今日の聖書箇所は日本基督教団の聖書日課から選んでいます。今日は聖餐式が執り行われますが、まさにイエス様がその聖餐式を制定成された場面であります。 ある一室でイエス様と弟子たちは過ぎ越しの食事をとっています。その食事におけるパンは、出エジプトの出来事に伴った苦しみを象徴します。この食卓の中で、イエス様はパンを取って弟子たちに与え、そのパンをご自分の体と仰いました。また、ぶどう酒が入っていた杯をも、皆に回して与えました。過ぎ越しの食事で飲むぶどう酒は、イスラエルの民が、エジプトの奴隷であったところから救い出され、贖われて神様の民とされたことなどを象徴しているそうです。イエス様はそのぶどう酒を指して、わたしの血なのだとおっしゃっていました。過ぎ越しの祭りの中で食されるパンや杯にはそれぞれの意味がある。けれどもイエス様はそのパンと杯をご自分の体と血である、と言うことによって、また違った意味をこの食事を通してお与え下さろうとしています。 とういのもイエス様はここで、御自身が次の日に十字架にかかることを想定して話しておられます。イエス様御自身が私の体だと言われたパンが裂かれる、その意味は十字架の上で、御自身の体が裂かれる事を象徴しています。そのパンであるイエス様御自身を弟子たちに与えようとなさる。弟子たちがパンであるイエス様ご自身を食べ、そのパンが、体が弟子達の肉となるほどに、密接な関係を弟子たちに与えようとしておられるのです。 また、イエス様が十字架にかかり、血が流されることになる。その血は『契約の血である』ともイエス様はおっしゃいました。イスラエルの民の場合は、神様との和解のために生贄を捧げ、その流される血と、神の教えを守ることの誓いによって契約が結ばれたのでした。弟子たちに、十字架の上でご自身が流すその血を飲ませる。それは、神様がイスラエルの民と生贄の血によって契約して下さったように、イエス様御自身の血によって、神と多くの民は契約をすることになるということです。私の血によって新しい契約をなすのだ、その杯を受け取りなさいと、そうイエス様は今日の聖書箇所でおっしゃっているのです。 こうしてイエス様はこの食事の席で、イエス様御自身を、また新しい契約を与えることを弟子たちに約束して下さったのでした。 この場面にいた弟子たちはどのような思いを抱いていたのでしょうか。実際のところ、イエス様から何が言われているのか分からなかったと思われます。この場面に至るまでも、弟子たちはイエス様を理解出来ているとはとても言えません。一番身近で教えられていながらも、弟子の無理解や不信仰が何度も聖書の中に描かれています。 イエス様から十字架への道、その死とご復活を3度も予告されていました。10章33、34節などにはハッキリと、『人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。』と言われています。しかしそれでも弟子たちは、イエス様のおっしゃることを、理解し、全て信じ切り、また委ねるということがなかなかできなかった。弟子たちは、イエス様ご自身から十字架の上に自ら進まれているなどと考えていなかったでしょう。そこで体裂かれ、血を流して、自分たちにその体と血を与えようとしているなどとは考えてみることもできなかったのではないでしょうか。 今日の聖書箇所の前後には、弟子たちのつまずき、また裏切りの可能性が示唆されています。14章12節〜21節においては、弟子の中に裏切り者がいると言われています。弟子たちは「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言うほどでした。また、今日の聖書箇所の後の27節以下では、弟子たちに向かってイエス様が「あなたがたは皆私につまずく」とおっしゃられています。それに対してペトロが、そんなことはない、私はつまずかない、と言いだしたのを皮きりに弟子たちは心を奮い立たせて、イエス様にどこまでも、死ぬことになろうと一生ついていくと言いだしたのでした。しかしその後、結局弟子たちはイエス様につまずき、見捨てることになります。勿論、弟子たちだって上辺だけで、一生ついていきます、とイエス様に言ったわけではありません。イエス様につまずきたくて、つまずいたわけではない。むしろ一緒に苦楽を共にした仲です。また、イエス様を敬い、新しい国の王様だと期待しているくらいですから、それこそ情愛深くあったことでしょう。あなたはメシアです、と告白するほどの信仰もあった。けれど、その弟子たちがつまずくことになる。つまり、今日の聖書箇所は、弟子たちでさえ、イエス様を裏切る可能性がある者であり、そしてイエス様につまずく者であるという現実があるのだ、ということが示唆されている話の間に挟まっているのです。 イエス様の十字架につまずいてしまう、その弟子たちのために、イエス様は過ぎ越しの食事のパンと杯に新しい意味を付けて、深い交わりを作って下さいました。神様とイスラエルの民との古い契約では、神様の教えを全うすることで、その契約は有効となります。弟子たちは、その契約に与ることが出来ません。どうしても従いきれず、この後実際にイエス様を見捨て逃げだしてしまう。そのような者達です。それにもかかわらず、イエス様が約束なさった契約は有効となります。 弟子たちは自分達がどれほど罪深い存在で、主に従いきることのできない存在かもわかっていませんでした。しかしそのような存在だとしても、主は招いて下さったのです。弟子たちを主の体と血とに与らせる食卓に招いて下さったのです。従い切れない弟子たちを救いに与らせるためにです。 私たちもその主の食卓に招かれている者ではないでしょうか。主は確かに私たちを食卓へと招いてくださっています。今日もこうして、まさにこの最後の晩餐の食卓に従って行われている食卓に、私たちは招かれているのではないでしょうか。自分たちにその資格があって招かれた訳ではありませんでした。むしろ、弟子たちと同じく主に従いきれない者であり、つまずく可能性を持ってしまっているような者です。 けれども、弟子たちを招いて下さり、その体と血とに与らせて下さった食卓に、私たちもまた招かれ、その食事に、聖餐に与ることが赦されています。それは24節の『多くの人のために流される私の血』ということから、またそしてマタイ28章19、20節の『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』との主の命令によって、弟子たちがこの福音を宣べ伝え、今日執り行なわれる聖餐式が守られ続けてきたからであります。 その聖餐に毎月のように与っているのに、救われているはずなのに、平穏・平安に、問題なく過ごすこと叶っていない、と思ってしまう方もいるかもしれません。しかし、25節の『「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」』とは、イエス様が十字架に架けられ、この世を去る事であり、また、この食卓の杯が神の国で飲まれる飲み物だということです。つまり、この食卓で既に、神の国を垣間見ている、味わっている。私たちは、神の国に入れられて救われる約束、その姿を聖餐式で見て、その救いを味わうことになるのです。それならば、神の国に入れられて、いつの日かイエス様と顔と顔を合わせて共にする食卓に希望与えられ、この世での歩みにも力与えられるのではないでしょうか。 実際、イエス様の十字架の死と復活の後、力与えられた弟子たちは決定的に変わっていきました。全てイエス様のおっしゃった通りだった。確かにイエス様がおっしゃった通り、弟子たちはイエス様の十字架刑の前につまずき、逃げ出した。けれどもまた、イエス様はお言葉通り復活なされた。弟子たちはご復活なされたイエス様に会います。その後弟子たちは知ることになります。イエス様があの過ぎ越しの食事で、主の晩餐でおっしゃっていた、私のからだと血とを弟子たちに与えるということは、イエス様の復活の体に与ること、その血によって罪赦され、神様との交わりが回復されているということだと。そのことを信じる信仰を与えられた弟子たちは、命を賭してまで、福音を宣べ伝えることになります。イエス様がその命を持って弟子たちを救いに導いたように、弟子たちはその生涯を用いられて、救いを、福音を宣べ伝えるものとされました。神の国でイエス様と再びその食卓につくことが約束されている希望によって力与えられ、神への讃美と感謝をもって主の死とご復活を宣べ伝える者とされたのです。 私たちもイエス様の十字架の死と復活を聞いています。礼拝を守り、御言葉によってそれを受けています。そしてそれを信じる信仰を与えられ、受洗して、聖餐の恵みに与っているのです。弟子たちが与った食卓が、本当に弟子たちを生かすことになったのは、信仰があったからです。主が弟子たちに現れ、信仰を与えて下さったからでした。聖餐は、信仰によって十字架の意味をかみしめ、罪悔い改め、主の一方的な恵の中、聖別された者、神のものとして与らせて頂くものでしょう。それを安易に、誰にでも、としてしまったならばなんとも安っぽい、ただの儀式に陥ってしまう。この水を飲んだら病気が治りますよ、だとかの安っぽい御利益のように貶められてしまう。それは避けなければなりません。ですから、主から与えられた信仰ゆえに、私たちも聖餐に与りたいと思います。主の十字架の死と復活を信じ、主の御救いに与っている。最後の最後に神の国でイエス様と食卓につくことが約束されている。私の人生は確かにその神の国の食卓へと続いているのだ。だからこの世の憂い、悩み、苦しみに押しつぶされなくていい。その希望によって、この世を歩んで行く力が与えられると思うのです。 |