★ジョナサン・ケラーマンというアメリカの大ベストセラー作家に、『殺人劇場』という本があります。簡単に言えば、連続殺人鬼を描いた本です。ジョナサン・ケラーマンは、やはりベストセラー作家のフェイ・ケラーマンの夫です。 夫婦共に、その作品には、ユダヤ教、特にユダヤ神学校の内情を描く場面が頻繁に登場します。その一例として、『殺人劇場』を上げます。連続殺人犯の容疑者とされた一人は、ローマ・カトリック教会の修道士です。毎夜、修道院の門を出ては、ほんの僅かな距離を歩き、時に長時間立ち止まり、そして、何をするでもなく、また修道院に戻るという不審な行動を毎夜繰り返します。ために、乞食に扮装した刑事が何日も夜を徹して張り込みをします。 無駄な話は省きます。或る夜、修道士が意を決して入って行ったのは、ユダヤ神学校でした。カナダ人のローマ・カトリック教会修道士が、ユダヤ教への改宗を決心したのです。 ★ユダヤ神学校のラビは、今後に待っている律法の学び、そして修行がどんなに厳しいものであり、耐え難いものであるかを諄々と説き、思い止まらせようとします。それは、生まれながらのユダヤ人でなければ、到底果たし得ないものだと言うのです。 妻の、フェイ・ケラーマンの作品の方にこそ、ユダヤ神学校の様子、その厳しい勉学が描かれています。 更に、マイラ・ゴールドバーグの『綴り字のシーズン』には、ラビを目指しながら、それを果たし得ず、屈折した気持ちを抱きながら、会堂守として働く男が登場します。ラビになれなかった男の、律法の知識たるや、遙かにラビを超えます。殆ど暗記している程です。 ★不必要にクドクドとお話ししているかも知れません。要するに、この現代でさえも、ユダヤ教神学校に於ける律法の学び、そして実践は、並大抵のものではないということを、お話ししたかったのです。 私たちは、イエスさまのファリサイ批判を読んでいますから、実に簡単に、ユダヤ教を、律法主義を、退けることが出来ます。しかし、私たちは、ユダヤ教を、その徹底した律法主義を、本当には知りません。勿論、その魅力をも知らないということにもなるでしょう。 ★順に読んでまいります。17節。 『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。 廃止するためではなく、完成するためである』 イエスさまは『律法や預言者を廃止』しなさいと教えていると思われていたのでしょう。 確かにそのように取られかねないような言葉が残されています。それをいちいち上げておりますと、話が複雑になってしまいますし、散漫になってしまいますので、詳しくはお話し出来ませんが、どなたも思い当たることがおありと思います。 ★現代の教会にも、イエスさまは『律法や預言者を廃止する』という思想を持っていたと考える人が少なくありません。言い換えれば、イエスさまはユダヤ教がお嫌いだとなるかも知れません。そんな風に思っている人は多いと考えます。 これと重なるようにして、ユダヤ教だけではなく、あらゆる既成の倫理・道徳に、反発・抵抗することが、イエスさまの御旨を行うことだと考える人がいます。 何れにしましても、預言者はともかく、ユダヤ教的律法を全く無視し、それどころか憎悪する考え方は、根強くあります。律法と信仰とを、矛盾するものであるかのように考えるのです。 ★『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。 廃止するためではなく、完成するためである』 イエスさまのこの御言葉は、私たちに取って決定的に重要なものです。 また、倫理、道徳、常識という点についても、同じことが言えるだろうと思います。 信仰の事柄は、倫理、道徳、常識を超えたことです。信仰の事柄が、倫理、道徳、常識に縛り付けられてしまったら、それは間違いです。しかし、信仰の事柄が、倫理性を欠き、不道徳、非常識であったならば、それは、決して正しい信仰ではありません。 ★18節。 『はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、 律法の文字から一点一画も消え去ることはない』 『はっきり言っておく』という部分は、アーメンです。『一点一画も』というのは、ヒブル語やギリシャ語の表記のことです。細かい説明は必要ありません。『一点一画も』という翻訳で良く分かります。少なくとも、この御言葉を読む限り、イエスさまが律法を否定している、などとはとても言えません。 『廃止するためではなく、完成するためである』、ここでも、同じ強調がなされています。 ★こんなにもはっきりと述べられているのですから、私たちも、律法をおろそかにすることなど出来ない筈です。しかし、現実は、特に日本のクリスチャンは、実に沢山のことで、律法を全く無視して生活しています。豚肉を食べるな、安息日には働くな、律法では初歩の初歩、小さな律法に違反しないクリスチャンはいません。そして、それが当たり前だと考えています。 ★19節。 『だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、 天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、 天の国で大いなる者と呼ばれる。』 ここで、前後の文脈に関係なく、律法学者・ファリサイ人が礼賛される筈がありません。ここでは、律法の遵守が問題になっているのではなくて、話は、もう教会の方に移っています。 大きな功績が要求されているのではありません。 小さな戒律を、誠実に守ることが要求されています。 ここでも、教える者は『天の国で大いなる者と呼ばれる』です。 罪の教唆が大きな罪であるように、福音を宣べ伝えることは、他の人を神の国へと促すことは、大きな功績なのです。 ★20節。 『言っておくが、 あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、 あなたがたは決して天の国に入ることができない』 『律法学者やファリサイ派の人々の義』と簡単に述べられていますが、既に申しましたように、彼らは徹底していました。並大抵のものではありません。私たちの想像を全く超えるような仕方で、律法を守ることに厳密なのです。律法遵守のためならば命がけです。 ★そのパリサイに勝る義とは、一体、何をすれば良いのか、何をしてはならないのか。21節以下がその解説になっています。 21節以下では、律法を守るということが、徹底されています。しかし、それは、パリサイ的な意味での徹底ではありません。つまり、細かく厳密に守ることではなくて、その律法の意味をとことんまで追求するという方向です。 【「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は 『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 22:しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。 兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、 『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる】 殺すなという律法を表面的に守るとしたら、命までは取らずに、四肢を切り離すとか、殺された方がましだと思う程に、拷問することになりますでしょうか。中世のヨーロッパでは実際に行われました。拷問しても殺さなければ、表面上、律法を守ったことになります。 結果的に命を失うことが、絶対のことではありません。むしろ、人を殺したいと思う程に憎み、怒ることが問題なのです。 ですから、イエスさまが、この殺すなという律法を徹底して守るように説く時には、人に腹を立てるな、人を罵るなという方向に徹底されるのです。 ★27節以下も同様です。 『「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 28:しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、 既に心の中でその女を犯したのである』 姦淫の罪もまた結果です。 根本原因は、一人の女性を己の性欲の対象として見るということにあります。 ですから、イエスさまが、この姦淫するなという律法を徹底して守るように説く時には、そのような目で女を見るな、どうしても見てしまうようならば、その目をえぐり出せという方向に徹底されるのです。 ★大分飛びますが、7章12節を読みます。 『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。 これこそ律法と預言者である』 私たち日本人の道徳・倫理の基本は、人に迷惑を掛けるなであり、自分が嫌なことは人にもするなです。これは、間違っていないと思います。 しかし、これを弁えていない若い人が増えています。満員電車で、優先席に座り、大股を開き、更に携帯で通話している、そんな若者が珍しくありません。 こういう人は、人に迷惑を掛けるな、自分が嫌なことは人にもするなという道徳・倫理の基本を学んで来なかったのでしょうか。 ★さて、聖書の教えは、これとは少し違います。 『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。』 人に迷惑を掛けるな、自分が嫌なことは人にもするな、で留まるのではなくて、『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい』です。 このことを、日本人の道徳・倫理は、消極的道徳・倫理であり、キリスト教のそれは積極的道徳・倫理であると説明した人がいます。なるほど、その通りだと思います。 分かり易く約めて言えば、満員電車で他人に迷惑を掛けないのが、消極的道徳・倫理ならば、人に席を譲るのが、積極的道徳・倫理です。 ★ところで、人間が『人にしてもらいたいと思うことは』何でしょうか。 時間がありません。結論だけを申します。 赤ちゃんを見れば分かります。赤ちゃんは、にこにこと、正に天使の笑みを見せます。私たちはその微笑みに魅せられないではいられません。その一方、赤ちゃんは、ピーピーと泣いて、私たちを苛だたせます。赤ちゃんの泣き声を聞いたならば、私たちはじっとしてはいられません。おしめだろうか、おっぱいだろうか、寒いのか、暑いのかと、世話を焼かないではいられません。 こうして、赤ちゃんは、微笑むにせよ、泣くにせよ、周囲の人々の関心を引き付けます。そうしないと、無力な赤ちゃんは、生き延びていけません。赤ちゃんの生きる力は、周囲の人に関心を持って貰うこと、愛して貰うことです。 ★これは、基本、大人でも同じことではないでしょうか。 うんと大人、高齢者は、しばしば赤ちゃんに帰ると言われます。その通りだと思います。何よりも、体力気力が衰えると、周囲の人に関心を持って貰うこと、愛して貰うことでしか、生きることは出来なくなります。 だから、赤ちゃんと同じように、関心を引き付けようとするのではないでしょうか。 どうせなら、無力な赤ちゃんと同様に、微笑みで、私たちを魅了して貰いたいと思います。しかし、なかなかそうはまいりません。もしかすると、愚痴だったり、我が儘だったりします。 ★私たちは、赤ちゃんのそれには、つまり、周囲を引き付けようとする行動には、実に寛容です。しかし、高齢者のそれ、つまり、愚痴や意地悪には、極めて不寛容です。 私たちは、『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい』この、イエスさまの言葉を想い起こして、子どもであれ、老人であれ、周囲を引き付けようとする行動に、寛容でありたい、なるべく叶えて上げたいと思います。 人のことは言えない、自分がそうなっているかも知れませんが。 ★20節に帰ります。 『言っておくが、 あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、 あなたがたは決して天の国に入ることができない』 これは、律法学者やファリサイ派の人々よりも、厳密に律法を守りなさいという意味ではなくて、律法の究極である、人を愛しなさいと言っています。厳密に、むしろ徹底して守りなさいと言っていると考えます。 そうして、これを厳密に行うことは、律法学者やファリサイ派の人々が、常軌を逸する程の仕方で義を徹底する以上に、難しいことです。 イエスさまの十字架の苦しみを見上げることによってしか、果たし得ません。 |