◇順に読みます。 31節。 『その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので』 『準備の日』とは『安息日』の『準備の日』で、つまり、金曜日です。『特別の安息日』とは、この安息日から、過越の祭が始まるからです。イエスさまの十字架と、過越祭とは、全く重なる出来事です。一体に、旧約聖書は新約聖書の預言と理解されます。新約聖書は旧約聖書の成就です。 旧約の過越の出来事が、新約に於いて成就するのが、イエスさまの十字架の出来事です。十字架の意味を知るには、過越の意義を知らなくてはなりません。しかし、そういう話になりますと1回の説教で出来るものではありません。今日は、必要最小限に限定して説明しておきます。 ◇次に、 『ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために』 とあります。これは申命記21章の律法に基づきます。 『22ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、 23死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。 木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。』 先々週の説教で、十字架刑は残酷な刑で、殺すことと共に苦しめることに意味があり、ために、一息に槍で突き殺すのではなく、手足に釘打ち、その全体重を釘だけで支え、痛め、苦しめ、そして疲弊と絶望によって死に追いやるのだと申しました。 今の申命記の説明と食い違うように聞こえますでしょう。私にも良く仕掛けは分かりません。ユダヤでは申命記にあるように定められていたけれども、ローマ世界では違ったということでしょうか。ユダヤ自身も、申命記の律法を離れ残酷化していたのでしょうか。 はっきりとは分かりません。 ◇しかし、何れにしろ、この時は、過越祭を控えた『特別の安息日であった』から、申命記の律法は厳密に守らなければならなかったのでしょう。それならば、この時に十字架刑を執行しなければ良いのですが、それは『祭司長』にとって待てないことでした。 いろんな意味合いで、十字架は、無理を重ねた非合法なことでした。 非合法は、更に重ねられます。 『安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、 足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。』 『足を折って』とは、止めを刺すことです。万が一息があったとしても、これで致命的です。その方法も『足を折って』、何とも残酷です。 止めを刺して、十字架から下ろすことで、形の上で、申命記に違反しないことになります。 ◇32節。 『そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、 もう一人の男との足を折った。』 度々お話ししますように、4つの福音書間で、いろんな異動が見られますが、イエスさまと共に、二人の受刑者が十字架に架けられたという点は一致しています。史実だからと読めば、その通りかも知れませんが、やはり、3という数字には大きな意味があります。 マルコ福音書ですと、イエスさまが大きな出来事に臨まれる時には、必ず、二人の弟子を伴います。何時でも3人です。 また、午後3時に息を引き取り、3日目に甦り、ペトロは三度イエスさまを否み、他にもいろいろと上げることが出来ますが、十字架と復活の場面では必ず3という数字が付きまといます。 ヨハネ福音書でも、この3が大事なようです。4月24日の礼拝で読むことになりますが、復活のイエスさまは、ペトロに3回、『わたしを愛しているか』と聞かれます。 さわりだけ引用します。21章。 『14:イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、 これでもう三度目である。 15:食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、 この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、 「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、 イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。』 ◇より重要な3は、マタイ福音書とマルコ福音書に描かれています。マルコで引用します。 『35:ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。 「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 36:イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 37:二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、 もう一人を左に座らせてください。」 38:イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。 このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 39:彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。 「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、 わたしが受ける洗礼を受けることになる。 40:しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。 それは、定められた人々に許されるのだ。」』 ここで、十字架に3人が付けられることが預言されています。登場人物は、ヨハネとヤコブの兄弟です。本来は、彼らがイエスさまの両側で十字架に着くべきでした。 ◇先を急ぎます。31節。 『イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。』 ヨハネ福音書は、多くの人にとって恥辱としか見えない十字架を、しかし同時に栄光に輝く時であるとして描きます。ですから、足を折ってとどめを刺すという屈辱的なことは避けられたとするのかも知れません。 このことが、次の34節を読む前提となります。つまり、34節は、イエスさまの遺体に辱めが加えられたと言っているのではありません。 ◇34節。 『しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。 すると、すぐ血と水とが流れ出た。』 『血と水』が象徴することがあります。水の方から見ます。 ヨハネ福音書は、バプテスマのヨハネから、洗礼を受けた場面から物語が始まります。それはマルコ福音書でも同様ですが、ヨハネで紙数を用いて、特別に強調されています。 それだけではありません。 1章、ヨハネからのバプテスマ。勿論水に依ります。 2章、カナの婚宴の出来事が物語られます。水が葡萄酒に変えられた話です。 3章、学者ニコデモとの問答が行われます。こんなことが言われています。 『イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。 だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』 4章、サマリヤのスカルの井戸から、水を汲む話です。 5章、ベトザダの池の畔での出来事です。こんなことが言われます。 『病人は答えた。「主よ、水が動くとき、 わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。 わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」』 6章以降にもありますが、あまり直接的ではないので、以下は省略します。しかし、ずっと、水と救いとが、重ねられて描かれています。 嵐の湖の話もあります。十字架の場面が近づいた洗足の教えも該当します。 ◇水は、洗礼に必要なものであり、清めを意味します。それ以上に救いに結びつけられて語られています。過越の祭の起源である出エジプトにも、水と救いとが重ねられて描かれる場面は複数あります。つまり、『血と水とが流れ出た』とは、イエスさまの体の中に詰まっていた、救いの印が流出したことです。 ◇血は。説明するまでもありません。十字架の出来事そのものの象徴であり、贖いの印です。 旧約聖書の祭儀は、動物の血が捧げられることで成り立つ儀式です。その多くは贖いの印です。また、契約の印です。 先ほど、イエスさまの足が折られなかったことの意味を申しましたが、もう一つの意味があります。より重要です。出エジプト記12章46節。 『一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。 また、その骨を折ってはならない。 47:イスラエルの共同体全体がこれを祝わなければならない。』 過越の規定の、ごくごく最初に記されている規定です。あたかも最重要な規定であるかのように表現されています。過越祭は、ユダヤ人がエジプトの奴隷生活から解放された物語です。十字架は、全ての国民が、死の奴隷から解放される物語です。 流された血は、解放を、救いを意味します。 ◇『血と水とが流れ出た』のは、ゴルゴダと呼ばれた丘です。このゴルゴダが、イエスさまが犠牲として捧げられる至聖所となりました。 マルコ福音書には、 『37:しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 38:すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。』 と記されています。『神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた』つまり、イエスさまが捧げられた刑場と至聖所との境・区別がなくなりました。イエスさまが捧げられた刑場が、至聖所となりました。 マルコとヨハネとでは、まるで描き方が違うように見えますが、結論・主張は同じです。 ◇水と血とをそれぞれ他の聖書に照らして読み込んでみました。今度は、水と血とを一緒に考える必要があります。難しいことではありません。一緒に読めば、自ずと答えが導かれます。 聖礼典です。 水は、イエスさまの洗礼と直接的に結びつけて読むことが出来ます。私たち一人ひとりの洗礼です。水は、清めの印ですが、また、特にヨハネ福音書では救いの印です。私たちにとって、水による洗礼は、罪を洗い清められることであり、救い出されることです。既に申しましたように、ヨハネ福音書では、水にまつわる物語は全て救いと関係があります。 血は、聖餐式を象徴します。 ◇ヨハネ福音書13章には洗足の教えが記録されています。水によって清められます。この直後に、イスカリオテのユダの裏切りが予告され、十字架の出来事に入っていきます。 マルコ福音書のように、過越の晩餐、更に聖餐制定の言葉はありません。しかし、イエスさま自身による説教が語られ、祈りが捧げられ、聖霊の約束が語られます。これらは皆、過越祭の食事の儀式を映しています。式次第の通りです。 ヨハネ福音書では、十字架がそのまま、過越祭の儀式なのです。そして、この儀式と、水と血とが、重なっています。 そもそも、カナの婚宴は、水が葡萄酒に変えられる物語でした。葡萄酒は十字架の血を象徴しています。水が血と結びついています。 ◇最後の37節。 『また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」 とも書いてある。』 これはゼカリヤ書12章10節からの引用です。 『わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。 彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、 独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。』 『エルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ』 これが十字架の出来事の預言です。ゼカリヤ書のこの預言は、メギトの戦いにおけるヨシア王の戦死が下敷きにあります。これもイエスさまの死、十字架の預言として聞くべきでしょう。『憐れみと祈りの霊を注ぐ』十字架の出来事です。 ◇同じことを繰り返してお話ししています。4つの福音書には少なからぬ異動があります。しかし、究極一致します。それぞれの仕方それぞれの表現で、イエス・キリストの十字架の意義を説いています。十字架だけが、救い贖いの印だという一点で全く一致しています。 |