本日の聖書箇所は、日本基督教団の聖書日課から選びました。ただ、この聖書箇所にした後で、ずっと引っ かかっていました。どこかの教会で説教した気がすると。勿論、牧師は教会で牧会していれば何度も同じ聖書 箇所で説教することはありますし、せざるを得ません。けれど、わたしは今は教務教師であり、何十年も教会で 牧会してきた訳ではありません。出来れば同じ聖書箇所ではなく、別の聖書箇所で説教したいと思うのであり ますが、聖書箇所を懇意的に選ぶこともしたくありません。自分自身で窮屈な状態にしてしまっているのです が、なかなか困ります。結局過去の原稿などを調べたところ、自身では礼拝の中で説教箇所に選んだことはな かったのですが、玉川平安教会で2022年に説教された聖書箇所だと、後になって気がつきました。またこの聖 書箇所か、と思われる方もおられるかもしれませんが、御言葉は廃れることはなく、何度も繰り返し聞くもので あり、またその必要があるものですので、共に今日も、この聖書箇所に耳を傾けたいと思います。 1節前半<イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。> ヨハネの手紙Tが宛てられた教会では、イエス様の受肉を否定する者たちが問題になっていた、と言われます。 ただ、ヨハネの手紙Tの背景はなかなか確定が難しいそうです。その中で、ヨハネの手紙が2章22節で確実に 示しているのは、イエス様がメシアであることを否定する者たちがいた、ということです。 イエス様がメシア、キリストであることを否定する者たちが教会共同体の中にいた。その人々は聖霊によって語っ ていません(コリントの信徒への手紙12章3節)。 勿論、洗礼を受けた私たちは、イエス様はキリストなのだと信じ、先ほども信仰告白しました。また聖書(ヨハネ による福音書1章12節)は、イエス様がご自身を信じるものたちに神の子となる資格を与えたと記しています。 そして、神によって生まれた、とも記しています。イエス様はキリストだと信じるものたちが、神から生まれたものな のだと。 但し、その信仰も聖霊によらなければ与えられない、と聖書は記しています(コリントの信徒への手紙12章3 節)。信じている、信じていない、それは大事な問題ですが、今日は問題にしないでおきましょう。素直に、信 仰告白をし、洗礼を受けている。そこに安心したいと思います。それは聖霊によらなければ告白できないこと。そ して、与えられたものだからこそ、自分を根拠にしなくて良いものです。自身の力ではない。 イエス様を信じ、それによって神から生まれた、それはわたしたち信仰者に与えられた恵みです。同じように、誰 も、自分の力で父・母を選んで生まれてきた訳ではありません。その事実の中、自分は生まれてきて良かったと 思えているのなら、両親を通して与えられたこの生を恵みとして受け取れるでしょう。父母に感謝し、愛すること でしょう。同じように、信仰を与えられて良かった、と思えるならこの信仰者としての歩みを恵みとして受け取って いるはずです。主に感謝し、主を愛することでしょう。 わたしにとってはこの二つのことはよく重なっています。あの父母の下に命与えられて良かった。あの家族のもとに 生まれてよかった。あの家族のもとに生まれ、育ったから信仰を与えられたのではないかと考えています。あの家 族の下でなければ、私は変な宗教にはまっていたか、とっくに死んでいたと思います。洗礼に、信仰告白に至ら ない人生だったかもしれない。ともかくも、主は備えてくださり、私にはあの家族が必要で、それらを通して信仰 が与えられたのです。教会にはクリスチャンの2世、3世も多いですから、共に実感できる方もいらっしゃるのでは ないかと思います。 一応断っておきますが、キリスト教徒初代だと悪いわけでは勿論ありません。しかし、2世3世などは、自分の 力や努力で信仰を勝ち得たのではなく、この弱い私に神様が憐れんで備えてくださったのだ、とより実感しやす いかもしれない、というだけです。 さて、1節後半。<そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。> 洗礼を受け、信仰を与えられ、イエス様と繋がった新しい命に生きている。どうしようもなく、弱く、はかなく、罪 深いものであったにもかかわらず、主イエス・キリストを信じるものと変えられた。その恵みに応え感謝し、主なる 神を愛する、それならば、同じく主イエス・キリストを信じるものとして、同じところから生まれた兄弟姉妹を愛せ るでしょう、と。同じ親から生み出されたのでありますから、信仰者は互いに兄弟姉妹です。兄弟姉妹を憎み、 否定するならば、その人は、自分の親をも否定していることにならないでしょうか。また、その親から生まれた自 分自身をも否定してしまっていることにもなるのです。 詳しくは忘れたのですが、昔のある4コマ漫画で兄弟喧嘩のシーンがありました。その中で弟が兄に向って、「お 前の母ちゃんでべそ」と悪口を言っていたのです。実は腹違いだった、だとかは想定されていないでしょう、実の 兄の母を馬鹿にするとは、自身の母を馬鹿にすることです。4コマ漫画内のギャグでありますが、兄弟姉妹が悪 口を言い合う、その存在を否定する、結果自分自身の両親をも貶めてしまっている。そのようなことが実際に 行われているこの世の現実があります。それが教会での出来事ならば、その兄弟姉妹を新たに生まれさせた神 を、否定してしまっているのです。それではいけない。主なる神を愛するならば、教会で共に礼拝を守る兄弟姉 妹を否定してはなりません。 2節<このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛しま す。> 掟、とは一般的な印象では法律、規則、ルールだとかですが、ここでの掟は神の掟です。主なる神を愛し、隣 人を愛しなさい、という掟。そして、十戒など旧約聖書に示される掟を含め、イエス様が教えてくださった、またそ の行動をもって示して下さったすべての教えのことです。 その掟は自分たちを縛るものではなく、まして神のこどもたちをないがしろにするものではありません。むしろ神の こどもたちを愛することに繋がるものです。その掟によって相手を労り、相手を尊重し、自身も幸いを得るための もの、自分たちが幸せに生きるために神が与えてくださった掟なのです。 3節<神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。> 神を愛すること、掟を守ることは一つの事柄であり、その掟は難しいものではないとも言われています。確かに神 学だとかと比べると難しいものではないかもしれません。理解できないわけではない。様々な勉学に比べても、 何を言っているかくらいはわかる。難しくない。何をどうすればいいのか、それは愛すればいいのだ、とわかりやす い。 しかし、愛を実際に行うのは難しい。それが一番実感しやすいのは「敵を愛せ」かもしれません。ある牧師が、 「聖書で言う愛とは自然的なものではない。情緒的なものではなく、掟を介するものだ」といったことを書いてい ました。それが一番わかりやすいのが「敵を愛せ」だと。自然性に任せたら、「敵を愛する」なんてことはあるはず がない。だから、聖書が言う愛は、自然に愛せるなんてものではないのだ、と。 イエス様は掟として愛せとおっしゃいました。あらゆる掟のうちで、どれが第一の掟か、と問う律法学者に対し、イ エス様は「第一の掟は、これである。イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽 くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、これである。 隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない」とおっしゃった。 私たちは、神様を第一にして生きています。自分自身の歩みを振り返ると、口ごもってしまうような時もありま すが、少なくともそのようにありたいと願っています。神を愛し、掟を守り、兄弟姉妹をも愛するものでありたいと 祈っているのです。 4節前半<神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。> こうして、神から生まれた=神のこどもたちを愛する=神の掟を守る=世に打ち勝つ、となっています。 私たち信仰者は、神の戒めを第一に、愛を第一にして生きています。少なくともそのようにありたいと願っていま す。ところが、世とは、そう言うものではありません。世とは、2章16節からすれば、<肉の欲、目の欲、生活の おごり>などに心奪われることです。他に大切なものがあって、それを第1にして生きてしまう。神ならぬ他のもの を第一にして生きている。すなわち偶像崇拝している、そのような生き方がこの世です。それはお金であったり、 地位・権力であったり、またそれらによって得られる贅沢な生活、優雅な暮らしなどがそうなのかもしれません。 人によっては名声であったりする。そういったこの世を愛する故に、神の掟を守ることが出来ない、兄弟姉妹を愛 せない、神を愛せないということが出て来てしまいます。神、兄弟姉妹、隣人に対する愛よりも、もっともっと大 事なことがあると考えて、それを行っている人が、決して少なくないのです。 世に勝つ、それはつまり真の主なる神を第一にし、神の戒めを第一に、愛を第一にして生きることです。それ以 外のものを大事にし、愛してしまう、そのような思いを抱いてしまう、そのように振舞ってしまう「世」に打ち勝つの です。 聖書は、それは人間の力や努力で成しえるのではない、信仰だと言います。4節後半<世に打ち勝つ勝利、 それはわたしたちの信仰です。>繰り返しになりますが、その信仰は与えられたものであり、自分が頑張って信じ て、神を崇めているのではありません。そうせざるを得ないのです。自身の罪のために主イエス・キリストが十字 架に架かってくださった、それがどうしようもなく、この心とからだを貫いている。確かにそのことを信じさせて頂き、 救われた。その信仰が世の誘惑に打ち勝ってくれると言うのです。その信仰が、愛さないことない、殺すことな い、姦淫することない、そのような歩みへと導いてくれる。 5節<だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じるものではありませんか。> イエス様をキリスト、神の子救い主だと信じるものたちが、世に打ち勝ちます。理屈は単純だけれども、実践は 困難な掟を守るために、私たちは世に打ち勝つことをしなくてはなりません。世の様々な誘惑を退けなければな らないのです。世に打ち勝つとか世の様々な誘惑を退ける、そのように言いますと、極めて禁欲的な生活をしな くてはならないというように、聞こえるかもしれません。そういうこともあるかも知れませんが、世の様々な誘惑を退 ける、ということと、禁欲的であることとは、必ずしも、同じことではありません。あくまでも、神を愛すること、掟を 守ること、神の子供たちを愛することを、最重要とする信仰生活を歩むのです。禁欲したから立派な生き方だ、 と言う話ではない。世に打ち勝つ信仰とは、十字架と復活の信仰によって生きるということです。イエス・キリスト の信仰こそ力であると信じて、信仰を貫く生き方なのです。 そのイエス様の信仰の力は私たちにあります。信仰とは、元のギリシャ語からすれば「信」だとか言われることがあ ります。信じて、仰いで初めて信仰だとかではなく、「信」だと。「信」というものがある。イエス様の「信」が私たち に与えられている。イエス様の「信」が与えられており、イエス様の「信」そのものがわたしたちの内にあるのです。 主イエス・キリストがこの身に宿ってくださっている。それをこの後の聖餐式でも味わい見ることができます。主イ エス・キリストの血と肉にあずかり、主イエス・キリストがこの身にあることを見た目でも示されます。世に勝利した イエス・キリスト。神を第一にして生きることできない、掟を守ることできない、それゆえに不自由になり、苦しんで いた私。そのような私を罪から勝ち取ってくださった方が、この私と繋がってくださった。それゆえに、神を父と呼ぶ ことも赦された。神から生まれた兄弟姉妹と、お互いに主の晩餐を頂きます。この自分が主の血潮で罪赦され 救われたように、ここに共に座る兄弟姉妹も、その罪赦され、主イエス・キリストに連なるものとなっている。その 信、与えられている。 だから、お互い掟を守ろうと願い、教会生活を歩んで行くのです。その信仰生活において愛し合わずにはいら れないはずなのです。同じ神から生まれた兄弟姉妹として、愛し合う。その私たちは約束されています。今この 礼拝で聖餐式に与る。共に座る兄弟姉妹が与えられている。この教会生活に救いがあるのだと。 何度も繰り返しになりますが、世に勝つ、それはつまり真の主なる神を第一にし、神の戒めを第一にし、愛を第 一にして生きることです。その歩みは決して難しいものではありません。既に勝利してくださった、真の勝利者、イ エス・キリストの御後に続く歩みであり、その主イエスに私たちは既に連なっているからです。 |