日本基督教団 玉川平安教会

■2025年7月6日 説教映像


■説教題 「神に希望を置いて」

■聖   書 テモテへの手紙一 4章6〜10節 


◇ 7節の前半から読みます。

 … 俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。…

 こんな低次元をことを、しかし、言わなくてはならなかったのでしょう。テモテの教会員には、『俗悪で愚にもつか
ない作り話』をする人がいたのでしょう。パウロの教会にもそのような人がいたからこそ、パウロはこれをテモテへの
戒めとして記しています。

 それでは、『俗悪で愚にもつかない作り話』とは、具体的にはどのような話なのでしょうか。はっきりとは記されて
いません。いろいろと想像することは出来ます。

 一テモテだけでも、いろいろと上げられています。1章3節を引用すれば充分でしょう。

 … ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、

  4:作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。

  このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、

   むしろ無意味な詮索を引き起こします。…

 既に読んだ所ですから、詳しくは申しませんが、当時の教会員には、系図や神話に異常なまでの関心を持つ
人が少なくなかったようです。系図や神話だけではありません。信仰とも教会とも直接関係ない、様々なものを
教会に持ち込み、それがとても大事なものであるかのように主張する人が多かったのです。今日でもそういう人
は存在します。


◇ 7節の後半。

 … 信心のために自分を鍛えなさい。…

 文脈については後で考えることとしまして、兎に角この言葉を読みたいと思います。

 『信心のために自分を鍛えなさい。』、とても大事なことです。自分自身を鍛えることなくして、人を指導するこ
とは出来ません。貧相な体型の人が、スポーツのコーチをしていたら、誰もその人に教わろうとはしないでしょう。
その指導がどんなに適切なものであったとしても、誰も素直に指導に従わないでしょう。

 人に教えようと思ったならば、先ず自分を鍛えなくてはなりません。


◇ 8節の前半。

 … 体の鍛練も多少は役に立ちますが …

 パウロが言う『自分を鍛えなさい。』とは、体作りのことではありません。あくまでも、『信心のために』です。信
仰上のことです。鍛えるのは、その人の信心そのものです。

 つまり、自分の信仰生活が駄目な人が、他人を指導することは出来ません。これは当たり前です。しかし、現
実には、当たり前ではないかも知れません。

 私は、若い時から、この矛盾に苦しんで来ましたし、今も苦しんでいます。

 あまり具体的な話をするのは、憚られますが、牧師という役割は、苦しみが多い役割です。常に、教会員の
誰かが、苦しみの中にあります。病のことやその他の悩みを抱えている人が、教会員の中に必ずいます。

 そういう人に対して、効果的なアドバイスすることなど、殆ど出来ません。医者でもない限り無理でしょう。経
済的に大変な人をさえる程の財力が、教会にはありません。勿論、牧師にもありません。 

 だから、牧師は常に苦しみの中にいます。苦しむ人の姿を見ているのに何も出来ない苦しみ、それが牧師の
苦しみです。


◇ ために、所謂チェーン・スモーカーになる牧師もいます。座禅を組む牧師もいます。

 たばこを吸ったり、座禅を組んだり、いろいろと工夫し、自分の心を調整しないと、とても務まらない、精神的に
激務なのでしょう。

 しかし、座禅でもたばこでもあまり効果はないようです。問題は解決しません。矢張り体を鍛えた方が良いか
も知れません。

 パウロも『体の鍛練も多少は役に立ちます』と言うのですから。

 私の友人にも、サッカーをする人やら、テニスに興ずる人、草野球に夢中な人さえいます。私は何もしません
が、多分、庭仕事や土方仕事が、気分転換です。


◇『俗悪で愚にもつかない』話になってしまったかも知れません。しかし、『作り話』ではありません。8節後半を
読みます。

 … 信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、

   すべての点で益となるからです。…

 『体の鍛練』は、『この世』で生きるには必要なものです。しかし、『信心は』、『この世と来るべき世での命を
約束する』と言っています。

 『体の鍛練』は『この世』で必要、『信心は』『来るべき世』で済みを持つなら、成る程と思いますが、信心は
両方です。『この世と来るべき世での命』、両方なのです。

 しかも、『すべての点で益となるからです。』とも言っています。

 

◇ しばしば、「キリスト教はご利益宗教ではない。」と言われますが、本当にそうでしょうか。キリスト教を信仰し
ても、疣も棘も取れないし、お金儲けは出来ないという点では、正にその通りで、ご利益を期待するのは間違
いだし、御利益を宣伝するのは、詐欺に過ぎません。

 それだから、「キリスト教はご利益宗教ではない。」と言われます。そのことを誇りとしている人も少なくありませ
ん。

 本当にそうでしょうか、キリスト教信仰者は、ご利益を願ってはならないのでしょうか。

 私たちは、実は、ご利益を願い求めて、信仰しています。教会に通っています。決して、疣や棘を取りたいから
ではないし、お金儲けしたいからでもありません。

 しかし、ご利益を願っています。何より、『来るべき世』で生きる場所を持つことを願っています。そして、『この
世』で心安らかに過ごす日々を願っています。

 御利益です。御利益に違いありません。しかも単なる疣・棘取りや、お金儲けではありません。かなり、大き
な願い・祈り、とてつもなく大きな御利益を期待しているのです。


◇ 9節。

 … この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。…

 これは、良く意味が分かりません。

 聖書には所々、後の時代の人が、聖書を書き写していて、その際に書き加えた言葉、書き入れてしまった言
葉と思われるものがあります。

 『読者よ悟れ』などがあります。これもそんな書き込みでしょうか。それとも、パウロ自身が、書き加えたもので
しょうか。

 どちらにしても、8節に記されていることについて、『この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。』
と、強調されています。その強調の通りでしょう。


◇ 私たちの信仰は、現世利益に偏ってはなりません。神の国を思うのが信仰です。しかし、来世信仰に偏って
もならないと思います。来世信仰故に、『この世』での生活を否定してはなりません。イエスさまも、パウロも、そ
んなことは言っていません。

 神の国への信仰、来世信仰故に、『この世』を否定してはなりません。

 アンデルセンを随分久し振りに読み返して、アンデルセンには、かなり偏っている程に、神の国への信仰、来
世信仰があることに驚きました。

 『マッチ売りの少女』が最も典型的でしょう。現世の苦しみから束の間免れる、死がむしろ救いとなるという話
がとても多いのです。『マッチ売りの少女』だけではありません。

 死によっても苦悩から解放される話も沢山あります。『人魚姫』もその一つです。

 幸福の絶頂で死を迎えることこそが最大の幸福だと唱える作品も数多くあります。『幸福のペール』『氷の女
王』など数多くあります。


◇ アンデルセンは大好きですし、極めて聖書的、キリスト教的な作品に溢れています。しかし、ちょっと、来世
信仰に偏っているのではないかとも思います。『醜いアヒルの子』も、その例外ではありません。むしろ典型かも
知れません。

 〜信仰者は、つまり高い志を持って生きている人は、どうも現世とはなじめない、何より、『この世』の人には、
受け入れられない、評価されない。〜『醜いアヒルの子』は、そのような主題だと考えます。

 アンデルセンの考え方は、正しいかも知れません。信仰者は、『この世』に染まることは難しいし、出来ないの
かも知れません。


◇ 10節前半を読みます。

 … わたしたちが労苦し、奮闘するのは、…

 キリスト教信者は、『この世』にあって『労苦し、奮闘する』する存在です。それを免れることは出来ません。

 上手に立ち居振る舞えば、『この世』に馴染み、互いに違和感を持たずに生きられるのかも知れません。しか
し、信仰との両立はなかなかに難しいようです。


◇ ちょっと話が脱線気味に聞こえるかも知れませんが、少々お付き合いください。

 A型肝炎に罹って、一ヶ月以上入院した時のことです。最初の2週間は、ただただ苦しみ悶えていました。
熱、激しい頭痛と、悪寒、更に激しい吐き気、これだけで、2週間過ごしました。

 病室の窓、外側なんですが、鳩の糞がこびりついています。これを目にすると、途端に吐き気がします。かと言
って、4階の窓の外を掃除することも出来ませんし、何しろベットを下りることも出来ません。

 そこで、窓に、内側から、シールを貼って貰いました。それで何とか凌ぎました。

 2週間が過ぎ、痛み・苦痛は去りました。そうしましたら、今度は、夜眠れません。何しろ、ベットの中で24時
間、運動もしませんし、本も満足に読めません。一日の時間感覚がおかしくなって、夜になっても眠れません。


◇ 2週間が経ち、やっと、椅子に腰掛けて、窓の外を見ることが可能になりました。そうして気付きました。丁度
窓の下、1階が、病院の裏口でした。ここに、しょっちゅう霊柩車が出入りするのです。

 ある夜、中学生くらいの女の子と、小学生に見える男の子と、かなり長い時間、この裏口辺りを、うろうろと落
ち着きなく歩き回っています。夜中の2時頃です。異様な光景です。二人は、亡くなった父親の遺体を待って
いたのでした。3時近く、霊柩車は出て行き、子供たちも帰って行きました。

 そうして3時になりました。私の病室の真向かいは、看護婦さんたちの詰め所です。そこがとても騒がしい、ま
た、どなたかが亡くなったのかと気になりました。詰め所、今ではナースセンターと言うのでしょうか。ここに近い病
室の患者は、重篤な人が多く、毎日毎日どなたかが亡くなります。

 私は、やっと歩けるようになったので、起きて様子を見に行きました。看護婦さんたちが、夜中のお三時を頂い
ているだけでした。


◇ その時は、はっきり嫌な気がしましたが、それから更に2週間以上入院していて、納得しました。看護婦さん
にとっては、これが日常なのです。どなたかが亡くなる度に塞ぎ込んでいたら、とても仕事になりません。亡くなっ
た人を病室の裏門から送って、その30分後には、お茶の時間となります。わいわい言って、楽しそうに過ごし、
気分を変えます。そうでなかったら、とてもやっていられない、きつい仕事なのです。

 私は、未だに夜中の3時前には、必ず眼が覚めてしまいます。これが後遺症になったのでしょうか。


◇ 10節をもう一度読みます。

 … わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、

   特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。…

 来世と現世とに分離しているのではありません。現世で、『労苦し、奮闘するのは』、つまり、苦難から逃げ出
さないで働くことが出来るのは、希望に生きているからです。


◇ 6節を読みます。

 … これらのことを兄弟たちに教えるならば、

   あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、

  キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。…

 『これらのこと』とは、4章1〜5節に記されたことであり、異端を退け、正統な信仰に立つことを意味していま
す。同時に、6節の中の『信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉』に他なりません。

 

◇ 比較的最近の説教で引用しました。若山牧水の短歌です。

 「白鳥 ( はくてう ) は哀しからずや海の青そらのあをにも染まずただよふ」

 信仰者と重なります。『この世』と『神の国』との間で、何れにも染まず漂うのが、信仰者の定めかも知れませ
ん。信仰者は旅人ですから仕方がありません。

 しかし、逆かも知れません。信仰者だからこそ、『この世』で義に生き、そして、時来たらば『神の国』を目指し
て飛び立ちます。 

 信仰者は、やはり『醜いアヒルの子』なのかも知れません。