◇イエスさまはペトロに、15節。 『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』 と問われました。同じようなことを3度、繰り返して聞かれます。3回繰り返したのは、ペトロが3度、イエスさまを知らないと否定した出来事と重ねられていると考えられます。 少なくとも、ペトロ自身がそのように受け止めたと言って良いでしょう。17節。 『三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」 ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」 と言われたので、悲しくなった。』 明らかに、ペトロ自身が自分の罪を強く意識しています。 ◇更に聖書の頁を2枚めくれば、使徒言行録3章になります。ここには、午後3時の祈りの時に、麗しの門の前で起きた、ペトロによる癒やしの出来事が描かれています。登場人物は、ペトロとヨハネそして乞食の3人です。 3人も3章も、まして3頁めくればと言うのは、こじつけも甚だしいと思われるかも知れません。しかし、このような不思議な符号が、聖書には度々出て来ます。 学問的にはどうであれ、聖書を読む普通の人は、このことを意識させられます。 ◇イエスさまは3度も『わたしを愛しているか』と聞かれました。『愛しているか』です。 『信じているか』ではありません。これも学問的には脱線なのかも知れませんが、私はこのことに引っかかってしまいます。『信じているか』ではなく、『愛しているか』です。 ヨハネ福音書11章25〜26節。 『25:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、 死んでも生きる。 26:生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」』 ここでは、『このことを信じるか』とあります。『愛しているか』ではなく、『信じるか』です。これが普通でしょう。 しかも、この時、直後の27節。 『マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、 メシアであるとわたしは信じております。」』 イエスさまは『このことを信じるか』と問うておられるのに、マルタの答えは、『神の子、メシアであるとわたしは信じております』という答えです。 これは事柄、教えを信じるではなくて、イエスさまを信じるとなっています。 ◇何を信じるかではありません。誰を信じるかです。『わたしを愛しているか』という問いは、教えや教理を信じるかではありません。イエスさまを信じるか、なのです。 信条は、何を信じるかであり、これはとても大事なことです。私たちは、使徒信条を信じて告白します。しかし、信仰は、何を信じるかよりも、誰を信じるか、イエスさまを信じるかなのです。この二つは勿論重なります。どちらか一つでは本当の信仰とは言えません。ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』で、登場人物に「イエスがキリストでなくても、私はイエスを愛する」と言わせています。これは、教理的には間違った信仰でしょう。しかし、大いに共感します。 その逆は全く成り立ちません。つまり、「教理は受け入れるがイエスを愛してはいない」そんな信仰は成立し得ません。 ◇脱線を危惧しますが、敢えて申します。 かなり頻繁に冤罪事件が報道されます。かつては、見込み捜査による冤罪が少なくなかったのかも知れません。最初の現場調査では出て来なかった物的証拠が、3度目の現場捜索で出て来たなどという、とんでもないこともありました。 罪を着せられたけれども、犯人とされた人の無実を信じるという、人、ケースがあります。一番分かり易いのは、犯行時刻に、その人と一緒にいたという場合です。これは、その人の無実を確信することが出来ます。他に、どんな物的証拠が上げられようが、証人がいようが、犯行時刻に、その人と一緒にいたならば、無実を確信することが出来ます。 無実を確信するという別の場合があります。母親が「あの子は決して人を殺すような子ではない」と言う場合です。証拠にはなりませんが、母親は確信しています。法廷では証拠にならなくとも、このような証言は大事だと思います。少なくとも、この人を愛する者がいるのですから。 ◇その逆もあります。無罪を訴える弁護団が出来たとします。いろいろと状況的証拠を上げます。しかし、確たる物的証拠がないのだから、無罪を確信することは本来出来ないはずです。それでも無罪を確信すると言うのは、状況証拠だけで、刑事の勘で有罪を確信するのと、質的には同じことです。 かつて、牧師を中心とする弁護団が、裁判で、ある男の無罪を勝ち取りました。その後、この人物が殺人を犯し、そのことから、かつての犯罪も露見したという事件がありました。一事不再理ですから、最初の殺人は法的には問われることがありません。そも、正しい裁きが行われていれば、第2の犠牲者はなかった筈です。 ◇私たちは、イエスさまを、信じるというよりも、愛すると言うべきかも知れません。ドストエフスキーと同じです。愛するから、その人の言うことを信じるのです。信じるから愛するのではなく、愛するから信じるのです。 勿論、この二つは究極同じことです。別々では困ります。 ◇最初に戻ります。 『「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。』 『この人たち以上に』です。他の弟子と比較しています。比較して『この人たち以上にわたしを愛しているか』です。 実に妙なことを聞かれます。そもそもこんな問いをしてよろしいのでしょうか。愛は比較出来るものなのでしょうか。イエスさまはこのような考え方を否定しておられたと思います。信仰を比較するようなことは禁じておられた筈です。 例は無数に上げることが出来ますが、今日の個所の直後でも、21〜22節。 『21:ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。 22:イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、 わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。 あなたは、わたしに従いなさい。」』 他の人との比較は無用です。他の人がどんな信仰を持ち、どんな信仰生活を送ろうとも、それを神さまがどのように評価されようとも、私には関係のないことです。 誰かと比較する時に、神さまと私との間に、この誰かさんが入り込んで、神さまと私との直接の関係は損なわれます。 ◇では何故イエスさまは、『「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。』のでしょうか。分かりません。分からないことを分かったかのように言ってはならないと考えます。分かりません。 ペトロの答えを見ます。15節。 『「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」』 かつて、ペトロは、13章37節で言いました。 『ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。 あなたのためなら命を捨てます。」』 この直後、38節。 『イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。 はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、 あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」』 ◇ペトロは、イエスさまを知らないと言ってしまったペトロは、もはや、『はい、他の弟子たちの誰よりあなたを愛しています』などとは言えません。『わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うしかありません。 そして、これこそが、本当の信仰告白でしょう。 『他の誰よりあなたを信じています』というのは信仰告白ではありません。 心からイエスさまを信じる、イエスさまを愛することは大事なことです。それを口に出して告白することも大切なことです。しかし、『他の誰よりあなたを信じています』と言った瞬間に、この告白は、他の人の信仰を貶し、自分を褒めそやす傲慢に陥ります。 ◇シモーヌ・ヴェイユにこのような一節があります。『ちくま学芸文庫』の『重力と恩寵』から引用します。 … 聖ペテロの否認。キリストに向かって「私はどこまでもあなたに忠実でありたいと思います」というのは、すでにキリストを否認したことになる。なぜなら、忠実さを守れる根因が自分の中にあると思い込み、恩寵にそれを求めなかったからである。幸いなことに、ペテロは選ばれた人であったから、こんなふうに否認しながら、それが、全てのひとにもかれ自身にもあからさまにさし示された。ほかにも、どんなに多くの人が、ペテロと同じ大口をたたいたことだろう−しかも、それをさいごまでさとらないのだ。 … 『「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」』 これが、これだけが、真実の信仰告白です。 ◇今日の個所で、もう1個所だけ、厳密には2個所でしょうか、読み忘れてはならない言葉があります。15節。 『わたしの小羊を飼いなさい』です。これも3度繰り返されます。微妙な違いがあります。16節17節では、『小羊を飼いなさい』ではなく、『羊を飼いなさい』です。この違いに注目して、説教の骨子とするのを聞いたことがありますが、残念ながら、私には分かりません。何れにしろ、『羊を飼いなさい』、明らかに、ここでペトロは牧会者として立てられます。イエスさまが、自ら牧会者を任命したこと自体が、キリスト教の歴史的にも一大事でしょう。しかし、そのことには触れません。 ◇大事なことは、この点です。ペトロの否認、そして『わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言う信仰の告白を踏まえて、ペトロは牧会者とされました。 マタイ福音書16章15〜18節。 『15:イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16:シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17:すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。 あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18:わたしも言っておく。あなたはペトロ。 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』 これはペトロという人物・人格の上に教会が立てられたという話になり、ペトロが最初のローマ教皇だという主張に繋がります。しかし、プロテスタントの教会では、ペトロという人物・人格の上に教会が立てられたのではなく、信仰告白の上に教会が立てられたのだという解釈になります。勿論、私たちの教会もこの理解の上に立ちます。 ◇しかし、より厳密に言えば、この告白の後でペトロの否認があり、ユダの裏切りがあり、弟子たちの離散があります。教会は、この時のペトロや弟子たちの信仰告白の上に立てられたと言うのは、厳密ではありません。 何時と言うのは愚かかも知れませんが、教会を立てられたのはイエス・キリストです。むしろ『わたしの小羊を飼いなさい』という言葉の上に教会は成り立つのです。志の言葉の上に教会は立てられています。 ◇もう1個所だけ読みます。17節の終わりから、18節。 『イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 18:はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、 行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、 他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」』 『あなたのためなら命を捨てます』と大見得を切ったペトロは、結局イエスさまを知らないと否認しました。どこへでも、獄の中にでも従いますと言ったペトロは、逃げ出して十字架の場面にはいませんでした。 そのようなペトロに、イエスさまは『両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる』と預言されました。 教会は、ただ、このイエスさまの言葉の上にだけ立てられるのです。 ◇私たちは、信じているかと問われるかも知れません。信じているのかと自問自答するかも知れません。しかし、それが一番大事なことではないでしょう。『愛しているか』とこそ、問われています。イエスさまを、教会を。信仰の交わりを、使徒信条は、これらについて『我は信ず』と告白しますが、むしろ『『愛している』とこそ。告白すべきでしょう。 |