★連日統一原理の問題がニュースに取り上げられています。いささか食傷気味です。どのテレビも似たような内容を伝えています。 私は40年ほど前から、10数年間、統一原理の被害者救済に関わっていましたから、今の報道に、目新しいことは殆ど見当たりません。私の場合、関わったと言っても、玄関の辺りにいた人を、手を伸ばして引っ張った程度です。或いは、入り口の前に立って、門を潜るのを防いだ程度です。 それでも、現在報道されているような原理の実態は、知っていました。今のニュースに新鮮なことは、何もありません。 ★逆に言えば、40年前近くも前にこれを盛んに報道したテレビや新聞は、その情報を、40年間ただ抱えていて、何も伝えなかったということです。非常な不信感を覚えます。 元首相暗殺という劇的な事件が起こったら、即座に、原理についての報道が再開しました。つまり、テレビや新聞は、データを、とっくに持っていたのです。伝えなかっただけです。非常な不信感を覚えます。 ★思い出せば、30年前、松江にいる時に、統一原理の霊感商法や悪徳商法が今正に行われようとしている場面に遭遇しました。しばしば開催されるのは、着物の展示即売会、松江で唯一のデパートが会場です。新聞社の後援で、絵画展も行われました。宝石もありました。私程度の経験知識でも、原理が裏にいることが分かりました。 そこで、デパートにも、新聞社にも出掛けまして、抗議ではなく忠告しました。しかし、全く取り合ってくれません。消費者センターにも、弁護士会にもまいりました。全然、相手にして貰えません。 ある時は、町内会のお祭りに、原理の飲料が提供されていることが分かりまして、それを寄付した商店に、やはり忠告に行きました。そこの奥さんが原理の婦人部に出入りしているという情報も掴んでいました。拗れないうちに救済したいと思って忠告に行ったのですが、取り合って貰えないどころか、野良犬のように扱われました。 これ以上体験をお話ししてもあまり意味はないでしょう。 ★15節。 『「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとって あなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。』 この通りです。『彼らは羊の皮を身にまとって』います。しかし、その正体は見え見えです。絵本やアニメの『オオカミと子豚』でも、狼は羊の皮を被り、羊の匂いを付けます。しかし、絵本を読む子どもにも、直ぐに正体が狼だと分かるように描かれています。 正体は隠し切れないのでしょう。ついつい見抜かれてしまうのでしょう。それでも欺されるのは、子豚だからです。 ★白河教会の時に、隣のマンションに暴力団事務所がありました。暴力団と看板を掲げている訳ではありませんが、直ぐにそれと知れました。真夜中に、騒動を起こします。今正に暴力行為が行われていると分かる物音がします。深夜に、罵声怒声もします。 ここの組員は、黒いサングラスにアロハシャツ、腕には入れ墨が見え隠れという実に分かり易い風体でした。そのまた下っ端が、親分の娘を連れて教会の庭で遊ばせています。三輪車を押しています。4〜5歳の娘は、かわいい顔をして随分おしゃれでした。この手下と言っても20代と思いますが、彼を呼び捨てにします。 夜中の騒動よりも、これが怖かったのを記憶しています。幼稚園生くらいの女の子が、成人の男を、呼び捨てにし、命令しているのです。 弱小なヤクザだったらしく、この組は、家賃を踏み倒して夜逃げしました。それを聞いて、ほっとしました。 ★『偽預言者を警戒しなさい』。見分けられない筈はありません。彼らは正体を隠し切れません。欺される人は、本当に欺されているのでしょうか。欺されたふりをしている方が有利だと判断しているのではないでしょうか。原理問題を通じて、そんな体験を繰り返しました。本当に欺されるのは、子豚だけです。純粋無垢なのかも知れません。 20年ほど前まで、池袋や新宿、渋谷の駅前で、インチキ募金が行われていました。当時は、一目見れば、直ぐにそれと分かりました。原チャンルックと呼ばれていました。服装だけで原理だと分かります。災害被災者への援助、難民救済、捨てられた犬猫の命を守ろう、全部インチキです。今は、原チャンルックではありません。私には見分け出来なくなりました。 広島の駅前で、心臓移植を受ける子どものための募金が行われていました。怪しいとは思いましたが、子どもの心臓移植という看板には欺されました。それも、椅子に座っているのは80代と見える婦人です。孫のためにと訴えています。 ところが数ヶ月後、広島の福山駅前で、全く同じ光景がありました。ただ、心臓移植ではなく、なんとかの難病でした。同じお婆さんです。このお婆さんは、不幸にして孫の一人が心臓移植が必要で、もう一人の孫も、日本では治療来ない難病なのでしょうか。 ★16節。 『あなたがたは、その実で彼らを見分ける。 茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。』 見分けることは出来ます。難しくはありません。そこから何が生まれ出るかを見れば、歴然としています。 結果を見なくとも、もっと簡単に見分けられます。聖書が語っています。今日の箇所の直ぐ前です。同じ、主の山上の垂訓の一節です。 マタイ6章5節。 『「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。 偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。』 テレビに統一原理の創始者夫妻の顔が映ります。私は直ぐにスイッチを切りたくなります。あの顔、あの服装、あの笑顔。お話しした白河のチンピラヤクザと同じです。普通の人の目になら、インチキ、詐欺師と映る筈です。見分けられない筈がありません。 見分けられないのは、似たような服装の人がいるからでしょうか。同じようなことをしているからでしょうか。勿論、原理が真似して、見せかけているのだからと言えば、仕方がありません。 しかし、聖書は、初めっから、そんな服装も、そんな演説も、全く否定しています。疑い、他の説明など出来ないくらいに、明確に否定しています。 ★17〜18節。 『すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 18:良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。』 結果を見れば全てが分かると記されています。 こんな分かり易い理屈はありません。何が生み出されたかを見れば、明白です。 ただ、『良い実』『悪い実』の区別が出来ない人がいることも事実のようです。 インチキ募金をしていても、同じ人が選挙の手伝いをしてくれれば、政治家にとっては、『悪い実』ではなく、『良い実』なのでしょう。インチキ宗教に欺された人が、会社でただ働きをしてくれれば、それは『良い実』なのでしょうか。彼らにとっては、『良い実』を付けるのだから、『良い木』なのでしょう。 ★面倒臭い話ですが、『悪い実』と、『良い実』の違いを厳密にしなくてはならないようです。 ミカ書7章1〜3節。 『悲しいかな わたしは夏の果物を集める者のように ぶどうの残りを摘む者のようになった。 もはや、食べられるぶどうの実はなく わたしの好む初なりのいちじくもない。 2:主の慈しみに生きる者はこの国から滅び 人々の中に正しい者はいなくなった。 皆、ひそかに人の命をねらい 互いに網で捕らえようとする。 3:彼らの手は悪事にたけ 役人も裁判官も報酬を目当てとし 名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す。』 長い引用でしたが、しかし、出来たらもっとこの先を引用したいくらいです。 恐ろしいほどに、今の状況に似通っています。これが、ミカによる紀元前8世紀の預言です。 現代こそ、『悪い実』ばかりが生っていて、『良い実』は見当たりません。 『役人も裁判官も報酬を目当てとし 名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す。』現代にこそ当て嵌まるでしょう。 ★良い実の代表として上げられている『いちじく』も引用します。 マタイ福音書21章18〜19節。 『朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。 19:道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。 そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、 いちじくの木はたちまち枯れてしまった。』 ここでは、『悪い実』を付けてはいなくとも『良い実』を付けないイチジクが呪われて、枯れてしまいます。どんなに葉をたくさん茂らせていても、実を付けないいちじくは、『悪い木』です。 これは先ほど引用した、キンキラキンの衣装を纏った偽善者と同じです。 庭木の中には、実を付けないか、実は全く問題にされないものもあります。その方が多いくらいでしょう。花さえ咲かないものがあります。日本庭園では当たり前です。観賞用ですから、それはそれでよろしいでしょう。あくまでも、あくまでも、観賞用です。 ★7章21節以下をご覧下さい。 後半の節だけ引用します。 【かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、 御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』 と言うであろう。 23:そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。 不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』】 偽善者の末路です。彼らは、それでも全く何もしなかったわけではありません。何もしなかった者、まして、神さまを教会を貶めるような悪事を行った者の末路は。 ★信仰をかけらでも持っていれば、絶対に出来ないことを、インチキ宗教は、平気で行っています。彼らは、信仰のかけらも、持ってはいないのでしょう。他の人の信仰についてとかく言うことは憚られますが、これだけは間違いありません。全く聖書に記されてもいない教説を唱え、人を惑わす者は、異端信仰でさえありません。異端信仰は、言ってみれば解釈の違いです。本当に正しいのか、間違いなのかは、神さまの裁きに委ねるしかありません。しかし、勝手に信仰を作り上げる人は、本当には、何も信仰を持っていない人であり、少なくとも、聖書と教会を信じていない人です。 ★もう一度18節を読みます。 『良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。』 『できない』と記されています。単に『良い身は結ばない』ではありません。『できない』です。インチキ募金をする団体はたくさんあります。原理だけではありません。悪質で大規模な団体もあります。ある団体は、募金した金額のほんの1割を、実際に困難な所に回します。1割でも回せば、まるっきりの詐欺ではなくなります。 インチキではない団体でも、手数料・事務通信費を差し引くところがあります。必要経費です。しかし、この必要経費には人件費も含まれます。インチキではない団体でも、実際にはどのくらいが、本当に必要としている人の手元に届くのでしょうか。 『悪い木が良い実を結ぶこともできない』のです。 ★教会は、普通のキリスト教会は、手数料・事務通信費、人件費という必要経費で、献金の殆ど全てが費やされます。玉川平安教会も同様です。手数料・事務通信費、人件費という必要経費さえままならない教会が増えています。教会はもはや『良い実を結ぶこともできない』『悪い木』なのでしょうか。葉だけが茂ったイチジクの木なのでしょうか。 19節。 『良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』 『良い実を結ばない木』には、恐ろしい結果が待っています。滅び焼かれるという実が、結果が生ります。教会は実を付けなくてはなりません。葉だけでは駄目です。聖書がはっきりと言い切っています。 ところで、聖書で果物の実を言う時は、例外なく、信仰の実のことであり、愛の実のことです。信仰の実を、愛の実を付けているか、それだけが問われているのです。葉が茂ることでも、多額の献金を集めて、教会を建てることでもありません。 愛を実らせるか、信仰を実らせるか、それだけが問われています。 |