◇ 12節前半から読みます。 … あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。… この表現から分かることは、テモテが年若かったこと、少なくともその前提で述べられていることです。 これは、使徒言行録等、他の聖書個所からも頷けます。若いと言っても、何歳かは記されていません。これ は、テモテに限らず、パウロについても、12弟子の全員、肝心のイエスさまの年齢さえ分かりません。 勿論、これらの人々の生没年も分かりません。いろんな伝説があり、その誕生や死を記念するお祭りさえある ようですが、聖書的根拠はありません。当時の歴史的な文献からも、はっきりしたことは分かりません。 分からない、記されていない、調べるにも文献が存在しない。不思議でさえありますが、全く記されていませ ん。多分、知らなくとも良いからでしょう。 私は、原則、聖書に記されていないならば、それを知る必要はないと考えています。 ◇ エーリッヒ・ケストナーの『人生処方詩集』の中に、『人類の発達』という詩があります。長いので、最初の部 分と最後の部分だけ引用します。 むかし やつらは毛むくじゃらで 凶悪なつら構えで 木の上にしゃがんでいた そのうち彼らは原始林からおびき出され 地上をアスフアルト化して 三十階まで積み上げた また彼らは 文体の研究によって シーザーが扁平足であったことを 発見する かくて 彼らは 頭脳と言葉によって 人類を進歩させた しかし いったん目を転じて 明るみでながめると けっきょく 未だに むかしの猿だ ◇ 『人生処方詩集』、現代は『ケストナー博士の家庭的叙情薬局』です。処方箋が付いています。この詩 は、『知ったか振りをするやつがいたら』で、処方されています。 イエスさまや弟子たちの年齢を知る必要はありません。知ったところで、大きな意味はありません。そんな知識 は、『知ったか振りをするやつ』を喜ばせるだけでしょう。 これは、案外に重要なことです。キリスト教会の内外で、まことしやかに語られ続けて来た伝承、教えの内に は、何ら聖書的根拠がないものが少なくありません。 私たちが知りたくとも、切実に知りたくても、何も記されていないことが沢山あります。天国への道標はありませ ん。天国の見取り図もありません。天国での食事のメニューもありません。逆に聖書的根拠のない教えは、異 端の始まりになります。 ◇ 12節から知ることが出来るのはもう一つ、『だれからも軽んじられてはなりません。』とあるくらいですから、テ モテは、『軽んじられていた』か、その危惧があったのでしょう。『年が若いという』理由だけでです。 軽んじる人は、記されてはいませんが、これは確実に分かります。『年が若』くはない人です。年寄りからで す。 私も後期高齢者になりましたから、逆に遠慮なく言えます。人を若いという理由だけで退けるのは間違ってま す。そんな人は、年が上だ、或いは、経験が豊富だと言う以外に、自分を持っていない人です。 ◇ しかし、『年が若いという』理由だけで『軽んじられ』る世の現実があります。これに対処する術を、パウロは 説いています。 先ずは12節の後半部に記されていることです。これは後で読みます。そして13節。 … わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。… これが一番大事なことです。『聖書の朗読と勧めと教え』、今日で言えば、礼拝であり、説教です。『年が若 い』牧師こそ、これに集中すべきでしょう。焦って何かを試みるよりも、『聖書の朗読と勧めと教え』に専念するく らいの気持ちでよろしいでしょう。 若いからこそ出来ること、若くなければ出来ないこともあります。しかし、パウロに依れば、若かろうが年寄りだ ろうが、牧師として肝心要のことは、『聖書の朗読と勧めと教え』だそうです。これがパウロの教えです。 ◇ 14節。 … あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、 長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。… 『恵みの賜物』、一つ覚えのように言いますが、恵という字が出て来たら、これを使命と置き換えて読んだ方 が、通りが良いと、橋三郎は言います。全く共感します。 テモテには、『恵みの賜物』が与えられています。具体的には、按手によって、牧師として任命されたということ です。按手、手を置いたのは誰であっても、任命したのは、神さまです。これを、『年が若いという』理由で軽ん じる人は、神さまの業を軽んじる人であり、神さまの御心を信じない人です。そのように言われても反論出来な いでしょう。 長老の按手で、任命されたのなら、この人には、『恵みの賜物』が与えられています。 ◇ 15節前半。 … これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。… 『年が若いという』理由で軽んじられたら、何か他のことをしなくてはならない、それこそ、若いからこそ出来るこ と、若くなければ出来ないことで頑張ろうと思うでしょう。そんな考えは無用だと、パウロは言います。 『これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。』 他のことに逃げてはなりません。年寄りだろうが、若かろうが、なすべきことは一つです。『聖書の朗読と勧めと 教えに専念しなさい。』、これしかありません。 ◇ 15節後半。 … そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。… この通りです。若いことは、何も持っていないようで、可能性という宝物を持っています。可能性があるのです から、毎日、一つ一つの務めに、まじめに向かい合っていれば、必ず、経験も知識も積まれます。焦る必要は 全くありません。 この点、私も後期高齢者になりましたから、誰に遠慮なく言えます。少しずつ、かつて出来たことが出来なくな り、自信を持っていたことで躓き、蓄えた知識も毎日毎日少しずつ失われて行きます。こんなふうになったら、尚 更、『聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。』、これに聞くしかありません。 ◇ パウロが弟子テモテに教えるのがテモテ書ですから、牧会者、伝道者、説教者はかくあるべきというふうに読 みますが、それは教えの半分でしょう。信徒の場合は、『聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。』この『教 え』を学びに換えればよろしいでしょう。若い信者も年寄りの信者も同じことです。 『あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。』この言葉も、全く当て嵌まります。若い人にも、年を経 た人にも、同じことです。若者も老人も、人は進歩します。 ◇ 最近の10年、物忘れが酷くなっています。具体的なことは、お話しする必要もありません。どなたも経験す ることだからです。未だ経験していない人は幸いですが、遠からずそのような日が来ます。自分を恥じることさえ あります。 しかし、良いこともあります。物忘れそのものにも、良いことがあります。 ここ数年は、新しい本を読むことは、ほぼ諦めました。頭に入ってこないし、覚えられません。何より、無理して 読んだ結果は、時間がもったいなかったと思うだけです。 それならばと、昔夢中になって読んだ本を読み返しています。実に新鮮な気持ちで読めます。もともと名著で すし、内容が良いに決まっています。昔、はまったのだから、今読んでも、面白いに決まっています。大抵、昔 と、好みは共通していますから。 そして、何より素晴らしいのは、読んでも、過去の記憶がありません。 例えば、推理小説でも、誰が殺されるか、誰が犯人か覚えていません。ですから、新鮮で、それでいて、どこ か少しは記憶が残っているのか、読んでいて、推理が冴えてきます。それで、謎解きが分かっても、最後まで分 からなくとも、充分に楽しめます。 ◇ 時間が経ったら、忘れてしまうことは、忘れても良いことでしょう。忘れた方が良いことだってあります。忘れた 方が良いことの方が多いでしょう。これは進歩です。 忘れないから、忘れられないから、例えば悲しみが、例えば恨みが、心に沈殿してしまいます。忘れたらもった いない楽しい想い出もあります。これは、大抵忘れないから、大丈夫です。忘れたら忘れたで、もう一度、新 鮮な気持ちで楽しむことが出来るでしょう。 ◇ 先ほど触れたエーリッヒ・ケストナー『人生処方詩集』の、「年齢が悲しくなったら」という処方箋に、こんな詩 が上げられています。『警告』という題です。 理想を持つ人間は それに到達しないように 用心せよ さもないと いつか 彼は 自分自身に似るかわりに 他人に似るだろう 『人生処方詩集』を、昔は殆ど全部暗記していました。今は殆ど忘れています。 ですから、時々取り出しては、楽しむことが出来ます。 ◇ 11節に戻ります。 … これらのことを命じ、教えなさい。… これが12節以下の教えの前提です。 これらのことを学びなさいではなく、『命じ、教えなさい。』です。 だからこそ、『年が若いということで、だれからも軽んじられて』しまいます。 『命じ、教え』る立場でなかったならば、『年が若いということで〜軽んじられて』しまうことはありません。『命じ、 教え』ようとするからこそ、馬鹿にされてしまいます。 ◇『年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。』とのパウロの教えを、実践するにはどうしたら 良いのか。それが12節の後半です。 … むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。… つまり、『命じ、教え』ることにあまり熱心にならないで、自分自身の信仰生活を整えることの方が、何より大 事だと言われています。6節と重なるように思います。 … これらのことを兄弟たちに教えるならば、 あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、 キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。… 語順が逆の方が分かり易いかも知れません。 『教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者にな』るならば、『兄弟たちに教える』ことが出来 るのだと思います。 何より肝心なことは、自分自身が御言葉に養われて生きることです。そうすれば、人に教えることも可能にな るでしょう。その教えに意味が生まれるでしょう。 もっと端的に言えば、学ぶことこそが、聞くことこそが大事なことで、教えること、教えようとすることは、その次だ ということです。 ◇ 16節も、同じ意図でしょう。 … 自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。 そうすれば、あなたは自分自身と、 あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。… これが伝道の根本です。先ほども申しましたように、テモテへの教えは、信仰者全てに当て嵌まります。伝道 したいと志すならば、先ず、自分自身への伝道でしょう。 『聖書の朗読と勧めと教えに専念』することです。『自分自身と教えとに気を配』ることです。それがなくて、伝 道伝道と言っても、言葉が空回りするだけでしょう。 ◇ 伝道よりも、教会出席者を増やすよりも、自分自身の信仰を整えることの方が大切です。そのような人が、 毎週の礼拝を守っていれば、聖書を聞き、額ずいていれば、それを見た人は、自ずと、聖書に、神さまに惹か れて行きます。それが何よりの伝道です。 日曜の朝、いそいそと礼拝に出掛けて行く姿を見た家族は、教会に関心を持ち、自分もと思うでしょう。一 緒に行こうと誘うよりも、送って行ってと頼む方が伝道になります。 |