日本基督教団 玉川平安教会

■2025年8月3日 説教映像


■説教題 「何も持たずに生まれ

■聖   書 テモテへの手紙一 6章2〜10節 


◇ 3節から読みます。

 … 異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、

   信心に基づく教えにも従わない者がいれば、…

 こういう人が、実際にいたのでしょう。このような人がいなかったならば、ここに記す必要はありません。こういう
人が本当にいたし、その人の存在が、教会を悩ませ、或いは惑わし、また、善良な信者を躓かせていたのでし
ょう。

 一つ一つ見てまいりたいと思います。

 教会の中で、『異なる教えを説』く人がいました。教会の外なら仕方がありません。しかし、教会の中で、『異
なる教えを説』く人がいたのです。つまり、他の教会員に『異なる教えを説』いていたのです。


◇ それでは『異なる教え』とは何か、具体的には記されていませんが、想像は付きます。一コリント書等には、
天使崇拝やモーセ崇拝、星や月を拝む星晨信仰について述べられています。勿論、太陽信仰も、ギリシャの
神々を拝む信仰も、教会の中に入り込みました。

 テモテ書でも、1章4節で既に触れられています。

 … 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。

   このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、

   むしろ無意味な詮索を引き起こします。…

 その教え・思想が間違っているかどうかではありません。教会の教えではないものを、教会に持ち込むことが咎
められています。

 私にも経験があります。礼拝が終わったら、私の知らないうちに、他の教派の伝道チラシが教会の受付に置
かれていました。しかも、ちょっと問題がある教派です。


◇『主イエス・キリストの健全な言葉にも』逆らう人、或いはこれを軽視する人がいたようです。誰とは言いませ
んし言わない方がよろしいでしょう。しかし、現代の教会にも、『主イエス・キリストの健全な言葉にも』逆らう人
がいます。

 そもそもイエスさまの言葉を、絶対とは考えないで、つまり、神の言葉とは受け止めないで、イエスさまの言葉
よりも、現代の思想家や政治家の言葉を、より大事にする人がいます。それを個人的に信奉するのは良いとし
ても、教会に持ち込むのは、間違いでしょう。

 この話を具体的にすると、多分、説教ではなくなり、政治談義になります。だから止めておきます。そもそも、
そのような政治思想や何かを、教会の中に持ち込み語ることこそが、1章4節の『むしろ無意味な詮索を引き
起こします。』の意味でしょう。その思想が正しいか、間違っているかではありません。


◇『信心に基づく教えにも従わない者』、こういう人もいたようです。あまり具体的に記されてはいませんが、分
かるような気もします。

 『信心に基づく教え』とは、簡単に言えば、道徳的、常識的なことではないでしょうか。あまり難しい意味では
なくて、信仰がある人ならば、考えもしないような、非道徳的なこと、非常識なこと、これが教会に持ち込まれて
はなりません。


◇ より具体的ことは、4節に記されています。

 … その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。…

 これだって具体的とは言いかねますが、充分に察しは付きます。

 『高慢で、何も分からず』、『何も分から』ないから、『高慢』になります。なれます。知識が、最低限でもあれ
ば、よくよく考えれば、『高慢』にはなれません。何事についてもです。まして信仰の事柄で、『何も分からず』
『高慢』になるなら、これは深刻です。

 ところが、信仰の事柄だからこそ、『何も分から』ないのに、知った気になり、知ったかぶりをし『高慢』になる人
がいます。

 人のことは言えません。牧師こそ、この罠に陥りがちです。常に誘惑に曝されています。説教原稿を書いてい
ても、この誘惑があります。知った気になり、知ったかぶりをする誘惑です。それ以上に、知らないことを知らない
と言えない罠です。

 私も、一応神学校に入り聖書の勉強を始めてから、かれこれ60年近くなります。しかし、知らないこと、分か
らないことだらけです。否、だんだん分からないことが増えてしまうばかりです。聖書を読み始めたばかりの頃が、
一番分かっていた、正確に言えば分かった気になっていたと思います。


◇ 知った気になり、知ったかぶりをするから、4〜5節。

 … そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。…

 この通りでしょう。知らないことを認め、知ったかぶりをしなければ、そこには『ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え
間ない言い争い』は起こりません。

 

◇ 5節後半。

 … これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こる  ものです。…

 相当に酷い言いようです。しかし、この通りなのでしょう。

 『信心を利得の道と考える者』は、私たちの教会の中にはいないし、入り込む心配もないとは考えます。しか
し、教会の周囲にはいます。所謂キリスト教系の新興宗教には、このように批判されても仕方がない、弁明で
きない現実があります。

 逆に言えば、教会を『利得の道』に繋げてはなりません。

 悲しいかな、キリスト教の歴史にもそのような現実がありました。

 同じようなことが、キリスト教の歴史の本にも、日本史にも描かれています。乱暴なまでに約めて言います。
為政者が税金・年貢を上げます。農民はこれが払えず、教会やお寺から借金します。この借用書そのものが、
売買されます。結果、農民は土地を失います。

 その結果、農民一揆が起きます。このことは、ちゃんとした日本史の本に記されています。教会の歴史でも同
様のことが起こりました。そうして、教会や寺社は肥え太ったのです。教会や寺社のトップは、大抵、王族や大
名の姻戚です。これが、始めから計画的に行われました。税金・年貢を上げること、農民に田畑を抵当に取っ
てお金を貸すこと、全てが図面に書かれたこと、計画通りだったのです。それでは、農民一揆だって起こります。


◇ 教会の中にこんな腐敗を持ち込んではなりません。そも、信者がご利益を求めるから、このような腐った収
穫をえることになります。

 6節。

 … もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。…

 先日の説教でも申しました。本当の教会は御利益宗教ではありません。しかし、御利益はあります。本当の
御利益は、神の国に入れられることです。

 これ以外の御利益を求めることが、富を競うことが、『異なる教えを説』くことであり、『異なる教え』に帰依す
ることです。

 『信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。』と述べられています。

 この場合『満ち足りる』とは、様々な知識を獲得することではありません。宝物を自分の手に入れることではあ
りません。今持っている物で満足する意味でもありません。

 他に何も持ってはいないけれども、信仰を持っているという意味であり、神の国へ向かう道を、迷わずに歩い
ているという意味です。


◇ 7節。

 … なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、

   世を去るときは何も持って行くことができないからです。…

 前半には、少し疑問符が付きます。それは僻みかも知れません。不信仰な見方かも知れませんが、文字通
り、『何も持たずに世に生まれ』て来る人がいます。土地も家も、その他の環境が全く整わないままに生まれ出
る人がいます。一方で、一生働かずとも暮らせる財産を持って生まれてくる人もあります。

 しかし、どちらの場合でも、『世を去るときは何も持って行くことができない』ことは、絶対に間違いありません。
どんなに沢山のものを、棺に入れようとも、全部、灰になるだけです。ピラミッドや大墳墓で、盗掘に遭わない墓
はありません。

 

◇ 逆に言えば、天国に持って行けるものはないし、何かが足りなくて、天国への旅で遭難することもありませ
ん。むしろ、沢山持ち物があった方が、差し障りになるでしょう。

 テレビで、こんな画像を見たことがあります。ワンちゃんが、口に大きな棒状のものを咥えています。これがつか
えるために、ワンちゃんは、入り口を通れません。何度も何度も挑戦しますが駄目です。

 こんな噺もあります。猿を捕まえる罠があるそうです。壺の底に、猿が大好きな食べ物を入れて置きます。猿
は手を突っ込み、食べ物を握ります。しかし、そうすると、拳がつっかえて、手を抜き取ることが出来ません。これ
が、猿獲りの罠です。

 しかし、例えば日光で暴れる猿を、この罠で捕まえたという話は聞きません。猿は、ちゃんと手を離します。一
度握った物を手放せず、罠にはまってしまうのは、人間だけです。


◇ 8節。

 … 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。…

 これは清貧の教えではありません。天国に入るのに、何が必要欠くべからざるものかという話です。逆に、何か
天国の門を潜るときにつっかえてしまうものを、持ってはいないかという話です。


◇ 9節。

 … 金持ちになろうとする者は、

  誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。…

 これは、残念ながら、私にはちょっと理解が及ばない事柄です。

 しかし、理解出来ないなりに、思います。私などからすれば、充分なほど、充分過ぎる程に財産を持っている
人が、どうして、更にお金儲けに躍起になるのでしょうか。

 自分だけではなく、子ども、孫も一生不自由しないだけの財産を持つ人が、何故、それ以上に稼ごうとする
のか、ちょっと理解出来ません。もうゲームの世界なのでしょうか。金儲け中毒なのでしょうか。


◇ あまりどころか、ほぼほぼ、説教で引用されることがない漫画を紹介します。小林よしのりの『おぼっちゃまく
ん』に、こんな場面があります。

 とてつもなく大金持ちの『おぼっちゃま家』に泥棒が入ります。『おぼっちゃま家』の私設警察に捕まり、金庫刑
に処せられます。刑務所の禁固ではありません。金蔵の金庫です。お金がうなっている金庫の中に閉じ込めら
れ、お金に埋もれているのに、一円も使えないし、お金を持っている意味がありません。これが、金庫刑です。

 馬鹿馬鹿しいような話ですが、実際、金庫刑になっている人がいるのかも知れません。

 諄いのですが、こういう話は諄いほどで丁度でしょう。トルストイの『人にはどれだけの土地がいるか』、これは
結論だけ話します。日の出から日の入りまでに、自分で歩いて囲み込んだ土地を買えるという約束の下に、一
人のお百姓が、必死に歩きまた駆けます。日の入りと同時に、ゴールに戻りますが、そこで倒れ、死んでしまい
ます。彼は、自分が命を賭して手に入れた土地に葬られます。棺桶一つ分の土地です。正に、『人にはどれだ
けの土地がいるか』です。棺桶一つ分の土地のために働き、命を落とす人は実際にいます。


◇ 9節後半。

 … その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。…

 金庫刑になります。金庫がつっかえて、天国の門を潜ることは出来ません。壺に手を入れたまま抜くことが出
来ない猿と同じです。

 土地こそ、天国に持ち込むことは出来ません。地上の土地財産に固執するならば、天国の土地を失うだけ
です。

 イスラエルの人も、パレスチナの人も同様です。神さまから約束された土地は、天国にあります。地上の土地
に固執し、人の土地を奪い、また人を殺すなどの罪を犯すならば、天国で住む場所を失います。

 アブラハムは、神さまから土地を約束されました。しかし、アブラハムが生前手に入れたのは、妻を葬る墓地だ
けでした。創世記23章にちゃんと記されています。イスラエルの人も、パレスチナの人も同様です。神さまから約
束された土地は、天国にあります。

 

◇ 10節。

 … 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、

   さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。…

 そんな人がいたのかも知れません。現代にこそ、無数にいます。

 マタイ福音書6章24節。

 … 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、

   一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。

   あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」…

 『神と富と』両方欲しいのが人情です。この二つが矛盾することは、もし、ないとしても、しかし、二つの内、神
を選ぶことを第一としない人は、天国を失うかも知れません。