日本基督教団 玉川平安教会

■2022年4月17日 説教映像

■説教題 「わたしは主を見ました

■聖書   ヨハネによる福音書 20章11〜18節

◇ここ数週、同じことを繰り返し、お話ししています。

 4つの福音書には、少なからぬ異動があります。矛盾と言われても仕方がないような食い違いも見られます。今日の場面、主の復活という、福音書中でも最重要な思われる場面でも、大きな違いがあります。復活のイエスさまに最初に出遭ったのは誰なのか、4つの福音書で一致しません。

 マタイ福音書では28章1節。

 『さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、

  マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。』

 マルコ福音書では、16章9節。

 『〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、

  まずマグダラのマリアに御自身を現された。

   このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。』

 ルカ福音書では、24章9〜10節。

 『そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。

  10:それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、

  そして一緒にいた他の婦人たちであった。』


◇4つの福音書に共通しているのは、それが婦人たちだったということです。その婦人の顔触れは、それぞれ違いますが、マグダラのマリアは共通しています。逆に言いますと、共通しているのはマリアだけです。

 マグダラのマリアこそが、復活のイエスさまに最初に出遭った人であり、最初の証言者となります。このことは4つの福音書で全く一致しています。


◇それでは、マグダラのマリアとは誰なのか、どのような人なのか。

 福音書中に、大勢のマリアが登場します。何しろ、イエスさまの母マリア、ゼベダイの子らの母マリア、マグダラのマリアに、マタイ福音書の『もう一人のマリア』、彼女らはそれぞれ別の人物に違いありません。

 ヨハネ福音書には、ラザロとマルタの姉妹マリアも登場します。その他、名前が記されていないけれども、以上上げたマリアと同一視されている女性もいます。

 

◇何故マリアなのでしょうか。どう見ても特別な存在だと考えられます。しかし、その人柄についても、出自についても、姿形についても、何も記されていません。

 イエスさまの妻だったと考える人がいます。何も記されていませんから、100%は否定出来ません。ペトロについてだって、妻帯者だったのか、そうではなかったのか、明確ではありません。ルカ福音書には、彼の舅がイエスさまに癒やされたとあります。そうしますと多分、奥さんがいたのでしょう。少なくともかつてはいたのでしょう。この言葉だけでは断言は出来ません。

 イエスさま妻帯説については、しかし、1%の蓋然性もありません。これは、約めて言えば、全く論外だと言うことです。

 また、ペトロ妻帯説についても、福音書の記述は明確ではないと言うよりも、福音書は無関心だと言うべきでしょう。イエスさま妻帯説についても、同様です。何も根拠はありません。それ以上に、福音書は無関心です。福音書が全く無関心なことに、私たちが特別な関心を持つ必要は全くありません。


◇以上を前置きにして、順に読みます。11節。

 『マリアは墓の外に立って泣いていた。』

 何とも簡潔な表現です。しかし、力がある表現です。情景も心の内も殆ど何も描いていないようでいて、全てが伝わります。

 私は、初めて聖書を読んだ時に、この表現に立ち止まり、胸が一杯になりました。本屋さんで勝ってきて、初めて聖書を開いた日のことですから、聖書についても、教会についても、全く何も知りません。しかし、この表現に打たれました。

 連想したのは、北原白秋の詩でした。

 「おかるは泣いてゐる。                    

  長い薄明(うすあかり)のなかでびろうど葵の顫(ふる)へてゐるやうに、

  やはらかなふらんねるの手ざはりのやうに、

  きんぽうげ色の草生(くさぶ)から昼の光が消えかかるやうに、

  ふわふわと飛んでゆくたんぽぽの穂のやうに。お軽が泣いている。」

 白秋は、いかにも白秋らしい言葉、表現を駆使して、「おかるは泣いてゐる」という感情・情景をより浮き上がらせています。


◇ヨハネ福音書は、細かい感情の揺れも、情景も描いていませんが、マリアの気持ちは十分に伝わります。何も記されていない分、むしろ、引き込まれます。

 情景を描いている表現はただ一つです。『墓の外に立って』、これだけで十分です。余計な描写は要りません。悲しみが、戸惑いが、喪失感が十分に伝わります。

 ただ、このことから、連想させられる場面があります。そのように思うのは、私一人ではないでしょう。多くの人が、ごく当たり前に、別の時間の別の光景で、しかし、マリアが泣いている姿を見、マリアの泣き声を聞きます。

 ヨハネ11章です。少し長い引用になります。

 『31:家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、

   彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、

  後を追った。

  32:マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、

   「主よ、もしここにいてくださいましたら、

   わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。

   33:イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、

   心に憤りを覚え、興奮して、

   34:言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。

   35:イエスは涙を流された。』

 マリアの涙に呼応するかのように、『イエスは涙を流された』と記されています。


◇更に、この場面に導かれます。ヨハネ12章です。

 『そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、

   イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。

  家は香油の香りでいっぱいになった。』

 ラザロとマルタの姉妹マリアと、マグダラのマリアとは別人物だと言う人が多いようです。そうかも知れません。しかし、この二人のマリアを、二つの場面をどうしても重ねて見てしまいます。私だけではないでしょう。むしろ、そういう人が多いのではないでしょうか。学者は否定しても、二人のマリアはどうしても重って見えます。


◇11節だけで長くなりましたので先を急ぎます。14節。

 『こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。

   しかし、それがイエスだとは分からなかった。』

 このような表現が、他にも多く見られます。イエスさまを普段からよくよく知っている人が、しかし、復活のイエスさまを見ても、それがイエスさまだとは分かりません。この辺りは詳しくお話ししたいのですが、時間が許しません。

 15節で、イエスさまはマリアに語りかけられます。それでも分かりません。

 復活のイエスさまに気付くのは、16節です。

 『イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、

   ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。』

 イエスさまが、親しみを込めて、愛を込めてマリアと呼ばれて、初めて、マリアにもイエスさまが分かります。同じような構造の話が、他の復活の場面でもあります。


◇17節。

 『イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。

   まだ父のもとへ上っていないのだから。』

 何だか分かりづらい言葉です。『まだ父のもとへ上っていないのだから』、復活はしたけれども召天はしていない、復活の出来事は途中で、未だ完成していないという意味なのでしょうか。分からないことは仕方がありません。分かる所を読みます。

 『わたしにすがりつくのはよしなさい』

 15節までの内容をもう一度振り返ります。マリアは復活のイエスさまの姿を見、声を聞いても、それがイエスさまだとは分かりませんでした。分かったのは、『マリア』と呼びかけられた時です。親しみ、愛を持って呼びかけられたから、分かりました。

 復活のイエスさまの姿を見ても、声を聞いても分かりません。イエスさまが名前を呼んで呼びかけて下さらなければ、分かりません。これは、私たちに当てはめて語られているものと理解します。私たちこそ、この通りです。誰もが礼拝に出席出来ます。聖書を読むことが出来ます。お祈りも出来ます。しかし、イエスさまが愛を持って呼びかけて下さらなければ、礼拝でも、聖書でも、お祈りでも、復活のイエスさまを見ることは出来ません。


◇『わたしにすがりつくのはよしなさい』、このようにおっしゃったのは、マリアがすがり着こうとしたからでしょう。

 『すがりつくのは』いけないことです。それは、地上のイエスさまにすがり着き、復活のイエスさまを否定する行為です。

 ヨハネ福音書20章25節。

 『ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。

   「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、

  また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』

 この出来事に重なります。

 

◇この出来事は私たちに向けてこそ、語られています。

 私たちは、自分の見聞きしたこと、自分で体験したこと、正に、『指を釘跡に入れて〜手をそのわき腹に入れて』初めて信じることが出来ます。自分の体験が絶対です。そして、自分の体験、自分の知識にすがり着くのです。

 自分の体験、自分の知識にすがり着くとは、言い換えれば過去を振り返り、それに拘泥することです。

 人が歩いて行くためには、確かに、どこから来たかを知らなくてはなりません。過去を知ることは、現在の居場所を知ることに優先するかも知れません。しかし、過去に拘り、過去に遡り、過去を目的地とすることは間違いです。過去は帰って来ません。過去に辿り着く道はありません。過去にすがり着いてはなりません。


◇マリアには、過去ではなく、未来が示されました。ヨハネ福音書17節。

 『わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。』

 マリアは、復活のイエスの最初の目撃者です。そして、それ以上に、復活のイエスさまから最初のメッセンジャーとして使わされた人です。

 その内容は、同じ17節の後半。

 『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、

   あなたがたの神である方のところへわたしは上る』

 昇天が告げられます。

 

◇ちょっと話が飛躍するかも知れません。マルコ福音書9章には、イエスさまが高い山に登り、そこで姿が変わるという不思議な出来事が語られています。随行者は、ペトロ、ヤコブ、そしてヨハネの3人です。そこに、エリヤとモーセが現れました。イエスさまとで3人です。先週も申しましたように、この3という数字で、この出来事が十字架、復活と直結していることが強調されています。

 『ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、

   すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、

   一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

   6:ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。

  弟子たちは非常に恐れていたのである。』

 『小屋を三つ建て』て、ここに留まってはなりません。


◇『すがり着いてはならない』とは、伝えよであり、留まってはならない、出かけなさいなのです。

 ヨハネ福音書20章18節。

 『マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、

   また、主から言われたことを伝えた。』

 復活の出来事は、オカルト現象ではありません。述べ伝えられるべき福音です。福音宣教と切り離して復活の意味を考えても仕方がありません。福音宣教と切り離された復活は、ただのオカルトと誤解されてしまいます。