☆ 今週から、しばらくの間、コロサイ書を読みます。20回ほどになりますでしょうか。 1節から順に読みます。 … 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから … パウロのどの書簡を読んでも、似たような書き出しで始まります。手紙の冒頭の定型文のような印象です。そ れだけのことと受け止めても良いのかも知れません。 しかし、どんな書簡でも同じような文章・挨拶が先ず記されているのには、矢張り、パウロの気持ちが込めら れているのではないでしょうか。 フィリピ書では、『キリストの僕であるパウロとテモテから』とあります。 コロサイ書では『キリスト・イエスの使徒』となっています。僕と使徒とでは、まるっきり逆のようにも聞こえます。 僕と言うと、身分では一番下でしょう。使徒は一番上でしょうか。しかし、パウロにとっては、この二つの言葉は、 全く同じものです。偉いとか、下っ端とかではありません。 ☆ 僕も、使徒もパウロにとっては同じです。どちらも、『神の御心によって』与えられた役割・使命です。この二つ の真逆があるとすれば、『神の御心によって』ではなく、でしょう。つまり、資格試験に合格したからとか、偉い 何々さんに任命されたからとか、特別に有能だからとかとなります。自分の意志・決断でと言うのも、『神の御心 によって』と逆でしょう。 『神の御心によって』とは、誰の意志でも、自分の覚悟でもなく、ただ『神の御心によって』と言う意味です。 牧師は、頻繁に、「どうして牧師になったのですか」とか「どうして教会に通い始めたたのですか」と聞かれます。 その度に、自分の心を振り返り、考えさせられます。 私でしたら、この質問に、少なくとも10通りに答えることが出来ます。逆に言いますと一つではありません。いろ いろな出来事や思いが重なった結果です。と言いましても、たっぷり2時間もかけてお話しする訳にはいきませ ん。一言で答えるとなりますと、何通りもの答えがあります。 しかし、その出来事や思いを全部重ね合わせますと、『神の御心によって』となります。 ☆ これは、どなたの場合でも同じではないでしょうか。何故教会の礼拝に出ようと思ったのですか。何故洗礼 を受けようと思ったのですか。その問いに何通りにでも答えることが出来ますでしょう。一つの答えだけでは間に 合わないでしょう。 ☆ 2節を読みます。 … コロサイにいる聖なる者たち … 同じことをしばしば繰り返します。『聖なる者』とは、世間一般の人よりも一段高いところにいるという意味では ありません。神さまに結び付いているということであり、より簡単に言えば、神さまを信じているという意味です。 分かり易いように、これも繰り返しお話ししたのと同じ譬えで説明します。磁石のようなものです。ただの鉄釘 が、磁石にくっついていれば、その時は、鉄釘も磁石になります。磁石から離れれば、もう只の鉄釘に戻ります。 聖なる者は、神さまに結び付いているかに聖なる者です。聖者に変身したのではありません。このことは、パウ ロが自分を僕と呼び使徒と呼ぶのと、全く同じです。 ☆3節。 … わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、 わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。… 祈り、感謝していると、言います。 一体、何を感謝しているのか。 ☆感謝する理由を4節に上げています。 … あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、 すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。… コロサイの教会員の信仰と愛について聞いたことに、感謝しています。 誰に祈り、感謝しているのか、それは、神さまに対してです。 このことを言い換えれば、信仰と愛が実現している教会では、祈り、感謝が生まれるとなります。 また逆も言えるでしょう。祈り、感謝がある教会には、信仰と愛があります。 しかし、あくまでも、信仰と愛があって、祈り、感謝が生まれます。 祈り、感謝から、信仰と愛が生まれるのではありません。 ☆また言い換えて、それも厳しい言い方をすれば、祈り、感謝がないのは、信仰と愛がないからとなります。 私たちには、不平不満の種、理由ならば、いくらでもあります。いくらでも数えることが出来ます。それに比べ て、感謝はあまりありません。感謝すべき理由がないと思います。 しかし、感謝がないのは、感謝すべきことに出会っていないから、感謝すべき理由がないからではありません。 感謝がないのは、信仰と愛がないからです。 使徒パウロは、そう言っているのです。 ☆祈り、感謝が信仰と愛から生まれるならば、信仰と愛はどこから生まれて来るのでしょうか。 更に根拠が上げられています。5節。 … それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり… 『天に蓄えられている希望』、これが信仰と愛の根拠として上げられています。 つまり、一人ひとりの性格とか体験とかではありません。 一人ひとりがどのような目に遭ったかということではありません。ただ、『天に蓄えられている希望』、これが信仰 と愛の根拠です。 しかしそうは言っても、『天に蓄えられている希望』とは何のことなのか。 ☆5節。 … あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。… つまりは、福音です。 福音だけが、信仰と愛の根拠であり、そこから祈り、感謝が生まれます。 福音と無関係なところに、信仰と愛はないし、祈り、感謝もありません。 昔々の歌にこんなものがありました。 『ひどい目にあった』、中山千夏の作詞、歌だそうです。 ひどい目にあった 暗い母さんのお腹から 勇んでこの世に出て来たら そこも真暗闇なのさ ひどい目にあった 他人だらけの世の中で お前だけはと思っていたら お前も他人だった ☆もし、信仰と愛、ないしは、祈り、感謝がないならば、この世は酷いものです。今日この時だって、どこかで戦 争があり、どこかで子どもが餓え、そして死んでいます。この世は酷いものです。信仰と愛、祈り、感謝がないか らです。感謝の根拠がありません。 この世に、その根拠はありません。根拠は福音にしかありません。 足りないと感じるならば、見直すべきは、福音そのものでしょう。本当に福音に聞いているのかが、問われま す。 ☆6節。 … あなたがたにまで伝えられたこの福音は、 世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、 神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。… 福音は成長していると言われています。教会の中で、個々人の中で、『実を結んで成長しています』。 もしそうでないならば、成長していないならば、それは危機的なことです。 初めは、強くあっても、だんだんしぼんでゆくものは何なのか、それは、信仰ではないかも知れません。 ☆現実の例があります。 若い時の、一時の信仰から離れてしまう人が少なくありません。もし本当に、信仰があったとしても、成長せ ず、むしろ萎んでしまいます。何故でしょうか。信仰だって、福音の種だって、もし水も光も与えられず、そのまま 放って置かれるならば、干からび枯れてしまいます。当たり前でしょう。 光と水、それは一例で言えば、感謝と祈りです。 感謝と祈りを忘れたならば、 ひどい目にあった 暗い世間のお腹から 勇んで教会に出て来たら そこも真暗闇なのさ そのようになってしまうでしょう。 勿論、教会の方も、感謝と祈りを忘れてはなりません。感謝と祈りを忘れた教会が、新しい信仰の仲間に、 感謝と祈り、水と光を与えられる筈がありません。 ☆7節。 … あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、 愛するエパフラスから学びました。… 福音は具体的には人を通して、人から人へと伝えられます。 信仰と愛がここで結び付きます。愛なしに、福音を伝えることは出来ません。自分が救われているという感謝 なしに、福音を伝えることは出来ません。 ☆脱線かも知れませんがお話しします。 休暇をいただいて、横手、大曲と、何十年ぶりかで訪ねて来ました。横手、大曲、特に大曲の町の荒廃ぶり には、驚き、そして悲しみさえ覚えました。 シャッター街という言葉があります。大曲は、シャッター街どころではありません。廃屋の街でした。駅から教会 まで、懐かしい街並みを期待して、炎天下歩いたのですが、シャッター通りではなく、崩れかかったような店舗が 並び、虫食い歯のように、空き地だらけでした。がっかりどころではありません。訪ねなければ良かったとさえ思え ました。 しかし、大曲教会で旧知の田邊牧師に会いました。 大曲の町並みを見たから、「先生大変ですね」と挨拶しましたら、「とても楽しくやっていますよ」と言う返答で した。そして、一年あまりで、礼拝出席数が少し増えたこと、壊滅状態だった教会学校の礼拝を守り続け、10 名近くまで増えたことを喜んでいました。 私は、「この牧師なら、この後10年教会は守られる」と、安心しました。 ☆田邊牧師の前任地は、大阪の茨木教会です。教団年鑑で見ますと、茨木は礼拝出席99名、大曲は1 7名、比較にもなりません。切羽詰まった工事のために、茨木教会から700万円を借りたそうです。しかし、「と ても楽しくやっていますよ」と言う返答でした。牧師が「楽しくやっていますよ」と言うのですから、勢いを取り戻すこ とができるでしょう。 ☆7節後半を読みます。 … 彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり… 『仕える者』奴隷です。『キリストに忠実に仕える者』、それも、『あなたがたのために』と言われています。 エパフラスはコロサイ人で、パウロを通じて信仰に入ったと思われます。そしてコロサイで伝道し、教会を建てま した。しかし教会に紛争が起り、パウロの指導を受けるためにローマに行きました。 そのローマで、病気になってしまったのです。パウロはエパフラスを見舞い、コロサイの教会の問題を聞き、手紙 を書き、その手紙はテキコによってコロサイの教会に届けられました。これがコロサイ書です。 ☆コロサイの紛争とは、その内容が2章に記されています。9月に読みます。 初代教会を理想視する人がいます。初代教会の姿を取り戻さなくてはならないと言います。残念ながら、大 嘘です。聖書は、教会の中で起こった紛争を、事件を、少しも隠さずに描き出しています。理想からは、ほど遠 い姿です。聖書がそのように書いているのに、どうして初代教会は理想的だったと言うのでしょうか。私には分か りません。 理想的な須多田ではありません。しかし、そのような現実の中で、パウロは『神に感謝しています』と言ってい ます。何があったから、何がなかったからではありません。教会があって、人々が信仰生活を守っている、それが パウロの感謝の根拠です。 私たちも同じです。何があるから、何がないからではありません。教会があり、礼拝が守られ、そこには、自分 の他にも信仰者がいる、それが一番の感謝の根拠です。 ひどい目にあった 他人だらけの世の中で お前だけはと思っていたら お前も他人だった この歌詞とは真逆です。 他人だらけの世の中から、教会に入ったら、そこには、信仰の仲間がいた、信仰の家族がいた。それがまた私 たちの信仰の光と水にもなります。 |