▼ 聖書日課に従って読んでおりますと、これに基づいて説教するのに、とても困難を覚えることがあります。今 日与えられた箇所は、正しくそうです。頭を抱え込みます。 日課にしては長めの箇所です。厳密には、日課は19〜36節です。 ここに、信仰にとって、キリスト教の教えにとって、極めて重要な神学が、重ね併せて論じられています。著者ヨ ハネは、勿論、重ねて論じることが重要だと考え、その結果、このような文章になったのでしょうが、これを読み 解くことは極めて困難です。 1章から順に読んでいれば、大分話が違うかも知れませんが、前後なく、この箇所ですから、牧師の良心とし てお話ししなければならないことだけでも、膨大になります。2時間や3時間では足りません。 そこで、今日は、一点に絞ってお話ししたいと思います。他の要素については、また、機会が与えられるでしょ う。 ▼ 一点に絞るとは、25節のことです。ここに焦点を当てて読みたいと思います。 24節から読みます。 … はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、 わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、 また、裁かれることなく、死から命へと移っている。… ここだけでも、読み方によっては、つまり、何に関心を持って読むかによって、随分違った解釈が生まれるでしょ う。 ややこしい所は、単純に読むに限ります。異論が出るのは承知で、単純に読みます。 ▼ 『わたしをお遣わしになった方を信じる者は』、単純に読めば、旧約の神を信じる者はと、読むことが出来まし ょう。もっと簡単に、「神を信じる者は」でもよろしいでしょう。「神を信じる者は」、『永遠の命を得、また、裁かれ ることなく、死から命へと移っている。』となります。 19〜20節と重ね合わせますと、旧約の神と新約の神との連続性を説いていると解釈することも出来ましょ う。 単純に読むと言ったのですから、表現も簡単にしましょう。つまり、神を信じていれば、それだけで『永遠の命を 得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。』となります。 ▼ しかし、このような解釈には、抵抗を覚える方が少なくないでしょう。 「それでは、イエス・キリストはどうなるのか」「十字架は要らないのか」と、反発する人もありますでしょう。 「神を信じる者は」、「旧約の神を信じる者は」、『永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っ ている。』のならば、確かにキリストも十字架も要らなくなるかも知れません。 しかし、どんな言葉にも、どんな文章にも、強く主張したい肝心な点があります。著者が本当に伝えたい点を 外れて、脇道に入り込んではなりません。ヨハネ福音書の著者が、キリストや十字架を軽視、まして否定する 筈がありません。 ▼ それでは、この誤解を招きかねない表現で、著者は何を言いたいのか、そのためには、25節を読まなくては なりません。 … はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。 今やその時である。その声を聞いた者は生きる。… 『死んだ者が神の子の声を聞く』、『死んだ者』とは誰か、象徴的なこと、観念的なこととして読む人もあります でしょう。しかし、単純に、『死んだ者』、亡くなった人と読むべきでしょう。28節を読めば、そのような解釈しかあ りません。 … 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き … これは、既に亡くなった人が『人の子の声を聞』くとなります。それ以外の解釈は無理です。 ▼ 『死んだ者が神の子の声を聞く』、私たちには理解出来ないことだし、また、正直あまり関心がありません。し かし、当時の信仰者には、リアルな問題だったようです。 「自分はキリストに出会い、十字架の救いに与ることが出来た。でも、キリストを知ることなく、死んだ親や先 祖はどうなるのだろう。天国には行けないのか。」こういうことを真剣に考えたようです。 自分の救いについて真剣に考えるならば、これは当然の思いでしょう。 「自分が救われれば、家族も先祖の救いなど関係ない」と言うのでは、本当に神の国の救いを信じているの か怪しくなります。 ▼ 白河教会と松江北堀教会の時、統一原理問題に関わりました。計30件近く、救出活動に携わりました。 その詳しいお話しをする暇はありません。一点、驚き、そしてある意味教えられたことがありました。つまり、統一 協会に捕らえられた人は、真剣に、自分の両親、祖父母、ご先祖様の救いを願っています。 そのように教えられた結果でもあります。亡くなった人の供養をしなければ、彼らは地獄で苦しむという教え、 むしろ脅しの結果です。しかし、亡くなった親や祖父母のことを思っていることも確かなのです。 「お婆ちゃん子だった、お婆ちゃんのことが忘れられない」という女性が何人もいました。それが、統一協会の 教えに惹かれるきっかけだったことも間違いありません。 自分にはそのような思いがあるか、そのような愛があるのか、反省させられました。 ▼ 29節を読みます。 … 善を行った者は復活して命を受けるために、 悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。… 『死んだ者が神の子の声を聞く時』とは、終末の裁きの日のことです。 これは常に考えさせられることです。裁きという言葉を、私たちは普通に、刑罰という意味で理解します。しか し、正しくは、裁きイコール刑罰ではありません。裁きは、『悪を行った者』にとっては、裁きの結果として刑罰を 受ける時ですが、『善を行った者』には、その正しさが認められ、『復活して命を受ける』時、報われる時、嬉し い時です。 『悪を行った者』も『善を行った者』も、復活して裁きを受け、救い、或いは滅びに定められるのです。『悪を 行った者』は復活しないとは書いてありません。 ▼ また脱線かも知れません。 常々思うことがあります。大勢の人間に悪を働いて、何ら恥じることのない人間がいます。特に、無差別に殺 人を犯すテロリストがいます。その中でも、自爆テロがあります。イスラム過激派の自爆テロなどは、本当に憤り を覚えます。 「義のために人を殺せ」と命じる指導者の教えを信じて、自分も一緒に死んでしまうテロリスト、彼らが、その 教えを信じて、信じたまま死んで行ったとすれば、何ともやりきれません。 やりきれないと言うのは、気の毒にと同情するからではありません。自分の間違い、邪教に殉じた愚かさを、最 後まで知らないことを腹立たしく思うのが本音です。「教えられたことは間違いだった。自爆テロを命じた指導者 は、神の代理人ではなく、悪魔の代理人だった」と、しみじみ後悔させてやりたいと思うのが本音です。 ▼ 『悪を行った者』も『善を行った者』も、復活して裁きを受けるならば、『悪を行った者』は、自分の行いの愚 かさ非道さに気付き、激しく後悔することになるでしょう。 言葉を飾らないで言えば、ザマー見ろです。 問題は、「『悪を行った者』は地獄に堕ちろ、ザマー見ろ」と言うような真剣さで、『善を行った者』の救いを願 うかどうかです。25節をもう一度読みます。 … はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。 今やその時である。その声を聞いた者は生きる。… ヨハネ福音書が残したこの言葉は、『善を行った者』の救いを、真剣に願う思いです。 ▼ 神学生の頃の古い話です。夜の礼拝後の茶話会で、朝礼拝で洗礼を受けた人の証しを、聞きました。こ の人は、信仰熱心な奥さんと、娘二人を、教会に送り迎えしていました。中学生の長女が洗礼を受けました。 その娘が言ったそうです。 「お父さんは、とても良い人だから、きっと極楽に行けるね。でもお母さんと私は天国だから、離れ離れになって しまうね。」 そこから、このお父さんは聖書を読み、教会に通い、そして洗礼を受けたのでした。 漫画的な話かも知れません。しかし、救いを真剣に考えた結果です。この娘さんのような素朴な信仰を愛 を、私たちは持っているのかと問われる話です。 ▼ 26節。 … 父は、御自身の内に命を持っておられるように、 子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。… ややこしくなることは省略して、結論だけを言います。 父なる神は、人に命を与えられました。創世記2章7節。 … 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、 その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。… 『子にも自分の内に命を持つようにしてくださった』とは、創世記2章7節の力が、同じ力が、イエス・キリストに もあるという意味です。 『主なる神は、〜人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。』 分かり易い言い方をすれば、神の中にある命が、人に吹き入れられました。 神の命の息とは、聖霊という言葉に置き換えられます。新約では、聖霊の他に愛という言葉に置き換えられ ます。 ▼ 27節。 … また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。… 日本語としては成り立たないような表現です。『子は人の子だからである』、これをどのように読みますか、難 解です。 『人の子』について、大きな聖書辞典に載っています。その解説文は、今日の説教よりも長いものです。 単純に読みましょう。神の『子は』、同時に『人の子だからである』と読みましょう。 ▼ 今日の箇所の主題からは脱線しますが、敢えてお話しします。 『裁きを行う権能を子にお与えになった』 それは、神の『子は』、同時に『人の子だからである』のが理由だと考えます。単に下請けに出したということで はありません。 『人の子だからである』とは、人間の悲しみ、弱さが理解出来るという意味ではないでしょうか。もっと簡単に 約めて言えば、『人の子』は、人間の罪を、愛をもって裁くという意味でしょう。このことを例証しようと思ったら、 福音書の多くの箇所を上げなくてはなりません。特に弟子たちに接して語られた言葉を無数に上げなくてはなり ません。 ▼ 30節。 … わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。 わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、 わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」… この箇所も、考えれば考えるほど、理解が困難になります。 何より、神と人の子との関係が分からなくなります。この箇所だけで、両者の関係を見るとしたら、『人の子』 は、全く神に隷属するものとなってしまうでしょう。しかし、それが、ヨハネの意図だとは考えられません。他の所で は、全く逆のことも記しています。 ここでは、『人の子』の考え、裁きは、全く神の意志に適っているということが強調されているのだと思います。 それだけだと思います。 ▼ 31節が、その証拠となるでしょう。元々今日の聖書日課ですから、引用します。 … 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。… ややこしい表現ですが、旧約的な裁判に適っています。 しかし、32節以下に踏み込みますと、もう一つ、別の説教が必要になりますので、ここに止めておきます。ま た読む機会が与えられるでしょう。 ▼ 三度25節を読みます。 … はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。 今やその時である。その声を聞いた者は生きる。… 『死んだ者が神の子の声を聞く』、『死んだ者が神の子の声を聞く』ことが出来ます。 復活の前、黄泉に下られたイエスさまが、死者に伝道したと考える人もあります。それは本当かどうか分かりま せん。しかし、既に亡くなった、愛する家族のことを思い、祈ることは出来ます。その声は、死者にも届くかも知 れません。届くことを願います。 話は戻ります。初代教会の信仰者は、福音の言葉を聞かずして亡くなった家族のことを心配しました。どうし たら、彼らは救われるのだろうと、真剣に考えました。 その素朴で真摯な問いにヨハネ福音書は答えています。私たちはどうでしょう。福音を聞かずして亡くなった家 族、否、生きていて未だ福音の言葉に触れていない家族のことを、真剣に思っているでしょうか。 |