日本基督教団 玉川平安教会

■2024年6月30日 説教映像

■説教題 「背く者をもいやし」

■聖   書 ホセア書 14章2〜8節 


▼ ホセア書のような、特徴・個性の強い預言書を、末尾の14章だけ取り上げて読むことには、困難を覚えま
す。ホセアとは誰か、ホセア書とは何か、そこからお話ししなくては、ホセアのメッセージは伝わらないかも知れま
せん。

 しかし、1回の説教ではほぼほぼ不可能なことです。

 そこで、敢えて、この箇所だけを1節ずつ読むことに致します。それも前半部だけになります。


▼ 2節前半。

 … イスラエルよ、立ち帰れ あなたの神、主のもとへ。…

 『立ち帰れ』と言うのですから、イスラエルは今、『主のもと』を去っています。丁度ホセアの妻が、他の男性を
慕い、出奔したように、『主のもと』から去っています。

 ホセアの妻ゴメルが、他の男に走ったのは、男が毛皮や宝石で誘惑した結果でした。イスラエルは、何に魅せ
られて、『主のもと』を去ったのか、それは4節でお話しします。

 とにかく、イスラエルは『主のもと』を去り、他の神に仕える道を選んだのです。


▼ 2節後半。

 … あなたは咎につまずき、悪の中にいる。…

 これが映画やドラマだったら、当然至極の結果です。富であれ、男性的な魅力であれ、他の男に走ったなら
ば、その女性を待っている結末は一つです。

 分かり易くドラマ流でお話しします。男は、毛皮や宝石で誘惑しました。男性的な魅力があったのかも知れま
せん。彼は、若い美しい人妻を手に入れました。

 それから10年後、この男は、もう若くはなくなった女を捨てて、もっと若い女を手に入れようとするでしょう。女
は、まっとうな仕事もなく、堕ち行く先は知れています。


▼ ホセアの妻ゴメルが全くそうでした。ゴメルが辿り着いた先は、神殿娼婦です。今日で言えば、高級売春婦
でしょうか。ゴメルという名前の意味は、無価値な者です。毛皮や宝石で誘惑された女は、無価値な者になっ
てしまいます。

 『あなたは咎につまずき、悪の中にいる。』そんな風になってしまいます。これは必然的なことです。単なる結果
ではありません。失敗による結果ではありません。毛皮や宝石、無価値な物に誘惑され、本当に価値ある物
を捨てたからには、『つまずき』、気付いた時には、『悪の中にいる』のです。


▼ 3節。

 … 誓いの言葉を携え 主に立ち帰って言え。

 「すべての悪を取り去り 恵みをお与えください。

 この唇をもって誓ったことを果たします。…

 『立ち帰って』、許して貰うためには、『誓いの言葉を携え』ていなくてはなりません。

 ホセアのことと重ねますと、この『誓いの言葉』とは、結婚式の誓いの言葉ではないかと考えます。結婚式で
誓った言葉を想い出し、もう一度それを唱えなさいということなのかと思いますが、あまり根拠はありません。

 

▼ しかし、いずれにしろ、悔い改めが必要です。

 『すべての悪を取り去り』、これは当然イスラエルの悪を取り去るということですから、『すべての悪を取り去』って
下さいという意味であり、つまりは、罪を認め、告白することです。罪を認め、告白することなしには、赦しはあり
ません。

 『恵みをお与えください。』とは、赦しは、恵だからです。恵でしかないからです。『恵みをお与えください。』と
は、権利の主張ではありません。あり得ません。お願いです。 普通なら叶わないことを願う、願望です。


▼ 『この唇をもって誓ったことを果たします。』とは、必ずしも、「結婚式での誓いの言葉を今度こそは果たしま
す。」と言う意味ではないかも知れませんが、そう考えた方が分かり易くなります。多分ゴメルはそうだったでしょ
う。

 ここで、最初に、その時間はないと言いましたが、ホセア書とは何かについて、少しだ、簡単に申します。かなり
の程度まで、推測ですが、当たらずといえども遠からずではあるでしょう。

 田舎紳士のホセアさんは、エルサレム神殿にお参りし、その際に、神殿娼婦だったゴメルに出会いました。一
目惚れと言ったら、読み込み過ぎかも知れませんが、とにかく、彼女を連れ帰り、妻にしました。

 メロドラマ風に説明します。ゴメルの方も、他の都会人にはない新鮮な魅力を感じたかも知れません。しかし、
時を置かず、二人の関係は破綻しました。ゴメルは、ホセアを生真面目なだけの、退屈な男だと感じ始めま
す。そこに旅人が現れます。彼は、毛皮や宝石で誘惑しました。二人は駆け落ちします。

 そうして必然的な結末を迎えます。ゴメルの辿りいた先は、神殿でした。元の娼婦になっていました。


▼ ホセアは、駆け落ち男の子どもを産んでいたゴメルを迎えに行きます。子どもも一緒に引き取ります。省略
しますが、ホセア書1〜2章には、そうしたことをうかがわせる記述があります。

 この背信と、不貞の子どもの誕生は、もう一度繰り返されます。

 ホセアは、おそらく、自分の体験から、これを神とイスラエルの関係に重ねて理解します。ゴメルが繰り返し、ホ
セアを裏切ったように、イスラエルも神を裏切り続けている、それが、ホセアの理解であり、預言の下敷きです。


▼ 4節に戻ります。もう一度3節の後半から続けて読みます。

 … この唇をもって誓ったことを果たします。

  4:アッシリアはわたしたちの救いではありません。…

 神の花嫁にも準えられるイスラエルを誘惑したのは、アッシリアでした。しかし、『アッシリアはわたしたちの救い
ではありません。』当然の帰結です。

 アッシリアは、その力と富とでイスラエルを誘惑し、屈服させました。しかし、その力と富とに、救いがないのは、
理の当然です。


▼ 4節の続き、

 『わたしたちはもはや軍馬に乗りません。』

 アッシリアの最大の魅力は、その力、その力の源は軍馬でした。他の箇所では、戦車と表現されています。ア
ッシリアは馬を品種改良しました。更に彼らが開発した新しい鉄の精錬技術により、大量の鉄を手に入れ、こ
れで、馬車や馬そのものを装甲しました。無敵の戦車となりました。勿論、刀や槍、鏃も強力になりました。

 『わたしたちはもはや軍馬に乗りません。』とは、この武器・兵器を頼りとはしないという意味です。


▼ これも大分想像で言いますが、外れてはいないでしょう。

 アッシリアに対抗するためには、アッシリアに貢いで鉄を手に入れなければなりません。または、自分で鉄を造
り、武器を調達するためには、木材が沢山いります。林や森が伐採されます。人手はもっと要ります。どちらにし
ても、経済を民衆の生活を犠牲にしなければなりません。最新兵器で軍備拡張するには、民衆の犠牲が必
要になります。


▼ 4節の続きを読みます。

 … 自分の手が造ったものを 再びわたしたちの神とは呼びません。…

 『自分の手が造ったもの』とは、偶像のことです。

 イスラエルは、エジプトでもバビロンでも、これを繰り返しています。

 つまり、彼らは、砂漠の猛暑のもとで、鉄や金を溶かし、鋳型に流し込んで、馬や牛を造らされました。その
過酷な労働は、多くのイスラエル人の命をも奪いました。しかし、愚かにも、それを神と拝んだのです。偶像を造
った人間だから、それが神ではないことを一番良く知っている筈なのに、神として拝むのです。どの偶像も、皆同
じことです。

 これが、罪の告白の内容です。『自分の手が造ったものを 再びわたしたちの神とは呼びません。』本当は価
値のないものを、宝物として拝みはしませんという誓いです。この告白が、赦されるための、救われるための、条
件です。


▼ 4節の続き。

 … 親を失った者は あなたにこそ憐れみを見いだします。…

 何だか良く分からない表現ですが、単純に読めばよろしいでしょう。今のイスラエルは、親を失った人間のよう
です。自分を作り出した神に逆らい捨てたからです。

 その『親を失った者は』、今、『あなたにこそ憐れみを見いだします。』悔い改めて神に帰るということでしょう。


▼ 5節。

 … わたしは背く彼らをいやし 喜んで彼らを愛する。…

 これこそがホセア書です。

 ホセアが語った赦しの福音は、本来ならば、あってはならない赦しです。義の民を自称するイスラエルとしては
あってはならないことでしょう。

 しかし、イスラエルは、本当に義の民なのか、背徳の民ではないのか。

 背徳の民を、癒やす、これが、ホセアの義であり、預言です。


▼ 5節の続き。

 … まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。…

 義であること、義しいこととは、決して不義を忘れない、不義を赦さないことだと考える人がいます。その通りか
も知れません。

 罪に対して厳格であることが、義なのかも知れません。少なくともユダヤ人はそのように考えていました。


▼ しかし、イエスさまは、どのように教えられたでしょう。マタイ福音書18章21〜22節にはこのようにあります。

 … 21:そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。

  「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。

  七回までですか。」

22:イエスは言われた。「あなたに言っておく。

 七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。…

 ヨハネ福音書8章7節には、このように記されています。

 … しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

   「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、

  まず、この女に石を投げなさい。」…

 諄いかも知れませんが、この言葉こそ忘れてはなりません。先週も引用しました。

 ルカ福音書23章34節。

 … そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。

   自分が何をしているのか知らないのです。」…

 

▼ 『まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。』

 これが、ホセアの説く愛の神であり、ホセアの説く義です。

 怒りを忘れないことが義ではありません。憎しみを抱え込むことが義ではありません。

 イエスさまの義は、赦しです。


▼ 6節。

 … 露のようにわたしはイスラエルに臨み 彼はゆりのように花咲き 

   レバノンの杉のように根を張る。…

 以下省略しますが、8節まで、神に赦され、神に愛されたイスラエルが、どのような美しい姿に変えられ、どの
ように豊かになるのかが、描かれています。

 

▼ 9〜10節は、聖書日課にはありません。また、学者の間では、後の挿入であって、ホセア本来の文章では
ないそうです。話をややこしくしないためにも、ここは省略します。

 しかし、『ゆりのように花咲き』という言葉が、私には、とても嬉しく感じられます。

 ここに上げられている花は、百合だけです。もっとも美しい花として上げられています。

 しかも、文脈から分かりますように、赦し、慈しみ、愛を象徴する花として、上げられています。

 ここ3年そうでしたが、教会暦の花の日・子どもの日に、中庭の百合が、丁度満開になりました。特に、テッポ
ウユリの一種のトライアン・ファーターが随分増えました。花壇と鉢とで計120株ほど咲きました。200輪以上
です。300輪かも知れません。

 私がこの存在に気付いた6年前には、ほんの数株でした。教会員は、誰もこの存在を知りませんでした。です
から、そもそも誰が植えたのかも分かりません。

 しかし、今は120株ほど、300輪にもなりました。佐渡に旅行した時に求めた黄色い百合も、20株ほどあり
ます。

 愛し、育めば、増えます。私たちは、教会と言う農園を、神さまから与っています。ここに何を育てるのか、愛を
育てなければなりません。憎しみの雑草は、要りません。