◇ 3節から読みます。 … 異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、 信心に基づく教えにも従わない者がいれば、… こういう人が、実際にいたのでしょう。このような人がいなかったならば、ここに記す必要はありません。こういう 人が本当にいたし、その人の存在が、教会を悩ませ、或いは惑わし、また、善良な信者を躓かせていたのでし ょう。 一つ一つ見てまいりたいと思います。 教会の中で、『異なる教えを説』く人がいました。教会の外なら仕方がありません。しかし、教会の中で、『異 なる教えを説』く人がいたのです。つまり、他の教会員に『異なる教えを説』いていたのです。 ◇ それでは『異なる教え』とは何か、具体的には記されていませんが、想像は付きます。一コリント書等には、 天使崇拝やモーセ崇拝、星や月を拝む星晨信仰について述べられています。勿論、太陽信仰も、ギリシャの 神々を拝む信仰も、教会の中に入り込みました。 テモテ書でも、1章4節で既に触れられています。 … 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。 このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、 むしろ無意味な詮索を引き起こします。… その教え・思想が間違っているかどうかではありません。教会の教えではないものを、教会に持ち込むことが咎 められています。 私にも経験があります。礼拝が終わったら、私の知らないうちに、他の教派の伝道チラシが教会の受付に置 かれていました。しかも、ちょっと問題がある教派です。 ◇『主イエス・キリストの健全な言葉にも』逆らう人、或いはこれを軽視する人がいたようです。誰とは言いませ んし言わない方がよろしいでしょう。しかし、現代の教会にも、『主イエス・キリストの健全な言葉にも』逆らう人 がいます。 そもそもイエスさまの言葉を、絶対とは考えないで、つまり、神の言葉とは受け止めないで、イエスさまの言葉 よりも、現代の思想家や政治家の言葉を、より大事にする人がいます。それを個人的に信奉するのは良いとし ても、教会に持ち込むのは、間違いでしょう。 この話を具体的にすると、多分、説教ではなくなり、政治談義になります。だから止めておきます。そもそも、 そのような政治思想や何かを、教会の中に持ち込み語ることこそが、1章4節の『むしろ無意味な詮索を引き 起こします。』の意味でしょう。その思想が正しいか、間違っているかではありません。 ◇『信心に基づく教えにも従わない者』、こういう人もいたようです。あまり具体的に記されてはいませんが、分 かるような気もします。 『信心に基づく教え』とは、簡単に言えば、道徳的、常識的なことではないでしょうか。あまり難しい意味では なくて、信仰がある人ならば、考えもしないような、非道徳的なこと、非常識なこと、これが教会に持ち込まれて はなりません。 ◇ より具体的ことは、4節に記されています。 … その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。… これだって具体的とは言いかねますが、充分に察しは付きます。 『高慢で、何も分からず』、『何も分から』ないから、『高慢』になります。なれます。知識が、最低限でもあれ ば、よくよく考えれば、『高慢』にはなれません。何事についてもです。まして信仰の事柄で、『何も分からず』 『高慢』になるなら、これは深刻です。 ところが、信仰の事柄だからこそ、『何も分から』ないのに、知った気になり、知ったかぶりをし『高慢』になる人 がいます。 人のことは言えません。牧師こそ、この罠に陥りがちです。常に誘惑に曝されています。説教原稿を書いてい ても、この誘惑があります。知った気になり、知ったかぶりをする誘惑です。それ以上に、知らないことを知らない と言えない罠です。 私も、一応神学校に入り聖書の勉強を始めてから、かれこれ60年近くなります。しかし、知らないこと、分か らないことだらけです。否、だんだん分からないことが増えてしまうばかりです。聖書を読み始めたばかりの頃が、 一番分かっていた、正確に言えば分かった気になっていたと思います。 ◇ 知った気になり、知ったかぶりをするから、4〜5節。 … そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。… この通りでしょう。知らないことを認め、知ったかぶりをしなければ、そこには『ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え 間ない言い争い』は起こりません。 ◇ 5節後半。 … これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こる ものです。… 相当に酷い言いようです。しかし、この通りなのでしょう。 『信心を利得の道と考える者』は、私たちの教会の中にはいないし、入り込む心配もないとは考えます。しか し、教会の周囲にはいます。所謂キリスト教系の新興宗教には、このように批判されても仕方がない、弁明で きない現実があります。 逆に言えば、教会を『利得の道』に繋げてはなりません。 悲しいかな、キリスト教の歴史にもそのような現実がありました。 同じようなことが、キリスト教の歴史の本にも、日本史にも描かれています。乱暴なまでに約めて言います。 為政者が税金・年貢を上げます。農民はこれが払えず、教会やお寺から借金します。この借用書そのものが、 売買されます。結果、農民は土地を失います。 その結果、農民一揆が起きます。このことは、ちゃんとした日本史の本に記されています。教会の歴史でも同 様のことが起こりました。そうして、教会や寺社は肥え太ったのです。教会や寺社のトップは、大抵、王族や大 名の姻戚です。これが、始めから計画的に行われました。税金・年貢を上げること、農民に田畑を抵当に取っ てお金を貸すこと、全てが図面に書かれたこと、計画通りだったのです。それでは、農民一揆だって起こります。 ◇ 教会の中にこんな腐敗を持ち込んではなりません。そも、信者がご利益を求めるから、このような腐った収 穫をえることになります。 6節。 … もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。… 先日の説教でも申しました。本当の教会は御利益宗教ではありません。しかし、御利益はあります。本当の 御利益は、神の国に入れられることです。 これ以外の御利益を求めることが、富を競うことが、『異なる教えを説』くことであり、『異なる教え』に帰依す ることです。 『信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。』と述べられています。 この場合『満ち足りる』とは、様々な知識を獲得することではありません。宝物を自分の手に入れることではあ りません。今持っている物で満足する意味でもありません。 他に何も持ってはいないけれども、信仰を持っているという意味であり、神の国へ向かう道を、迷わずに歩い ているという意味です。 ◇ 7節。 … なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、 世を去るときは何も持って行くことができないからです。… 前半には、少し疑問符が付きます。それは僻みかも知れません。不信仰な見方かも知れませんが、文字通 り、『何も持たずに世に生まれ』て来る人がいます。土地も家も、その他の環境が全く整わないままに生まれ出 る人がいます。一方で、一生働かずとも暮らせる財産を持って生まれてくる人もあります。 しかし、どちらの場合でも、『世を去るときは何も持って行くことができない』ことは、絶対に間違いありません。 どんなに沢山のものを、棺に入れようとも、全部、灰になるだけです。ピラミッドや大墳墓で、盗掘に遭わない墓 はありません。 ◇ 逆に言えば、天国に持って行けるものはないし、何かが足りなくて、天国への旅で遭難することもありませ ん。むしろ、沢山持ち物があった方が、差し障りになるでしょう。 テレビで、こんな画像を見たことがあります。ワンちゃんが、口に大きな棒状のものを咥えています。これがつか えるために、ワンちゃんは、入り口を通れません。何度も何度も挑戦しますが駄目です。 こんな噺もあります。猿を捕まえる罠があるそうです。壺の底に、猿が大好きな食べ物を入れて置きます。猿 は手を突っ込み、食べ物を握ります。しかし、そうすると、拳がつっかえて、手を抜き取ることが出来ません。これ が、猿獲りの罠です。 しかし、例えば日光で暴れる猿を、この罠で捕まえたという話は聞きません。猿は、ちゃんと手を離します。一 度握った物を手放せず、罠にはまってしまうのは、人間だけです。 ◇ 8節。 … 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。… これは清貧の教えではありません。天国に入るのに、何が必要欠くべからざるものかという話です。逆に、何か 天国の門を潜るときにつっかえてしまうものを、持ってはいないかという話です。 ◇ 9節。 … 金持ちになろうとする者は、 誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。… これは、残念ながら、私にはちょっと理解が及ばない事柄です。 しかし、理解出来ないなりに、思います。私などからすれば、充分なほど、充分過ぎる程に財産を持っている 人が、どうして、更にお金儲けに躍起になるのでしょうか。 自分だけではなく、子ども、孫も一生不自由しないだけの財産を持つ人が、何故、それ以上に稼ごうとする のか、ちょっと理解出来ません。もうゲームの世界なのでしょうか。金儲け中毒なのでしょうか。 ◇ あまりどころか、ほぼほぼ、説教で引用されることがない漫画を紹介します。小林よしのりの『おぼっちゃまく ん』に、こんな場面があります。 とてつもなく大金持ちの『おぼっちゃま家』に泥棒が入ります。『おぼっちゃま家』の私設警察に捕まり、金庫刑 に処せられます。刑務所の禁固ではありません。金蔵の金庫です。お金がうなっている金庫の中に閉じ込めら れ、お金に埋もれているのに、一円も使えないし、お金を持っている意味がありません。これが、金庫刑です。 馬鹿馬鹿しいような話ですが、実際、金庫刑になっている人がいるのかも知れません。 諄いのですが、こういう話は諄いほどで丁度でしょう。トルストイの『人にはどれだけの土地がいるか』、これは 結論だけ話します。日の出から日の入りまでに、自分で歩いて囲み込んだ土地を買えるという約束の下に、一 人のお百姓が、必死に歩きまた駆けます。日の入りと同時に、ゴールに戻りますが、そこで倒れ、死んでしまい ます。彼は、自分が命を賭して手に入れた土地に葬られます。棺桶一つ分の土地です。正に、『人にはどれだ けの土地がいるか』です。棺桶一つ分の土地のために働き、命を落とす人は実際にいます。 ◇ 9節後半。 … その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。… 金庫刑になります。金庫がつっかえて、天国の門を潜ることは出来ません。壺に手を入れたまま抜くことが出 来ない猿と同じです。 土地こそ、天国に持ち込むことは出来ません。地上の土地財産に固執するならば、天国の土地を失うだけ です。 イスラエルの人も、パレスチナの人も同様です。神さまから約束された土地は、天国にあります。地上の土地 に固執し、人の土地を奪い、また人を殺すなどの罪を犯すならば、天国で住む場所を失います。 アブラハムは、神さまから土地を約束されました。しかし、アブラハムが生前手に入れたのは、妻を葬る墓地だ けでした。創世記23章にちゃんと記されています。イスラエルの人も、パレスチナの人も同様です。神さまから約 束された土地は、天国にあります。 ◇ 10節。 … 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、 さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。… そんな人がいたのかも知れません。現代にこそ、無数にいます。 マタイ福音書6章24節。 … 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、 一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」… 『神と富と』両方欲しいのが人情です。この二つが矛盾することは、もし、ないとしても、しかし、二つの内、神 を選ぶことを第一としない人は、天国を失うかも知れません。 |