★トーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の夏祭り』にこんな場面があります。火山の噴火によって起こった大津波のために、ムーミン谷は大洪水に襲われ、一家は流されてきた大きな家に逃れ、そのまま住み着きます。それは実は大きな劇場でした。ふとした言葉の言い争いから、自分が服を着ていない、裸であることを意識させられたスノークのお嬢さんは、衣装部屋で無数のドレスを発見します。しかし、あまりにも数がが多く、その中から1着を選ぶことが出来ません。 「2000着もある衣装の中からどれを選べば良いの」と戸惑い、頭が痛くなります。「2着の中から選べたら良いのに」 確かに無数の中から選ぶのは、大変です。私も本屋さんで同じような体験をします。未だ読んでいない本、時間があったら読みたい本の羅列を見ますと、頭がクラクラする思いになります。 ★選択肢が無数にあることは、可能性の豊かさで、即ち幸せなことだとは、限りません。選択肢という分かれ道で、行き先が分からない迷子になってしまうかも知れません。確かに若ければ若いほどに、選択肢はたくさんあります。しかし、実際に進むことが出来る道は一つだけです。 道を間違えたなら、引き返して、もう一度出発点に戻り、別の道を進むしかないでしょう。しかし、これは容易な道ではありません。新しく選択した道も、正しいかどうかは、実際歩いて見なくては分かりません。これも間違いだったら、更に引き返し、更に進み直すことは、より困難になります。 勿論、間違いではないだろうかと迷いながら、しかし、引き返すこともならず進み続ける道は、とても辛いでしょう。疑いながら、一生を終えてしまうかも知れません。引き返す決断も大事でしょう。 ★人生は分かれ道の連続です。分かれ道が無数に重なって、人生の道が出来ています。 分かれ道ですが、振り返って見れば、クネクネ曲がったり、殆どユーターンと見えるかも知れませんが、しかし、一本の線です。毛糸のようにこんがらがったり、もつれたりは、絶対にありません。どんなにねじけて見えても、間違いなく、前に進んでいます。1センチも1ミリも、逆戻りは出来ません。 人生の道は、絶対に後戻りの効かない道です。 ★迷ってしまったら、引き返して元に戻り、もう一度出発すると言いましたが、厳密には、それは絶対に出来ないことです。 分かり易く言えば、年齢です。時間です。絶対に逆方向には進めません。 ですから、引き返すとは、言葉の上では表現しますが、本当は、新しい道を選択し、方角を変えて、前に進むことです。厳密には、元に戻ることは出来ません。 ★いろんな機会に申しますが、マルコ福音書1章15節、イエスさまの福音伝道の第一声、 『悔い改めて福音を信じなさい』 この悔い改めとは、懺悔でも、まして後悔でもありません。方向転換です。新しい道に進むことが、『悔い改め』です。 ★信仰の道には、最大の分かれ道があります。洗礼の時です。これは、無数にある分かれ道の一つではありません。洗礼を受けるか受けないかの、二つに分かれた道です。どちらか一つしかありません。 別れ道、つまり、岐路が二つの場合なら、Y字路があります。T字路があります。もっと選択の多い三叉路もあります。4叉路も5叉路もあります。 しかし、信仰の道はY字路かT字路です。 スノークのお嬢さんが言うように、二つに一つです。ならば、無数の中から選ぶよりも、頭が痛くならないで済むかも知れません。 無数にドレスがあるから選べないと言ったスノークのお嬢さんは、二つしかないならば、その分迷いなく選べるでしょうか。一つしかなかったら、選択の余地はありませんから、一番良いでしょうか。きっと、「二つだけでなくもっと道があったら、好きなものを選べるのに」と、不満を言うでしょう。 ★同じことを繰り返して申します。人生の道は、複雑多岐に分かれて、毛細血管のように見えるかも知れませんが、実は、一本道です。実際に歩くことが出来る道は、たった一つしかありません。 あの日、あの時、あの道を右に曲がっていれば、他の人生を送っていたかも知れないという人生の分かれ道があります。戦争によって引き裂かれたというような大げさなことではありません。文字通りに、あの道を右ではなく、左に曲がっていれば、その分かれ道まで引き返して、別な道を選び直せば … と考えることは誰にもあろうかと思います。しかし、引き返すことは出来ません。あの日、あの時、は、決して戻っては来ません。 ★31節から33節前半までを読みます。 『31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』 と言って、思い悩むな。 32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、 これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。』 『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』、これも選択肢の問題でしょうか。実際に悩む人がいるでしょう。私は『何を着ようか』と悩むことはほぼありません。目の前にあるものを着るだけで、『何を着ようか』という関心は、殆どありません。『何を食べようか』『何を飲もうか』には、大いに悩みます。食べるものと飲むものとの組み合わせもあります。この組み合わせで随分と選択肢が増えてしまいます。更に、財布とも相談しなくてはなりませんし、健康状態も気にかかります。 ★しかし、聖書が言っているのは、そんな話ではありません。『何を食べようか』、『何を飲もうか』、『何を着ようか』、ギリシャ語の翻訳としては正しいでしょうが、意味合いは違います。むしろ、『何を食べることが出来るだろうか』『何を飲むことが出来るだろうか』『何を着ることが出来るだろうか』、そういう意味合いです。 もっと言えば、『食べるものがあるだろうか』、『飲むものがあるだろうか』、『着るものがあるだろうか』、そういう意味合いです。 ですから、『あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである』と続きます。『あなたがたの天の父は』『あなた方の好き嫌いをご存じである』でもありませんし、『あなた方の健康に必要なことをご存じである』でもありません。 ★食べるものがなく飢えている人、飲むものがなく渇いている人、着る物がなく裸の人に向けて語られています。たくさんありすぎて、迷っている人に語られているのではありません。選択するものがない人に語られています。 その大前提でこそ、『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい』と言われています。 食べるものがなく飢えていても、飲むものがなく渇いていても、着る物がなく裸でも、『神の国と神の義を求めなさい』と言われています。 ★33節後半。 『そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる』 文字に拘って、厳密に読まなくてはなりません。『これらのものはみな加えて与えられる』とあります。そんなものは要らないとは言っていません。32節に戻って、 『あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである』とちゃんと書いてあります。食べること、飲むこと、着ること、これらが人間らしい生活には、絶対に欠かせないことを、神さまはご存じです。そんな物は要らないとは言っていません。 そんな物は要らない、全部神さまにお返ししなさいと言うのは、インチキ宗教です。聖書はそんなことは言いません。『あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである』その大前提で、しかし、『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい』と言います。 ★勿論、『神の国と神の義を求め』るならば、食べること、飲むこと、着ることも満たされると言っているのでもありません。信心すれば、食べること、飲むこと、着ることにも不自由しないと言うのは、インチキ御利益宗教です。 インチキ御利益宗教は、先ず献金しなさい、そうすれば必ず幸福になれると言います。聖書は、そんなことは言っていません。ただ、何が最も大切か、私たちは何を選択すべきかを説いています。 ★『楽しいムーミン一家』にこんな場面があります。経緯は省きますが、『飛行おに』が、居合わせた全ての者に、一つ一つずつ願い事を叶えてあげようと約束します。スノークのお嬢さんは、ムーミンが「なんて美しい人だ」と言った人形・木の女王様に嫉妬していて、あの女の人の美しい目が欲しいと願います。その通りになりました。しかし、その新しい目は、スノークのお嬢さんには、全然似合いません。およそ不釣り合いで、せっかくのかわいい顔が、醜く変わってしまいます。 取り消しを願いますが、約束は一人一つだけです。叶いません。 そこで、兄のスノークに、元の目を取り戻してとお願いします。スノークにはスノークの願い事がありましたが、仕方なしに、妹の言う通りにし、元の目が返りました。 似たような話が、日本にもドイツにもあります。これらの昔話または民話は、人にとって何が一番大切なものかと問いかけています。聖書も同じです。 ★そしてこれは教会にこそ当て嵌まります。 教会が教会であるためには何が必要か?たくさんあります。なかなか手に入れることが出来ないたくさんのものが必要です。礼拝堂、そもそもそれを建てるための土地、オルガン、椅子も、牧師館も、集会室も欲しい、今の時代、コピー機やパソコンは必需品です。エアコンも要ります。トイレも勿論必要です。これだけのものを備えることは、とても困難です。必要なものが増えたために、日本基督教団では新しい教会が誕生することは少なくなりました。 これらは、玉川平安教会には、全部備わっていますが、未だ未だ足りないものを数えてしまいます。 逆に、教会のいたる所に、無用、不要な物品があります。地下倉庫の片付けをしなくてはなりません。大仕事です。 ★初代教会には何もありませんでした。今数え上げた現代の教会に必要不可欠と考えられるもの、何一つありません。しかし、教会でした。その教会には何があったのか、それを知らなければなりません。それを見なくてはなりません。 『神の国と神の義を求める』信仰がありました。 これは、架空の理想論ではありません。歴史的な事実です。明治期に、キリスト教禁止令が解かれた時に、何があったでしょう。戦後、多くの教会は閉鎖されていました。殆ど何も残っていませんでした。 しかし、そこから教会は再出発し、間もなく所謂キリスト教ブームを迎えました。信仰は絶え果ててはいませんでした。残り火に等しいものだったかも知れませんが、その種火は、やがて燃え上がりました。 ★谷川俊太郎の詩で、小沢昭一が歌ったハーモニカブルースという歌があります。全部引用したいのですが長くなります。著作権にも抵触しますので、その末尾だけ引用します。 … 戦争は負けたんだ でもハーモニカが吹けるんだ ハーモニカが欲しかったんだよ どうしてかどうしても ハーモニカが欲しかったんだよ ハーモニカが欲しかったんだよ 何もなかった あの年の夏 … 説明無用かと思います。教会とっては、「どうしてかどうしても」欲しかったものは、何だったのか、今も「どうしてかどうしても」必要なものは何か、私たちは、考え直さないといけないでしょう。 ★『そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる』、一番肝心なものを知っていれば、持っていれば、それに加えて与えられるものは、豊かさになります。教会も、福音も豊かな方が良いに決まっています。しかし、肝心なものがなければ、表面どんなに豊かに見えようとも、そこは教会ではありません。 ★『明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労は、その日だけで十分である』 玉川平安教会だけではありません。日本基督教団の多くの教会に、今一番大切な御言葉でしょう。明日のことを心配し出したらキリがありません。無いものを無数に数え上げることになります。今持っているものを数えて、感謝しなければ明日という日は来ません。 |