▼まず、第1テサロニケ書2章7〜8節を引用します。ゆっくり読みますから、開いていただかなくてもかまいませ ん。 『7:わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。 しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。 ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 8:わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、 神の福音を伝えるばかりでなく、 自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。 あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。』 パウロ、シルワノ、テモテの三人は、時に母のように、時に父のように、テサロニケ教会を慈しみ、育んだと述べ られています。 ▼しかし、意地の悪い見方かも知れませんが、ちょっと角度を変えて読めば、テサロニケ教会は、成長過程の 教会です。未だ赤ちゃんの教会です。いかにもひ弱、いかにも危なっかしいとも言えます。しかも、当時の教会 は、信仰的な意味での幼子が、ゆりかごの中で安心してミルクを飲んでいられるような状況ではありません。 第2テサロニケの1章4〜5節。 … それで、わたしたち自身、あなたがたが今、 受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、 神の諸教会の間で誇りに思っています。… 迫害が起こっています。彼らは順風満帆なのではなくて、むしろ、嵐の中にいます。 テサロニケ書を読みますと、パウロが教会員を絶賛しているように聞こえます。喜び、感謝という言葉が頻繁に 用いられます。『誇りに思っている』という表現さえあります。 しかし、何度も言いますが、テサロニケ教会員は、むしろ、逆境にあります。 迫害が迫っているからこそ、迫害に耐えるには、未だ信仰が幼いからこそ、パウロは、言います。迫害は、『神 の国のために苦しみを受けているので』あり、そのことによってこそ、『あなたがた』が『神の国にふさわしい者と』な るのだと、励ましています。 ▼迫害の極まりが、Uテサロニケ書2章の3〜4節に描かれています。 … 神に対する反逆が起こり、不法の者、 つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。 4:この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢に ふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。 … これは、ローマ皇帝が、神を自称し、礼拝を強制したことを、言っているのでしょうか。 危機は外からやって来るだけではありません。今読んだ箇所の直前、2節。 … 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、 主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、 すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。 3:だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。… パウロの言葉、パウロの手紙を利用して、解釈を歪め、『主の日は既に来てしまった』と説く者が現れていると 言います。これは、明らかに、教会内部に登場した異端です。 ▼3章2節、今日の箇所の直前をご覧下さい。 … また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、 と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。… このように、外にも内にも、大きな試練を与えられていたのが、テサロニケ教会です。 大変に長くなってしまいましたが、これらのことを前提にして、今日の箇所を読みたいと思います。今度は順に 読みます。あまり細かいことは申しません。6節。 … 怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいる すべての兄弟を避けなさい。』 怠惰という言葉について、特にギリシャ語の意味はどうのと、解説する必要はないと思います。怠惰は怠惰で す。問題は、この怠惰ということと、『わたしたちから受けた教えに従わない』こととが結び付いている点です。 ▼先程読みましたような、終末は既に来ているという異端思想と関係があると思います。単純に働かない、稼 ぎが悪いと言っているのではありません。 「この世はもうじきお仕舞いだ。もう何をしても意味がない。何もしなくても何も変わらない。」そのような無力 感、虚無が、教会に入り込みました。 それは、当然、働かない、そのくせ、飲み食いは大いにするというようなことになって表れます。刹那的になりま す。享楽的になります。 ▼これに対抗するのに、或いは自分の心の中に忍び入ってきた無力感、虚無と戦うためには、パウロは、同じよ うなことを繰り返し言います。2章2節。 『動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい』 2章15節。 『しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。』 3章13節。 『あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい』 ▼6節では、もう一つの点にも注目しなければなりません。 『教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい』 3章14節では、 『わたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、 かかわりを持たないようにしなさい』 不信仰や異端と関わりを持ってはなりません。退けなければなりません。 ▼7〜9節が、単純に、労働しなくてはならないとか、まして、伝道者も職業を持って、自分の口は自分で養う べきだとかと言っているのではないことは、もう説明するまでもないと思います。 食べるためにも、教会のためにも、汗を流して働くことをしないで、それなのに、偉そうなことを言っているような 者を退けているのです。 彼らは、歪んだ終末思想に捕らえられているのに過ぎません。この世の終わりに脅えています。しかし、正に歪 んだ信仰、歪んだ特権意識で、自分が、最も信仰に篤いと思っています。地道な信仰生活をせず、義務を果 たさず、偉そうなことを口にします。 そのような者を退けなさいと言っています。 ▼10節は、一人歩きするくらい有名な言葉ですから、特に厳密に読みたいと思います。 … 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、 「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。… 『働かざる者食うべからず』という言い回しで、知られています。 『働かざる者』ではなくて、『働きたくない者』だということは、厳密にしなくてはならないでしょう。働きたくても仕 事がなくて働くことが出来ないこともありますから、考えさせられます。しかし、ここでは、そういうことを言っているの ではありません。 ▼11節の、『余計なことをしている』が、気になります。具体的には何をしているのでしょうか。「働きたくない 者」とは、何もしない人ではありません。怠惰な人でさえ、何もしない人ではありません。怠惰とは、実は『余計 なことをしている』ことです。 偉そうなことは言えません。私などもそんな傾向が強くありまして、例えば勉強しなくてはならないとなると、もっ と他にやることがあるような気がしてきます。机に向かうことが必要なのに、そうなると、机の上の掃除をしたくなり ます。 今すべきことをしないで、したくなくなって、他のことに気持ちを奪われる、それが怠惰です。それが怠け者の意 味です。怠惰とは、何にもしないことではありません。 ▼12節。 … そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、 勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。』… 『落ち着いて仕事をしなさい。』 これが肝心なことです。 バタバタと慌てふためき、駆けずり回ることが、働くことではありません。働くとは、本当になすべきことを、一所 懸命に行うことでしょう。 そして、このことは、信仰生活にこそ、全く当てはまります。 テサロニケ書を通じて、祈りなさいと言う言葉が、繰り返されます。『祈りなさい』と、『落ち着いて仕事をしなさ い。』とは、全く重なります。落ち着きなく走り回るようなことをしないで、『落ち着いて仕事をしな』ければなりま せん。それはまた、落ち着いて祈り続けるということでもあります。静かに祈り続けることです。 目新しいことに飛びつくとか、まして、奇矯な振る舞いをすることではありません。 祈ることと、働くこととは、矛盾しないばかりか、大いに重なることなのです。 ▼13節。 … そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。… 最初に申しましたように、この時代は、迫害が現実になる時代です。信仰生活が保障されない時代です。そ ういう時代だからこそ、黙々と、『善いことをし』続けるのです。 そして、現代の私たちも、迫害こそありませんが、様々な困難、様々な誘惑の中に置かれています。だからこ そ、礼拝を守り続け、祈り続けるのです。 『たゆまず善いことをしなさい。』これ以外に信仰を全うする道はありません。 もっとも大事なことは、落ち着いて祈ること、落ち着いて礼拝を守り続けることでしょう。無い物ねだりではあり ません。 信仰的無力感に陥ってはなりません。何をしても、何をしなくても、結果は同じだと言う無力感は、最大の誘 惑です。悪魔の誘いです。ちょっとだけ、高校生・受験生向けに話します。最大の誘惑は、勉強してもどうせ受 からない、ではありません。もう少し手を抜いても、何とか合格できるだろうです。これが最大の誘惑だそうです。 ▼12節をもう一度読みます。 … そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、 勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。… この言葉から、直接的に連想させられました。 5000人のパンの奇跡です。ヨハネ福音書6章に基づいて少しだけお話しします。 … 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。 けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」… アンデレは、少年の申し出について、『こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう』と判断しました。 その通りです。殆どの大人が、そのように判断するでしょう。 弁当を持っていた人もいたかも知れません。弁当を持っていたけれども、充分な量ではないし、後で、自分だ けで食べようと思って隠していた人もあったかも知れません。 必ずしも自分だけ食べようと考えたのではなくとも、僅かばかりのものを出したならば、役に立たないばかりか、 かえって混乱を招くと判断したのかも知れません。 これが、大人の判断です。 ▼小さな子供が自分のパンと魚を差し出したのを見て、すっかり恥じ、籠が回って来た時に、籠から取るどころ か、逆に自分の持っているものを入れた、ために、パンは増えた、こういうことはあるかも知れません。 大人は、なまじ判断力というものがあるために、かえって何も出来なくなります。その通りです。世の中には、算 盤を弾いたら出来なくなってしまうことがあります。計算とか見通しではなくて、兎に角に、今持っているものを捧 げる、これが大事なことです。 大人が『何の役にも立たないでしょう』と判断したパンと魚で、5000人の人が満足しました。これは聖餐式に 通じるし、礼拝その者に通じると考えます。 ▼アンデレという人に注目したいと思います。彼は、『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいま す。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』と言いました。前半部は、事実をそのま ま述べており、後半は、自分の判断・意見を言っています。 そのように判断しましたが、イエスさまに取り次ぎます。無意味と思えることを、しかし愚直に取り次ぎました。ま た観点を変えれば、自分の考え、判断より、子どもの意思を尊重し、イエスさま自身の判断に委ねました。自 分で処理してしまわなかったのです。 自分の見解とは違うけれども、子どもの思いがイエスさまに届くように配慮したのです。 私たちも、責任的な考え、方策を練り、しかし、その上で、全てをイエスさまに委ねなくてはなりません。 自分だけで考えていると、無力感に捉まります。虚無感に陥ります。 幼子であることを自覚し、むしろ、幼子の素直さで、祈ることが大事でしょう。 |