☆ 先ず1章3節をご覧下さい。 … わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、 わたしたちの主イエス ・キリストの父である神に感謝しています。… 先週もお話ししましたように、使徒パウロの手紙の挨拶文として、似たような表現がしばしば用いられます。な にげなく、読み過ごしてしまいます。 しかし、ここで、立ち止まって、考えて頂きたいと思います。 誰かのために祈った後、自分の心が軽くなるでしょうか。感謝するような気持ちにはなれず、むしろ逆に、気持 ちが重くなってしまうのではないでしょうか。 ☆ 誰かのために祈る、或いは誰かを覚えて祈る。その場合、誰かが抱えている問題が解決するようにと祈りま す。重い病、怪我、生活上の様々な困難、真剣に祈ったからとて、事態が容易に好転するようなものではあり ません。→だからこそ、祈ります。 ほんのちょっとした手助けやアドバイスで劇的に変化するようなことならば、祈るよりも先に、手を伸ばせば良い でしょう。口は出す、正しいかも知れないアドバイスはするけれども、自分の手を差し出すことはしないファリサイ 派を、イエスさまは、鋭く批判しています。祈りさえすれば、義務を果たせるのではありません。 本人が努力しても、周囲の者が援助しても、簡単に事態が変わらないような事柄のためにこそ、私たちは祈 ります。手を差し伸べても解決しない事柄のためにこそ、私たちは祈ります。 これは、矛盾と言えば矛盾です。祈っても効き目がないようなこと、祈っても叶わないようなことのためにこそ、 私たちは祈ります。 ですから、祈った後、満足する、感謝を覚えるどころか、却って気持ちが重くなり、暗くなり、心が晴れません。 祈った後、むしろ気分転換が必要になります。 祈るということと結び付いている言葉は、感謝ではなくて、苦痛・苦悩・挫折、絶望でしょう。他の人のことを 言ってはならないかも知れませんが、私はそうです。 ☆ しかし、使徒パウロはそうではありません。 … わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、 わたしたちの主イエス ・キリストの父である神に感謝しています。… フィリピの1章3〜4節でも。 … わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 4:あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。… 祈ることと感謝するということとが、結び付いている箇所が少なくありません。 ☆ 何故そうなのか。使徒パウロくらいの信仰者になると、祈ったら必ず叶えられ、事柄は俄然良い方向に向か うのでしょうか。そんなことはありません。 使徒パウロが、伝道者としてどんな困難な道を辿ったかということを、私たちは知っています。いつも喜び、常に 感謝する、そういうことが容易な生活・日々では、とてもありません。このコロサイ書の場合でも同じです。 後でもう少し詳しく申しますが、コロサイ教会には、深刻な異端問題が存在しました。このために、使徒パウロ は苦しみ戦わなくてはなりませんでした。 『いつもあなたがたのために祈り、…神に感謝しています』と記した、そのコロサイ教会員のためにです。 ☆ 何故パウロは、祈り、その後、感謝することが出来たのか、それは、祈って問題が叶えられたからではありま せん。そうではなくて、祈ることが出来たからです。 祈るべき方を与えられていたからです。使徒パウロの祈りを聞いて下さる神さまがおられるからです。 この辺りのことを考え、真に信仰の知識として、心の中に持つためにこそ、15〜20節を読みたいと思います。 15〜18節は、一言、難解です。一度読んだだけでは、何が書いてあるのかさえ、判然としません。少なくと も、私にとってはそうです。 なるべく、簡単に、解説したいと思います。細かいことや、学者の説などは、省略致します。大胆な程に、簡 単に解きたいと考えます。 ☆ … 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。… 私たち人間の目では見ることが出来ない神さまが、私たち人間の目で見ることが出来る姿をとられた、それが イエスさまです。 一番肝心なことは、イエスさまは、神さまに造られた存在、被造物ではないということです。イエスさまは、神さ まと同じ存在だという信仰です。 … 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、 王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。 つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。… ☆ 16節も同様です。 … 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、 王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。 つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。… 15節が述べることも16節が説明することも、一番肝心なことは、イエスさまは神さまに造られた存在、被造 物ではないという信仰です。イエスさまは、神さまと同じ存在だという信仰です。 ☆ 17〜18節。 … 御子はすべてのものよりも先におられ、 すべてのものは御子によって支えられています。 18:また、御子はその体である教会の頭です。 御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。 こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 一番早い、時間的に先だということが、強調されています。なぜ、そのことに拘るのか、ちょっと説明しなければ なりません。 コロサイ教会に侵入した異端思想とは、天使崇拝でした。星や月を拝む信仰には根強いものがあります。今 日でも、それは例えば星占いとして、残っています。この星や月を支配し、ひいては、人間の運命をも左右する のが、天使です。 また、この天使は、創造主なる神と被造物の中間にあるような存在で、その点では、神にして人であるイエ ス・キリストの存在と紛らわしいと言えば紛らわしいでしょう。 … 御子はすべてのものよりも先におられ、 すべてのものは御子によって支えられています。 … ですから、使徒パウロは、イエス・キリストが、天使よりも先に存在したと強調しています。天使は、神によって 造られた被造物でしかないと、厳密にします。 私たちの感覚からすれば、天使なんて存在しないと断定した方が、明確で分かり易い気がしますが、当時の 信仰では、それは受け容れられないことだったでしょう。 ☆ … すべてのものは御子によって支えられています。… これは、全ての存在の根拠に、イエス・キリストがあるという意味です。つまり、天使や、星や月が、世界を支 配しているのではありません。私たちの運命を司っているのではありません。 天使も、星も月も、イエス・キリストの存在によって、その依って立つ、世界を、空間を与えられているのであ り、正に支配を受けています。 ☆ 18節については、既に述べた通りです。 今でも、根強く残っている考え方に、長子というものがあります。同じ両親の元に生まれても、長男は特別で す。先の者が偉いでしょう。この当時の考え方では、これは、絶対のもでしょう。必ずも儒教だけの思想ではあ りません。 そこで、使徒パウロは、そのような思想を逆手にとって、『すべてのものが造られる前に生まれた方』イエス・キリ ストが一番偉いと、言います。 ところで、便宜上、使徒パウロがという表現をしています。何でも、コロサイ書は使徒パウロの著作ではないと いう説が、学問的には、かなり有力だそうです。しかし、そんなことは、聖書としてコロサイ書を読んでいる者に は、決定的に重要なことではありません。 また、今日の箇所、15〜20節は、使徒パウロの言葉ではなくて、当時の讃美の引用だとも言われます。 この点については、それならば尚更、私たちには重要です。パウロ一個人の思想ではなくて、教会の信仰なの でしょう。 ☆ 19節については、少し詳しくお話ししたい誘惑に駆られます。コロサイの異端について知る上では、重要で す。しかし、おそらく、ここでグノーシスがどう、プレーローマーがどう、ストイケイアがどうのとお話ししても、ややこし くなるだけだと考えます。大胆なまでに、簡単に解説したいと思いますので、ここでは、触れません。一言だけ申 します。 … 満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ… イエス・キリストに欠けたものなどありません。イエス・キリストにないものを他のものに求めることは間違いです。 もし、そんなものがあるとすれば、悪だけです。 しかし、人は、この悪をこそ、求めるのかも知れません。 人を虐げても、殺しても、自分の手にしたい宝物、様々な欲望の成就、そういう人が、イエス・キリストに背を 向けて、悪をこそ、求めます。 悪魔に祈っている人は少なくないでしょう。他人は損しても良いから自分が得しますように、そんな祈りは悪魔 に向けられた祈りです。 合格祈願も良縁祈願も、所詮そんなようなものでしょう。悪魔への祈りです。 ☆ インドの宗教では、破壊神・カーリー神がもっとも人気のある神さまだそうです。簡単に言えば、「どんな災害 が起ころうとも、戦争で家々が焼き尽くされようとも、この私だけは守って下さい。」と言う信仰です。ごく正直な 信仰かも知れません。 この信仰は形を変えて日本にも入っています。大黒さんの元々はカーリー神だそうです。やはり、合格祈願も 良縁祈願も、詰まる所は、破壊神、むしろ悪魔への祈りです。 ☆ 20節をご覧下さい。 … その十字架の血によって平和を打ち立て… 私たちが、真に祈り、礼拝することが出来る方は、この世界を作り出された方、そして、私たちを救うために、 十字架に架けられた方以外にはありません。 ☆ 人間とは何々する生き物だという言い方があります。人間の定義です。ホモ何とかと言うのも同じです。人 間とは祈らずにはいられない生き物です。祈る動物が人間だと言って良いかも知れません。 しかし、悲しいことに、とんでもなく方角違いに祈っている人が多いでしょう。天の星や月を拝んでも太陽を拝 んでも、そこには、真の喜びはありません。感謝はありません。祈って成功した人がいたとしても、同じ数だけ負 けた人、失敗した人がいます。 それでは博打と変わりません。 阿佐田哲也の小説にそんな場面があります。競馬場の近くに小さな社があります。博打打ちがこれを拝みま す。 しかし、社は、廃れるばかりです。博打打ちには御利益が無いのでしょうか。 御利益もないとは思いますが、無いのは感謝です。博打に勝った人は、そのお金で飲みに行きます。負けた 人は、社に唾を吐き、蹴飛ばすかも知れません。 どちらにしろ、社は傷むばかりです。もし、傷んでいる教会があるとしたら、それは、その教会に感謝がないから に違いありません。 ☆ 私たちキリスト者にも、祈らずにはいられない夜があります。どなたにもです。最初に申しましたように、真に 信じている者ほど、だいたい、叶わない願いを祈ることになります。真の信仰者で、儲かりますようにと祈る人 は、多分ありません。 大抵は叶わない祈りを、キリスト者は涙を流しながら祈ります。しかし、そこには感謝があります。 何故ならば、叶う叶わないではなくて、真の信仰者にとって、祈ることが出来ることが、慰めだからです。 祈るべき方を与えられているからです。私たちの祈りを聞いて下さる神さまがおられるからです。 ☆ 東日本大震災の出来事によって、神も仏もあるものかと、大きな躓きを感じた人が多いと聞きます。新聞に もそんな記事が載りました。当然です。教会に通っている人の中にも、そのようなことがあったと聞きます。 しかし、それは、本当の神さまに出会っていなかった人々の話です。御利益宗教から一歩も出ていなかった人 の話です。 本当に信仰し、祈っていた人は、被災の中で、涙を流しながら祈ったことと思います。しかし、そこには決して 絶望だけでは無く、感謝があります。祈るべき方を与えられているからです。私たちの祈りを聞いて下さる神さま がおられるからです。 |