◇今日は分量的に少なめです。少しずつ順に読んでまいります。 『愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。』 『信じるのではなく … 確かめなさい』と言っています。 実は聖書には、これに類した表現がたくさんあります。神さまの教えを記したのが聖書ですから、『信じなさい』と書いてある箇所が圧倒的に多いように思いますが、むしろこのように、『信じるな』と語られている所がたくさんあります。その方がずっと多いでしょう。 イエスさまは、随分といろんな事柄について、いろんな人について、信じてはならないとおっしゃいました。ファリサイ人を信じるな、サドカイ人を信じるな、律法学者を信じるな、この世の終わりを説く人を信じるな、自分がキリストだと言う人を信じるな。お金の力を信じるな。武器の力を信じるな。 旧約聖書も同様です。預言書では偶像を信じてはならないということが繰り返し繰り返し語られます。諄いと聞こえる程に、繰り返されます。エレミヤ書では、偽りの平和を説く偽預言者との戦いが主要テーマです。偽預言者を信じるなです。 ◇一人の神を信じるということは、他の神は信じないということです。信じない、むしろ、そんな者は存在しないと否定します。一つの信仰を抱いて生きるとは、他の信仰を退けることです。二人の神さまに兼ね使えることはできません。 使徒言行録やコリント書を読めば分かりますように、この当時の聖書世界は、大勢の神々で溢れています。一人の人が、同時に二人三人、それどころか、もっと大勢の神々を同時に信仰していました。日本と同じ多神教です。 私の郷里の秋田も、神さまで溢れていました。正月には、狭苦しい家のあちらこちらにお供えが置かれ、便所の神さまのお供えさえありました。では、我が家は信心深い家族だったのか、そんなことは全然ありません。本当に信心する人は、むやみやたらにお供えを置いたりはしないでしょう。 ◇昔、私の弟が競馬にはまってしまいまして、困ったことがありました。これを止めさせるのに、ただ駄目だ駄目だと言っても効果はありません。そこで、私も一緒に競馬新聞を読み、賭けることにしました。実際に馬券は買いません。つもり競馬というものをしてみました。私は馬について何の知識もありませんから、でたらめにマークします。弟は専門家気取りで馬の血統やら何やら御託を並べます。数ヶ月後、結果を照らし合わせたら、私の方が勝っていました。 競馬で絶対に外さない方法があります。必ず当たります。全部買えば良いのです。必ず当たります。ただし、毎回必ず25%ずつ損します。 ◇これは笑い話ではありませんちゃんと使徒言行録17章に出て来ます。 『パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、 あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。 23:道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、 『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。 それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、 それをわたしはお知らせしましょう。』 これは勿論痛烈な皮肉です。まんべんなく、当たり外れのないように全ての神さまを拝む、これは、全ての馬券の組み合わせを買うのと同じことです。 そういう多神教の世界を相手に、真の神は唯一の神であると説いたのがキリスト教でした。初代のキリスト者は、人々に無神論者だと言われました。これは本当の神ではない、あれも違うと、目に見える神・偶像全てを否定したから、無神論者だと誤解されました。 ◇一人の異性を愛し、これと結婚したら、他の人とは恋愛関係や性的な関係を持たないというのが、ユダヤ教そしてキリスト教の考え方です。奥さんの他に何人もの女性を囲っていることが男性の甲斐性だと考えられていた時代にあっては、風変わりな思想でした。もしかすると今日でもそうかも知れません。 では愛とは、大勢の人間の中から一人だけを選び出し、他は捨てることなのか。恋愛については、そうだと言い切って良いでしょう。 しかし、もっと広い意味での愛については、そんなことはありません。十字架に架けられた方の愛を基としてその上に愛の交わりが築かれてゆくのが教会です。 このことは4章7節以下、次週以降の箇所で詳細に述べられていますので、そこで読むことに致します。 ◇話を元に戻します。 『神から出た霊かどうかを確かめなさい』。どうやって試したら良いのか。どうしたならば、本物と偽物とを識別することができるのか。2節から3節の前半までをご覧下さい。 『イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、 すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。 3:イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。』 本物と偽物とを見分ける術が、ここに簡潔に記されています。実に簡潔で、曖昧な所はありません。『イエスはキリストである』と告白するのが正しい信仰であり、聖霊はそのような信仰に、私たちを導いて下さいます。『イエスはキリストではない』という信仰に私たちを追いやるのは、悪霊の働きです。 『イエスはキリストである』とする信仰告白、これが、物差しです。結果的に、信仰告白に導くのが聖霊で、信仰告白を否定するのが悪魔です。実にはっきりしています。これが判定基準です。 この物差しを否定する者は、結局、信仰告白を否定する者であり、それは悪霊に導かれた行為です。 ◇ところで、『イエスはキリストではない』という信仰とは、いかなる信仰なのか。歴史上のことを言いますと、実に多様でなかなか簡単には説明できません。新約聖書の時代でさえも、既に夥しい数の異端が存在しました。 この箇所に描かれている異端は、『イエス・キリストが肉体をとってこられたことを』否定するものでした。そういう思想も多々あったようですが、例えば、ドケチズム=仮現論と言われるものは、キリストの神聖さを強調するあまり、キリストが汚れた人間に過ぎない女・マリヤから生まれ、十字架に死んでいったことを否定します。キリストは産まれたり死んだりしない、清い存在だと言うのです。 つまり、キリストはイエスさまが洗礼を受けた時に聖霊としてその体に宿り、十字架に架けられた時に出て行ってしまったとします。その結果、キリストの神聖さを守ったかも知れませんが、一番肝心な十字架と復活の出来事はどこかに飛んでいってしまいます。 この全く逆の異端が、イエスがキリストであるということは全く否定するか全然重要視しないで、人間イエスの教え・思想を見倣うというものです。このような思想は、キリスト教の歴史と共に存在し続け、未だに根強いものがあります。そして、ややもすれば、教会の中にも入り込んで来ます。 ◇3節の後半。 『これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、 その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。』 著者ヨハネは、『反キリストの霊』という表現を取りました。そういう霊が存在するのでしょうか。そも『悪霊』と言います。つまり、『霊』というだけでは、信じることはできないし、まして帰依することはできないことになります。 悪い霊、神さまに敵対する霊が、そういう力が存在すると言います。多分に便宜的な表現だとは思います。サタンが居て、神さまと対立するとなりますと、正に二元論、この世界には善と悪と二人の神さまが居ることになり、唯一の神というユダヤ教・キリスト教の前提に反してしまいます。 ヨハネが強調しているのは、『霊』というだけでは、信じることはできないという点です。力があるから信ずるというのでは駄目だと言うことです。『悪霊』は、大きな力を持っているのです。時にはその力を、人々の前に見せつけるのです。 ◇4〜5節は一緒に読みます。 『子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。 なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。 5:偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、 世は彼らに耳を傾けます。』 ここは文字通りに読めば一番分かり易いでしょう。教会とこの世とを、対立的に描いています。それぞれに住む世界が違うというような言い方です。 5節で述べていることは、異端思想は結局教会の思想ではなくて、この世の思想だと言うことです。だからこの世から受け入れられると言います。まあ、ここも多分に方便的な言い方だろうとは思います。要点は、この世の人々に受け入れられたかそうではないかということは、一番大事なことではないと言うことです。 人気がある、人々にもてはやされることが、一番大事なことではないと言うことです。 世の大勢の人々が受け入れる思想だから、とても力があるように見えるから、それが真実なのではないかと、教会の人々さえ考え、それまでの確信を失うようになります。しかし、そんなことはありません。 私たちは『イエスはキリストである』という信仰告白をして、この告白の上に教会を建てています。一方で、異端的な思想は、『世にある者』つまり悪魔の上に立てられています。そして、『あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強い』キリストが悪魔に負けることはないから、結局私たちも悪魔の上に立てられているこの世に負けることはないという理屈です。 ◇6節。 『わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、 神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。 これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。』 より熾烈な表現を取ります。真理の霊か人を惑わす霊かどちらか一つだと言います。二者択一的で、他に余地を残しません。 こういう二者択一的な考え方は窮屈で嫌いだと言う人がありましょう。しかし、私が好きだとか嫌いだとか、そんなことよりも大事なことがあります。ヨハネはそのように表現しています。聖書がそのように記しています。真理の霊か人を惑わす霊かどちらか一つ、二者択一なのです。 ◇ただ、教会と世との関係は重大ですから、妙な誤解が生まれないように、このことは言っておかなくてはならないと考えます。 ヨハネの手紙に描かれた教会と世との関係は、聖書の全体からすれば一面に過ぎません。同じヨハネ文書の中にさえ、随分様子が違って見える箇所が少なくありません。 ヨハネによる福音書3章16〜17節。 『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』 教会と世との関係をただ敵対的なものと見たなら、それは聖書とは違います。しかし、その一方で、教会はこの世に仕えるために存在するなどということも聖書的論拠を持ちません。 ヨハネによる福音書の続きはこうです。18〜19節。 『御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。 神の独り子の名を信じていないからである。 19:光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。 それが、もう裁きになっている。』 新興宗教は、信じない者は裁きを受ける、罰が下されると言います。しかし、聖書は信じないことが既に裁きだと言います。 逆方向から言えば、「信じれば何か良いことがある」ではありません。信じていることが既に良いことです。「愛すれば何か良いことがある」ではありません。愛することが、既にして、大いなる恵みです。愛することが、既にして、大いなる幸福です。 『わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。 兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。』 愛がないことが既に裁きであり刑罰です。愛がないことが既に不幸です。 ◇世の中は闇に包まれています。福音は闇の中に輝く光です。闇の大きさ、闇の拡がりと比べたならば、光はほんのちっぽけなものかも知れません。 しかし、どんなに大きな、漆黒の闇も、小さな光を隠すことはできません。闇で光を覆い隠すことはできません。消すこともできません。 この世の大きさ拡がりと比べたならば、教会は、福音を宣べ伝える力は、あまりにも小さなものかも知れません。しかし、この世は、教会を包み隠すことはできません。福音を覆い隠すことはできません。 |