、決定的だと思います。利を捨て、義に着く、これが日本人の美的感覚とぴったり重なります。

 義は、勿論、聖書的にも重要な言葉であり、美しい言葉です。イザヤ書初め、旧約の諸書でも、義が説かれます。


★今、誰もが義という言葉、正義という言葉に共感・共鳴しています。

 ロシアによるウクライナ侵攻以来、多くの人が、この蛮行に憤り、義憤を感じます。自分たちの国土、生活、自由を守る兵士たちに、賞賛の拍手を贈ります。

 20世紀の終わり頃にも、いろんな戦争がありました。なかなか簡単には、どちらが正しくどちらか間違っているのか、判定などつきません。今現在起こっていることを観れば、義があると見える場合も、更にその背景や、いきさつかあったりします。

 しかし、この度のロシアには、全く共感出来る要素はありません。こんなに分かり易く、善と悪がくっきり分かれた戦争は珍しいでしょう。 … 本当にそうなのでしょうか。一方的にロシアが悪いとしても、戦車とともに破壊され、殺されていくロシア兵がいるのに、ザマー観ろと言えるのでしょうか。そのロシア兵にも、家族がいます。親も子もいます。


★『柔和な人々は、幸いである』これに異を唱える人はありません。『義に飢え渇く人々は、幸いである』この言葉には誰もが賛同します。

 しかし、この二つの言葉を並べたらどのように聞こえますか。

 柔和でかつ義に飢え渇く、矛盾を感じます。この二つは、一つ一つには全き賛同を覚えても、二つ並べると、両立しない、矛盾するように聞こえてしまいます。

 本当に『義に飢え渇く人』が同時に『柔和な人』でいられるでしょうか。『柔和な人』が同時に『義に飢え渇く人』たり得るでしょうか。


★卑近な話かも知れません。昔、『人生劇場』という歌が大ヒットしました。村田英雄の歌です。作詞は佐藤惣之助です。

 その1節。『義理がすたれば この世は闇だ』

 その通りでしょう。義が通らない世の中は真っ暗闇です。同じ歌の末尾は、

 『俺も生きたや 仁吉のように 義理と人情の この世界』

 高倉健の『唐獅子牡丹』では、

 『義理と人情を量りにかけりゃ 義理が重たい この世界』

 歌謡曲に出て来るくらい、義理と人情は、対で扱われます。そして、その間の矛盾相剋が問題になります。


★演歌の話をしても仕方がないかも知れません。肝心の聖書はどうでしょう。義は、イザヤ書を初め、預言書には頻出します。聖書を通じて、残念ながら人情と訳されている言葉は、一つもありませんが、義と憐れみとが一緒に扱われている書があります。

 ゼカリヤ書7章9〜10節を引用します。

 『9:「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き

  互いにいたわり合い、憐れみ深くあり

 10:やもめ、みなしご 寄留者、貧しい者らを虐げず

  互いに災いを心にたくらんではならない。」』

 柔和ではなく、憐れみですが、これが義と一緒に扱われています。

 来週の箇所になりますが、山上の垂訓の、『義に飢え渇く』の次の1節は、

 『憐れみ深い人々は、幸いである』です。『義に飢え渇く人々は、幸いである』は『柔和な人々は、幸いである』と『憐れみ深い人々は、幸いである』の真ん中に置かれています。偶然である筈がありません。


★さてゼカリヤ書ですが、9節と10節は、切り離してはなりません。もう一度読みます。

 『9:「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き

  互いにいたわり合い、憐れみ深くあり

 10:やもめ、みなしご 寄留者、貧しい者らを虐げず

  互いに災いを心にたくらんではならない。」』

 『正義と真理』、『いたわり合い、憐れみ深く』そして『やもめ、みなしご 寄留者、貧しい者らを虐げず』これはセットです。

 『いたわり合い、憐れみ深く』ない『正義と真理』などありません。あってはなりません。そんなものがあったら、イスラム原理主義のような、『やもめ、みなしご 寄留者、貧しい者らを虐げ』る『正義と真理』です。そんなものは、正義でも真理でもありません。


★ふと思い出しましたが、数々の家庭争議を引き起こした『物見の塔』・『エホバの証人』の機関誌は『真理』でした。サリンをまき散らし、多くの無辜の命を奪ったオウム真理教は、今でも生き残り活動しています。ソビエトの新聞は『プラウダ』でした。これは真実・正義つまり真理という意味です。

 このように、真理真理と強調する輩には、真理のかけらもありません。


★ゼカリヤ書は、『柔和』と『義に飢え渇く』とは『憐れみ深い』が一緒です。これが互いに矛盾するようでは、それは本当には、『柔和』でも『義』でも『憐れみ』でもありません。そういえば、『人生劇場』も、『唐獅子牡丹』も、ヤクザの出入り、つまり戦争にまつわる話です。本当には義理も人情もありません。


★ゼカリヤ書をもう少し引用します。

 これは先日、住田あい子さんの葬儀で読んだ箇所です。8章4〜5節。

 『4:万軍の主はこう言われる。

  エルサレムの広場には 再び、老爺、老婆が座すようになる

  それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。

  5:都の広場はわらべとおとめに溢れ 彼らは広場で笑いさざめく。』

 これがゼカリヤ書の説く、平和であり、そして『正義と真理』です。

 『やもめ、みなしご 寄留者、貧しい者』を生み出す『正義と真理』などありません。

 『正義と真理』は、『やもめ、みなしご 寄留者、貧しい者』を労るものであり、そして、平和とは、『広場には 再び、老爺、老婆が座すようになる』ことであり、『わらべとおとめに溢れ 彼らは広場で笑いさざめく』ことです。それに他なりません。

 こういうことと矛盾する『正義と真理』そして平和はありません。


★もう少しゼカリヤ書を引用します。8章16〜17節。

 『16:あなたたちのなすべきことは次のとおりである。互いに真実を語り合え。

   城門では真実と正義に基づき 平和をもたらす裁きをせよ。

  17:互いに心の中で悪をたくらむな。偽りの誓いをしようとするな。

   これらすべてのことをわたしは憎む」と 主は言われる。』

 『真実と正義』は『平和をもたらす』ものでなくてはなりません。『真実と正義』を実現するための『裁き』は、時に必要でしょう。しかし、『平和をもたらす』ものでなくてはなりません。『平和をもたら』さず、『やもめ、みなしご 寄留者、貧しい者』を生み出す『正義と真理』などありません。


★もう1箇所だけ、ゼカリヤ書を引用します。9章9〜10節。

 『9:娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

   見よ、あなたの王が来る。

  彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る

  雌ろばの子であるろばに乗って。

 10:わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。

  戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。

  彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。』


★イエスさまはエルサレム入城の際に、ろばに乗って道を進まれました。棕櫚の主日です。その起源・理由がここにあります。『ろばに乗って来る』とは、『戦車を』使わない、『軍馬』に乗らないという意味です。戦争をしないという意味です。

 マタイ福音書21章5節。

 【シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、

   柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』】

 それがたとえ平和の実現を名目とするものであっても、戦争を引き起こし、若者を戦場に送り出す王ではなくて、戦争をしない王として、エルサレムの街に入るという意味です。

 『エフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。

  戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。』そのような王さまです。


★『高ぶることなく』は、マタイの『柔和』に通じます。

 『柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。』

 『地を受け継ぐ』つまり、神さまの意向を受け、この世界を、この国を治める役割を担う者は、『柔和な人々』でなければなりません。

 どの首相からどの首相までとは言いませんが、日本では、頻繁に総理大臣が替わる時代が続きました。歴代64人の総理の内で、2年以上その地位にあったのは半分以下でしかありません。数ヶ月の人も何人もいました。

 そこで、日本の首相は頼りない、威厳に乏しいと批判し、より強力な発言力、リーダーシップを求める声が大きくなりました。本当にそんな人が必要でしょうか。

 

★私には日本の政治・政局のことは分かりませんが、聖書は、力強い王を評価してはいません。イスラエルの王で、最も英雄・豪傑の名にふさわしかったのは、最初の王であったサウルでしょう。しかし、彼は、その傲慢の故に、神さまに退けられました。次のダビデ王は、武名よりも、その姿や声の美しさ、その人情の方が強調されます。その次のソロモンは、知恵です。 

 列王記を読みますと、優れた王よりも、愚かな王の方が圧倒的に多く描かれています。

 聖書に描かれる理想の王が、結局たどり着いた姿は、『柔和な者』『柔和な王』です。十字架に架けられた王です。


★『柔和』という字は、日本語の響きとは、完全には重なりません。『柔和』には、社会の底辺に置かれて苦悩するという意味合いがあります。上に立つものではなく、下に置かれて、しかし、それに耐え、自分の働きを全うするという意味合いがあります。

 これは教会にも重なると思います。『地を受け継ぐ』ならぬ『教会を受け継ぐ』者は、上にいて下の者に号令する人ではありません。そんな人が教会の指導者であってはなりません。仕える者が、『教会を受け継ぐ』者です。

 ゼベダイの子について記された箇所が顕著でしょう。『偉くなりたいと思う者は、人に仕えなければならない』と言われています。また、洗足の教えもあります。イエスさまは、弟子たちに、教会に仕えることを教えられました。

 『柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ』これが聖書の教えです。