▼ ホセア書のような、特徴・個性の強い預言書を、末尾の14章だけ取り上げて読むことには、困難を覚えま す。ホセアとは誰か、ホセア書とは何か、そこからお話ししなくては、ホセアのメッセージは伝わらないかも知れま せん。 しかし、1回の説教ではほぼほぼ不可能なことです。 そこで、敢えて、この箇所だけを1節ずつ読むことに致します。それも前半部だけになります。 ▼ 2節前半。 … イスラエルよ、立ち帰れ あなたの神、主のもとへ。… 『立ち帰れ』と言うのですから、イスラエルは今、『主のもと』を去っています。丁度ホセアの妻が、他の男性を 慕い、出奔したように、『主のもと』から去っています。 ホセアの妻ゴメルが、他の男に走ったのは、男が毛皮や宝石で誘惑した結果でした。イスラエルは、何に魅せ られて、『主のもと』を去ったのか、それは4節でお話しします。 とにかく、イスラエルは『主のもと』を去り、他の神に仕える道を選んだのです。 ▼ 2節後半。 … あなたは咎につまずき、悪の中にいる。… これが映画やドラマだったら、当然至極の結果です。富であれ、男性的な魅力であれ、他の男に走ったなら ば、その女性を待っている結末は一つです。 分かり易くドラマ流でお話しします。男は、毛皮や宝石で誘惑しました。男性的な魅力があったのかも知れま せん。彼は、若い美しい人妻を手に入れました。 それから10年後、この男は、もう若くはなくなった女を捨てて、もっと若い女を手に入れようとするでしょう。女 は、まっとうな仕事もなく、堕ち行く先は知れています。 ▼ ホセアの妻ゴメルが全くそうでした。ゴメルが辿り着いた先は、神殿娼婦です。今日で言えば、高級売春婦 でしょうか。ゴメルという名前の意味は、無価値な者です。毛皮や宝石で誘惑された女は、無価値な者になっ てしまいます。 『あなたは咎につまずき、悪の中にいる。』そんな風になってしまいます。これは必然的なことです。単なる結果 ではありません。失敗による結果ではありません。毛皮や宝石、無価値な物に誘惑され、本当に価値ある物 を捨てたからには、『つまずき』、気付いた時には、『悪の中にいる』のです。 ▼ 3節。 … 誓いの言葉を携え 主に立ち帰って言え。 「すべての悪を取り去り 恵みをお与えください。 この唇をもって誓ったことを果たします。… 『立ち帰って』、許して貰うためには、『誓いの言葉を携え』ていなくてはなりません。 ホセアのことと重ねますと、この『誓いの言葉』とは、結婚式の誓いの言葉ではないかと考えます。結婚式で 誓った言葉を想い出し、もう一度それを唱えなさいということなのかと思いますが、あまり根拠はありません。 ▼ しかし、いずれにしろ、悔い改めが必要です。 『すべての悪を取り去り』、これは当然イスラエルの悪を取り去るということですから、『すべての悪を取り去』って 下さいという意味であり、つまりは、罪を認め、告白することです。罪を認め、告白することなしには、赦しはあり ません。 『恵みをお与えください。』とは、赦しは、恵だからです。恵でしかないからです。『恵みをお与えください。』と は、権利の主張ではありません。あり得ません。お願いです。 普通なら叶わないことを願う、願望です。 ▼ 『この唇をもって誓ったことを果たします。』とは、必ずしも、「結婚式での誓いの言葉を今度こそは果たしま す。」と言う意味ではないかも知れませんが、そう考えた方が分かり易くなります。多分ゴメルはそうだったでしょ う。 ここで、最初に、その時間はないと言いましたが、ホセア書とは何かについて、少しだ、簡単に申します。かなり の程度まで、推測ですが、当たらずといえども遠からずではあるでしょう。 田舎紳士のホセアさんは、エルサレム神殿にお参りし、その際に、神殿娼婦だったゴメルに出会いました。一 目惚れと言ったら、読み込み過ぎかも知れませんが、とにかく、彼女を連れ帰り、妻にしました。 メロドラマ風に説明します。ゴメルの方も、他の都会人にはない新鮮な魅力を感じたかも知れません。しかし、 時を置かず、二人の関係は破綻しました。ゴメルは、ホセアを生真面目なだけの、退屈な男だと感じ始めま す。そこに旅人が現れます。彼は、毛皮や宝石で誘惑しました。二人は駆け落ちします。 そうして必然的な結末を迎えます。ゴメルの辿りいた先は、神殿でした。元の娼婦になっていました。 ▼ ホセアは、駆け落ち男の子どもを産んでいたゴメルを迎えに行きます。子どもも一緒に引き取ります。省略 しますが、ホセア書1〜2章には、そうしたことをうかがわせる記述があります。 この背信と、不貞の子どもの誕生は、もう一度繰り返されます。 ホセアは、おそらく、自分の体験から、これを神とイスラエルの関係に重ねて理解します。ゴメルが繰り返し、ホ セアを裏切ったように、イスラエルも神を裏切り続けている、それが、ホセアの理解であり、預言の下敷きです。 ▼ 4節に戻ります。もう一度3節の後半から続けて読みます。 … この唇をもって誓ったことを果たします。 4:アッシリアはわたしたちの救いではありません。… 神の花嫁にも準えられるイスラエルを誘惑したのは、アッシリアでした。しかし、『アッシリアはわたしたちの救い ではありません。』当然の帰結です。 アッシリアは、その力と富とでイスラエルを誘惑し、屈服させました。しかし、その力と富とに、救いがないのは、 理の当然です。 ▼ 4節の続き、 『わたしたちはもはや軍馬に乗りません。』 アッシリアの最大の魅力は、その力、その力の源は軍馬でした。他の箇所では、戦車と表現されています。ア ッシリアは馬を品種改良しました。更に彼らが開発した新しい鉄の精錬技術により、大量の鉄を手に入れ、こ れで、馬車や馬そのものを装甲しました。無敵の戦車となりました。勿論、刀や槍、鏃も強力になりました。 『わたしたちはもはや軍馬に乗りません。』とは、この武器・兵器を頼りとはしないという意味です。 ▼ これも大分想像で言いますが、外れてはいないでしょう。 アッシリアに対抗するためには、アッシリアに貢いで鉄を手に入れなければなりません。または、自分で鉄を造 り、武器を調達するためには、木材が沢山いります。林や森が伐採されます。人手はもっと要ります。どちらにし ても、経済を民衆の生活を犠牲にしなければなりません。最新兵器で軍備拡張するには、民衆の犠牲が必 要になります。 ▼ 4節の続きを読みます。 … 自分の手が造ったものを 再びわたしたちの神とは呼びません。… 『自分の手が造ったもの』とは、偶像のことです。 イスラエルは、エジプトでもバビロンでも、これを繰り返しています。 つまり、彼らは、砂漠の猛暑のもとで、鉄や金を溶かし、鋳型に流し込んで、馬や牛を造らされました。その 過酷な労働は、多くのイスラエル人の命をも奪いました。しかし、愚かにも、それを神と拝んだのです。偶像を造 った人間だから、それが神ではないことを一番良く知っている筈なのに、神として拝むのです。どの偶像も、皆同 じことです。 これが、罪の告白の内容です。『自分の手が造ったものを 再びわたしたちの神とは呼びません。』本当は価 値のないものを、宝物として拝みはしませんという誓いです。この告白が、赦されるための、救われるための、条 件です。 ▼ 4節の続き。 … 親を失った者は あなたにこそ憐れみを見いだします。… 何だか良く分からない表現ですが、単純に読めばよろしいでしょう。今のイスラエルは、親を失った人間のよう です。自分を作り出した神に逆らい捨てたからです。 その『親を失った者は』、今、『あなたにこそ憐れみを見いだします。』悔い改めて神に帰るということでしょう。 ▼ 5節。 … わたしは背く彼らをいやし 喜んで彼らを愛する。… これこそがホセア書です。 ホセアが語った赦しの福音は、本来ならば、あってはならない赦しです。義の民を自称するイスラエルとしては あってはならないことでしょう。 しかし、イスラエルは、本当に義の民なのか、背徳の民ではないのか。 背徳の民を、癒やす、これが、ホセアの義であり、預言です。 ▼ 5節の続き。 … まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。… 義であること、義しいこととは、決して不義を忘れない、不義を赦さないことだと考える人がいます。その通りか も知れません。 罪に対して厳格であることが、義なのかも知れません。少なくともユダヤ人はそのように考えていました。 ▼ しかし、イエスさまは、どのように教えられたでしょう。マタイ福音書18章21〜22節にはこのようにあります。 … 21:そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。 七回までですか。」 22:イエスは言われた。「あなたに言っておく。 七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。… ヨハネ福音書8章7節には、このように記されています。 … しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、 まず、この女に石を投げなさい。」… 諄いかも知れませんが、この言葉こそ忘れてはなりません。先週も引用しました。 ルカ福音書23章34節。 … そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」… ▼ 『まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。』 これが、ホセアの説く愛の神であり、ホセアの説く義です。 怒りを忘れないことが義ではありません。憎しみを抱え込むことが義ではありません。 イエスさまの義は、赦しです。 ▼ 6節。 … 露のようにわたしはイスラエルに臨み 彼はゆりのように花咲き レバノンの杉のように根を張る。… 以下省略しますが、8節まで、神に赦され、神に愛されたイスラエルが、どのような美しい姿に変えられ、どの ように豊かになるのかが、描かれています。 ▼ 9〜10節は、聖書日課にはありません。また、学者の間では、後の挿入であって、ホセア本来の文章では ないそうです。話をややこしくしないためにも、ここは省略します。 しかし、『ゆりのように花咲き』という言葉が、私には、とても嬉しく感じられます。 ここに上げられている花は、百合だけです。もっとも美しい花として上げられています。 しかも、文脈から分かりますように、赦し、慈しみ、愛を象徴する花として、上げられています。 ここ3年そうでしたが、教会暦の花の日・子どもの日に、中庭の百合が、丁度満開になりました。特に、テッポ ウユリの一種のトライアン・ファーターが随分増えました。花壇と鉢とで計120株ほど咲きました。200輪以上 です。300輪かも知れません。 私がこの存在に気付いた6年前には、ほんの数株でした。教会員は、誰もこの存在を知りませんでした。です から、そもそも誰が植えたのかも分かりません。 しかし、今は120株ほど、300輪にもなりました。佐渡に旅行した時に求めた黄色い百合も、20株ほどあり ます。 愛し、育めば、増えます。私たちは、教会と言う農園を、神さまから与っています。ここに何を育てるのか、愛を 育てなければなりません。憎しみの雑草は、要りません。 |