日本基督教団 玉川平安教会

■2025年8月24日 説教映像


■説教題 「おくびょうの霊ではなく」

■聖   書 テモテへの手紙二 1章1〜10節 


◇ 1〜3節は、パウロ書簡の全てがそうであるように、決して儀礼的な挨拶文ではなく、なかなかに味わい深い
言葉だと思います。1字1句、吟味する値打ちがあるでしょう。しかし、今日は話を絞り込みたいので、5〜8節
だけを読み、他の部分は省略します。


◇ 5節。

 … その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、

   それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。…

 5節に依りますと、テモテはクリスチャン3世となります。教会が誕生してそんなに日が経っていません。テモテは
一番最初のクリスチャン3世かも知れません。

 『祖母ロイスと母エウニケ』は、同じ時に信仰を受け入れたのでしょうか。『祖母ロイス』が、娘ないしは嫁のエウ
ニケに信仰を伝えた可能性もあります。厳密な時期や順番は分かりませんが、一つの家庭の中で信仰が伝え
られたこと自体が大事なことでしょう。

 そのようにして、2000年間信仰は、家庭の中で、受け継がれてきました。この頃は、このような形での信仰
継承は珍しいかも知れませんが、決して廃れた訳ではありません。

 プロテスタント、特に日本の教会では、この一番太い信仰継承のパイプが、詰まってしまったかのようです。もっ
たいないことです。


◇ 信仰継承のパイプと申しました。もっと普通の言い方ですと、血脈でしょうか。一家の血の繋がりを通して、
信仰が流れて行きます。

 血筋と言います。まるで遺伝子のように、受け継がれて生きます。中世のヨーロッパまでは、これが当たり前で
した。血脈・血筋、そして家の名前、家業も、子々孫々と受け継がれるのが当たり前だと思われていました。

 それが礼賛できることなのか、逆なのかは議論もあります。

 福音書自体が、ユダヤ教のそのような考え方について、反駁しています。

 マタイによる福音書3章9節。

 … 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、

   神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。…

 パウロも幾つもの箇所で、信仰は血縁によるものではないと言っています。


◇ パウロが言うのは、2世3世と受け継がれ、時を経た信仰は、未だ1世の信仰よりも、年季が入っていて尊
い、と言うことではありません。比較する必要もありません。

 しかし、信仰が2世3世と受け継がれるのは、麗しいと言っています。

 4〜5節を見ます。

 … わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、

   喜びで満たされたいと願っています。

  5:そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。…

 詳しくは描かれていませんが、情景を想像することが出来ます。

 以下は、かなり想像でお話しします。

 『祖母ロイスと母エウニケ』に、信仰の道を伝えたパウロが、次なる伝道の地へと赴く時が来ました。パウロは、
この一家に別れを告げます。その時、未だ幼いテモテは、すっかりパウロに懐いていたのでしょう。別れを惜しみ、
涙さえ見せます。

 パウロも、この時のことを忘れられません。そして、『祖母ロイスと母エウニケ』のもとで、テモテの信仰が育ま
れ、『宿っていると〜確信しています。』


◇ 6節。

… そういうわけで、

 わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、

 再び燃えたたせるように勧めます。…

 『再び燃えたたせる』という表現は、気になります。今は下火になっているのでしょうか。それは、8節に起因す
るのでしょうか。

 … わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。…

 テモテは、尊敬するパウロが獄中にあることに躓きを覚えたのでしょうか。そうかも知れません。自分が伝道者
として立つことに、躊躇したのかも知れません。


◇ その前に、『わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物』、この意味を考えなくてはなり
ません。

 パウロが『手を置いた』のは、テモテが未だ幼い時、洗礼を授けたことでしょうか。幼い時と言いましても幼稚園
児から高校生くらいまで考えられます。パウロは洗礼を授けた人数を誇るようなことはしません。むしろ、あまり洗
礼式を執行していないようです。

 一コリント1章14〜15節。

 … 14:クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、

   わたしは神に感謝しています。

  15:だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。…

 それは多分、パウロが去った後、その教会の責任を持つ牧師によって洗礼式が行われた方が、受洗者の信
仰が教会に結び付くと考えたからではないかと、私は想像します。もっと簡単に言えば、洗礼を授けるのは教会
の業であって、牧師の業であってはなりません。


◇ 元に戻って、パウロが『手を置いた』のは、テモテを伝道者に選んだ時かも知れません。その方が、後との繋
がりは分かり易くなります。

 『神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。』と言うのも、伝道者として、また、パウロが自由に伝道出
来ない状況に置かれている今こそ、『燃えたたせるように』と促しているのでしょうか。


◇ そもそも『手を置いた』とは、一つには祝福の意味があります。創世記のアブラハムからイサクへ、イサクから
ヤコブへの長子権、家督の相続権は、頭に『手を置いた』ことによって継承されました。

 初代教会でも、手を置くことで、牧師が任命されます。今日の日本基督教団でも、同じです。教区総会
で、按手礼が執行される時には、その場に居合わせた牧師全員が、任命される者の頭に手を置きます。100
人も牧師がいれば、とても手が届きませんから、手を置いた人の背中に手を置きます。更に、その人の背中に
手を置きます。

 こうして、使徒の職が継承されていくという印です。血脈です。


◇『手を置いた』には、もう一つ任命・派遣の意味があります。

 これから神さまのご用をし、時にはローマと戦わなくてはなりません。だから、7節。

 … 神は、おくびょうの霊ではなく、

  力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。…

 そのために『おくびょうの霊ではなく、力』が必要だ、按手によって、それが与えられると言うのは、頷けます。そ
の一方で、同じ按手に依って、『愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。』とあります。『愛と思慮分
別の霊』です。

 『力』だけではありません。『愛と思慮分別の霊』です。


◇ ここで敢えて4〜5節に戻ります。4節。

 … あなたの涙を忘れることができず…

 既に申しましたように、この時テモテが何歳なのか分かりません。

 何故涙を流したのかも、説明がありません。

 単にパウロとの別れを惜しむ涙だったのか、他に理由があったのか分かりません。それでも、『あなたの涙を忘
れることができず』というパウロの気持ちは伝わります。テモテが可愛かったのでしょう。

 笑顔が忘れられない場合もあります。良い想い出です。笑顔が忘れられない人を何人も持っていたら、それ
だけでも素晴らしい人生です。

 涙顔が忘れられない場合もあります。それだって辛い想い出とは限りません。良い想い出にもなります。涙顔
が忘れられない人を何人も持っていたら、それだけでも素晴らしい人生です。


◇ 5節。

 … あなたが抱いている純真な信仰…

 これも具体的な描写はありません。何をもって『純真な信仰』と言うのか分かりません。しかし、その『純真な
信仰』が、『祖母ロイスと母エウニケに』由来するものであることは確かです。

 以下は、殆ど何も根拠がないままに申します。

 この『純真な信仰』は、信仰厚い女性たちによって伝えられるようなものなのでしょぅ。

 決して血筋で、遺伝子で伝えられるものではありません。家業を継ぐように伝えられるものでもありません。多
分、言葉でさえありません。


◇ この当時、本は非常に高価なものでした。印刷技術は未だ存在しません。紙さえありません。高価な羊皮
紙には、専門的な技術を持っている者だけが、文字を記すことが出来ました。

 テモテの家が大金持ちだったなら、旧約聖書の写本を所蔵し、読むことも不可能ではなかったかも知れませ
んが、聖書のどこにもそんな描写はありません。そも彼らはユダヤ人ではありません。

 一方で、貧しい筈はありません。パウロを援助したり、宿を提供していたと思われます。もしかすると、テモテの
家で礼拝が守られていたのかも知れません。普通の裕福な家庭だったと考えて間違いないと思います。

 その平和な裕福な家庭で、どんな形で、『祖母ロイスと母エウニケ』そしてテモテに信仰が伝えられたのか。


◇ 儀式でもなく、難しい言葉ででもなく、 … それは何でしょうか。一つの例でしかありませんが、讃美歌はどう
でしょうか。エフェソの信徒への手紙5章19節。

 … 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。…

 パウロの時代に既に讃美歌は存在していたようです。勿論今日の讃美歌とは大分趣が違うでしょうが、間違
いなく存在しました。

 マルコ福音書14章26節。

 … 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。…

 イエスさまの時代にもありました。イエスさまの伝道活動に於いても、讃美歌は歌われていました。そもそも、詩
編は皆讃美歌だと言ってもよろしいでしょう。


◇ 今日のような、讃美歌集があったかどうかは分かりません。多分ないでしょう。逆に言えば、誰もが暗唱でき
るような、ごく限られた数の讃美歌が歌われたことでしょう。そして、専門的な技術訓練を受けた者だけが歌った
筈がありません。親しみやすい歌だったと思います。

 何も讃美歌に拘る必要はありません。讃美歌のように、平易で、優しい言葉で、テモテの信仰は育てられて
のではないでしょうか。

 讃美歌、そも歌は、不思議な力を持っています。全く無意識に、ふと、メロディーを口ずさみます。何十年も
前に聞いただけの歌だったりします。記憶しているとは思っていなかったメロディーがふと蘇って来ます。つまり、心
の奥底に、宿っています。

 これは、最初に上げた、血筋よりも、家の伝統よりも、もしかすると人間関係よりも、もっと強く信仰をつなぐ糸
なのではないでしょうか。

 

◇ 歌は、口から耳へと伝えられるかも知れませんが、それよりも、心から心へと伝えられるものでしょう。口や耳
は、歌を伝える道具でしょうが、それを共鳴させるのは、矢張り胸です。心です。

 さて、パウロはこの箇所で讃美歌を奨励している訳ではありません。ですから、これ以上讃美歌の話にはしな
い方がよろしいでしょうが、念のため、このことだけ付け加えておきます。7節をもう一度読みます。

 … 神は、おくびょうの霊ではなく、

  力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。…

 讃美歌は、私たちの信仰心を奮い立たせます。困難に立ち向かう勇気を与えてくれます。聖霊と同じです。
目には見えないけれども、私たちの心に響く点も聖霊と同様です。

 しかしそれは進軍ラッパではありません。『力と愛と思慮分別の霊』を与えてくれます。愛がないなら、讃美は
ありません。『思慮分別』を失うようなら、讃美しない方がましでしょう。

 私は何かの間違いで、教団の讃美歌委員会の主事を3年間していました。若い時には、東北教区の音楽
講習会の主催者でした。音痴がそんな役に就かされたのですから、たまったものではありません。苦痛でした。

 何よりも、音楽家たちが学閥で分かれ争うのを、調停しなくてはなりません。これでは讃美歌とは呼べないと、
何度も躓きました。

 どうして聖霊にも準えられる讃美歌で、互いに争うのでしょうか。そういう人は、結局自分を披瀝しているだけ
で、神さまを讃美していないのだろうと思うしかありません。