◇ イザヤ書61章は、クリスマスに読まれることが多い箇所です。玉川平安教会でも一度クリスマス礼拝で読 んでいます。今日は、テモテへの手紙の学びを中断して、このイザヤ書を読みますが、毎年のことです。8月15 日に一番近い日曜日には、戦争と平和を意識して、聖書に聞きたいと思っています。 ◇ 1節については、少し細かいことを申し上げなければなりません。 … 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために … 『良い知らせを伝えさせる』が、一つの単語です。しかし、厳密には、この字に、『良い知らせ』、つまり「福音 を」という意味はありません。『知らせを伝えさせる』だけです。 「貧しい者に、語り伝えるために」、或は「貧しい者に、告げ知らせるために」が、元の意味だそうです。 私たちは、良い知らせと悪い知らせがあると考えています。これは必ずしも、聖書的な考え方ではないようで す。良い知らせの反対は、知らせがないことです。私たちにとっては、「便りがないのは無事な便り」かも知れませ んが、聖書的な意味では、知らせ=「神からの言葉」がないことが最悪の状態です。 ◇ 私たちも、ごく希にですが、「知らせがない」ことに非常な不安を覚えます。災害時に連絡が取れない場合 がそうです。 最近は、携帯電話がありますから、何時でも、どんな状況でも、連絡できます。それだけに、返信がないと、 とても不安になります。 何も知らせがない、声を聞くことができない、これは、大きな不安です。 ◇ 旧約聖書の預言書は、その殆どの箇所が、厳しい裁きの言葉で埋め尽くされており、滅亡の預言です。 数えたことはありませんが、分量的には、多分9割方がそのような預言です。ユダヤ人にとっては憎い敵である 周辺諸国・民族に対する裁きまで勘定に入れても、預言の殆どの箇所は、ユダヤ人にとっては痛快な言葉に 響くかも知れませんが、読者にとっては耳障りがある辛辣な言葉です。 1節で、『貧しい人に良い知らせを伝えさせるために』と言われている預言が、ユダヤ人にとっても、『良い知ら せ』であったことは、ごく、稀なことです。 ・・・にも拘わらず、この字は、「良き知らせを伝える」という意味で用いられています。その点、新約聖書の 「福音を宣べ伝える」、即ち、エバンゲリオーに対応する字だと言うことが出来ます。 ◇ 何故でしょうか。それが裁きの言葉であっても、神の言葉を聞くことこそが、良い知らせだから、福音だからで す。 最悪の状態は、神が語ることを止めた時、ユダヤが神に見放された時です。捕囚の50年間、ユダヤ人は、バ ビロンの都に連行され、神殿もなく、祭儀を司る祭司もおらず、つまり、神の沈黙の下に、置かれていました。 人々は、神の言葉に飢え、渇いていました。 「神も仏もあるものか」という言い回しがありますが、これが極まって、全く神の存在を感じることが出来ない状 態、境遇こそが、最も悲惨な状態です。 ◇ 良い知らせを宣べ伝えるために、福音のために召されたということが、その第1の強調点です。 アモス以来の預言者は、イスラエル、ユダに対して下される神の裁きについて語らなければなりませんでした。 しかし、裁きは、決してイスラエル、ユダの民を苦しめるためだけに存在するのではありません。懲罰を自己目的 とするものではありません。その民の救いが究極の目的であり、救われるためにこそ、彼らは、50年間苦しみを 受けなければなりませんでした。 神の裁きを説くことを専らとした預言者たちでさえも、既に預言していることです。一番厳しい調子で、そして 徹底的な裁きを語るアモスにさえ、回復、赦しの預言があります。 第1イザヤに至って、救いの時を見ることが できる『残りの者』の思想が展開され、イザヤでは、裁きよりも、この『残りの者』の思想が預言の基調になって います。 第1イザヤ以降の預言は、皆、『残りの者』の思想を踏まえ、その延長上に、究極の救いを見ようとしました。 ◇ しかしながら、50年間の奴隷的な境涯、そして、帰還後も続く苦労は、人々から、希望・未来という言葉 を奪ってしまいました。今、イザヤは、神が民に語ること、即ち預言の言葉は、裁きに聞こえても、それでも、良 き知らせ、福音であると告げます。 このことは、私たちにも、全く当て嵌まります。私たちにとっても、聖書の言葉は、基本的に、第一義的に、良 き知らせであり、福音です。何か、良いことを、慰めを、励ましを、語ってくれるから、福音なのではなくて、神さ まが語りかけて下さるという事実そのものが福音です。 ◇ あまりに卑近な例かも知れませんが、私たちもこれを実体験する場合があります。先ほど申しましたように、 連絡が取れなく不安でいる時に、一本の電話が入ります。 その電話の内容は決して喜ばしいものではなくとも、兎に角電話があったという事実そのものに安心します。 「車の事故に遭ってしまったよ。」 「怪我は、酷いの」 「大したことはないよ。でも車はぺちゃんこで、もう駄目だね。」 そうすると私たちは、思わず「良かったね」と言います。 災害時も同じでしょう。たとえ家が流されたと聞いても、電話があったことに、生きていたことに、ほっとして、思 わず「良かったね」と言います。 ◇ 勿論、この福音は、罪を悔い改めた民に語られるものです。罪を悔い改めることをしない者に、福音はあり ません。しかし、罪を悔い改め、己を責め、結果絶望から立ち直ることが出来ない者が、神さまの言葉を忠実 に聞いている者だとは、言えません。悔い改めた者は、福音を受け止め、新しい希望を、未来を持ちます。絶 望では終わりません。 これが「良かったね」です。 ◇「貧しい者に」という表現についても、どうしても申し上げなければならないことがあります。 通例イザヤ書の56章以下を、第3イザヤと呼びます。その60章で、イザヤは、バビロンから今日のパレスチナ に帰還することを許され、故郷の土地に再度入植した人々に、豊かな未来があること、大きな希望が待ってい ることを告げます。 今日の聖書箇所ではありませんが、イザヤ書60章1〜2節にこうあります。 … 1:起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。 2:見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。 しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。… 福音、良い知らせを、私たちは、闇の中で聞くのです。 ◇ しかし、彼の預言は、多くの再入植者が体験した現実からは、程遠いものでした。あまりにも苦しいものでし た。 ために、イザヤは、今、人々に対して、自分が預言者として召されていることの証拠を上げ、彼らを説得する 必要に迫られます。 その文脈の中で、61章1節が先ず語られています。このことが、最重要なことです。 ◇ 5節。 … 他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い 異邦の人々があなたたちの畑を耕し ぶどうの手入 れをする。… 今まで奴隷だったユダヤ人が、強く豊かになり、今度は他国の人々の上に君臨して、王侯・貴族として振る舞 うということが言われているのではありません。 他国の人々が、かつて彼らのものであった土地を耕作し、葡萄の収穫をしているというのは、現実です。こうし た場合、彼らの土地を奪い返すことが預言されるのが普通かも知れません。 しかし、イザヤは、この現実を逆手に取っています。土地を耕作し葡萄を育てるという労働に従事するのは、 諸国からやって来た労働者であり、そして、捕囚から帰還した群れは、礼拝・祈りという精神的な事柄で働くこ とに自分たちの役割を見い出すと言うのです。 そして、それがパレスチナの平和にとって、是非、必要なことだと考えているのです。 ◇ 6節前半。 … あなたたちは主の祭司と呼ばれ わたしたちの神に仕える者とされ … 諸国民の祭司という役割に、ユダヤの未来、希望を見い出しています。 6節後半。 … 国々の富を享受し 彼らの栄光を自分のものとする。… 彼らから搾取するということではありません。彼らの繁栄が自分たちの繁栄であり、彼らの平和が、自分たちの 平和だと言う理解です。 現代の中東の政治的・宗教的現実、特にホメイニ革命以降、イスラム原理主義と呼ばれるものを見れば、 イザヤの預言が、どんなに優れたものであるか、高尚な所に立っているか、そして、実は、一番現実的な路線 であるかが、お分かりいただけるかと思います。 復讐に継ぐ復讐、血で血を洗うのが、ホメイニ革命であり、イスラム原理主義であり、そもイスラエルのシオニ ズム運動も、2000年の恩讐を、武力で或は経済力で、解決しようとするものに過ぎないかも知れません。そ の結果は、中東の至る所で、アフガニスタンで、アフリカの北部で、正義と復讐の名のもとに、果てしもない殺 戮が繰り返されています。しかし、イザヤは、全く別の道を模索するのです。 ◇ 7節。 … あなたたちは二倍の恥を受け 嘲りが彼らの分だと言われたから その地で二倍のものを継ぎ 永遠の 喜びを受ける。… 彼らの恥辱をそそぐのは、武力の回復でも経済力の回復でもなく、信仰の回復であり、礼拝と祈りの再建で す。 ◇ 8節。 … 主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。 まことをもって彼らの労苦に報い とこしえの契約を 彼らと結ぶ。… 正義を愛する神だから復讐を肯定するというのが、多くの国々、人々の考え方です。 イザヤが言うのは、全く逆です。正義を愛する神は、不法を、暴力を、忌み嫌われます。 ユダヤの奪われた 富み、奪われた名誉は、取り戻されなければなりません。しかし、暴力で取り戻されることはありません。 神の民という名誉が、回復されるのです。回復されなければなりません。 ◇そうして9節 … 彼らの一族は国々に知られ 子孫は諸国の民に知られるようになる。 彼らを見る人はすべて認めるであ ろう これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。… ◇ 今日は平和を祈る礼拝です。そして、イザヤ書を読んでいます。 蛇足になるかも知れませんが、申します。 エゼキエル書や、U・Vイザヤ書には、バビロン捕囚の出来事が反映されています。捕囚の民は、絶望、闇 の中にいました。奴隷的な境遇も苦難ですが、バビロンには、神殿がありません。神殿で執り行われる祭儀も ありません。祭司は無用の存在です。つまりは、神がいません。それが最大の苦しみでした。 しかし、遠く離れたエルサレムから、瞬時に神が天を駆けてやって来られ、人々に語られるのが、エゼキエル書 の信仰・預言です。エゼキエル書のこのような場面・預言をUFOやオカルトのように読む人がいますが、誤解で しかありません。エゼキエルが言うのは、奴隷のようになってバビロンに縛られている人々にも、神は語りかけてお られる、その一点です。 闇が全てを覆っているとしか考えられない現状でも、その闇の中に、神の言葉が光のように輝く、ひときわ輝く というのが、イザヤの信仰・預言です。 ◇ 武力や経済力で、聖地を取り戻すのが、聖書の信仰、教えではありません。それは、エゼキエル書やイザヤ 書の否定でしかありません。 どんな場所でも、どんな時でも、神の言葉は生きて語られると言うのが、預言書の信仰です。闇の中にこそ、 神の言葉が光のように輝くのが、イザヤの信仰・預言です。 今日の聖書箇所ではありませんが、イザヤ書60章10節や12節などはそこだけを読めば、あたかもイスラエ ルが世界に君臨すると読んでしまうかも知れません。そこには11節が元にあります。 … あなたの城門は常に開かれていて 昼も夜も閉ざされることはなく 国々の富があなたのもとにもたらされ その王たちも導き入れられる。… これがイザヤが思い描く平和です。逆に言えば、城門が閉ざされ、武力で守護され、人は自由に出入り出 来なく、多くの者に対して閉ざされている、これが暗黒の世です。パレスチナの国境が、検問所が廃止される時 が、ガザの人にも、イスラエルにも救いの時です。 |