日本基督教団 玉川平安教会

■2025年7月20日 説教映像


■説教題 「老人を叱るな」

■聖   書 テモテへの手紙一 5章1〜16節 


◇ 創世記9章を先ず引用します。長い引用ですが、『ノアの洪水物語』の末尾、ほんの一部、後日譚に過ぎ
ません。

 … 21:あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

  22:カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。

  23:セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、

   父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。

  24:ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、

  25:こう言った。「カナンは呪われよ 奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」

  26:また言った。「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。

  27:神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)セムの天幕に住まわせ 

    カナンはその奴隷となれ。」…

 多くの人が、不可解、理不尽と思い。少なからぬ人が、嫌悪感さえ抱く箇所です。


◇ 先ず、『義人ヨブ』の物語の主人公が、飲み過ぎて酔っ払い、裸で寝込んでいるという事実そのものに、反
感を覚えるでしょう。もっと納得がいかないのは、ヨブが、息子ハムの行動を理由に、彼の子孫、ヨブ自身の子
孫にもなる訳ですが、これを呪ったことです。しかも、ハムではなく、その子カナンとその子孫が、呪いの対象とな
っています。

 飲み過ぎて酔っ払らったのは、自分でしょう。我が身を呪いなさいと言いたくなります。


◇ 何故、ハム、カナンは駄目で、セムとヤフェトは褒められるのか、これを、それぞれの子孫とされるハム族、カ
ナン族、セム族、ヤフェト族だとして、これにイスラエルの歴史を重ねて読むのは、ごく自然だとは思います。一種
の原因譚です。

 しかし、その説明で、現代の読者が抱く違和感は拭えません。両者の違いを比べて見たいと思います。

 『ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。』つまり、父の酔態を蔑み、他の兄弟に告
げ口しました。一緒に笑うためでしょうか。

 一方、『セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、

父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。』つまり、父の酔態を見ないようにし、これを
覆い隠しました。 


◇ 人は、失敗する生き物です。間違いを犯します。みっともない羽目に陥ることもあります。そうした時に、この
人を、蔑むのか、人の眼に曝すのか、それとも、庇うのか、この違いです。私たちには、理不尽と見えますが、聖
書は、ハムの行為を、赦されざる罪と、告発しています。

 『義人ヨブ』でさえ、年をとり、酔態を曝すという失敗をしました。『義人ヨブ』でさえそうなのですから、これは、
人間の免れ得ない定めです。

 私は、今年になったら、急にお酒が飲みたくなくなりましたし、飲めなくなりました。ですから、酔態を曝す危険
はなくなりました。それとも、ビール一杯で、酔態を見せるのか、これは未だ分かりません。

 何お酒のことだけではありません。他にもいろいろな醜態があります。しかも、年齢故の醜態があります。それ
を今数え上げる必要はありませんので省略します。しかし、確実に、醜態があります。しかも、年齢故の醜態が
あります。


◇ 1節を読みます。

 … 老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。…

 老人が老人であるが故の失態を演じたとします。パウロは、それを『叱ってはなりません。』と諭します。かつ、
『むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。』と奨めます。

 ここは大事な点だと思います。他人の親ならば、笑って済ませます。ある意味、寛容です。自分の親だから、
黙ってはいられないし、躓きます。がっくりします。結果、他人なら優しく見守っているようなことでも、きつく咎めた
りします。口に出して叱ります。

 しかし、パウロは、『むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。』と教えます。

 私たちは、『自分の父親』だからこそ、叱ってしまいます。叱るだけではなく、否定し、投げ出し、自分は逃げ
出します。しかし、パウロは、『むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。』と教えます。『諭しなさい』と言います。

 つまり、ただただ、見て見ぬふりをしなさいとは言っていません。親だから、どんな不当なことも、我慢して従いな
さいとは言っていません。

 つまり、必ずしも、セムとヤフェトのようでありなさいとは言っていません。

 パウロが説いているのは、行いではなく、父として見ているのか、父だと思って、それを前提にして対処している
のか、これを問題にしています。


◇ … 若い男は兄弟と思い、2:年老いた婦人は母親と思い… ここも同じことです。

 『若い男は』、『若い男』だからこその、失敗をします。罪さえ犯します。その時に、「今時の若者は」と、全否
定するのか、それとも『兄弟と思い』、心を痛めながら、諭すのか、この違いは大きいものです。

 『年老いた婦人は母親と思い』、これも理屈は全く同じです。今時、男女の違いを言ってはならないかも知れ
ませんが、現実ではあります。『年老いた婦人』ならではの、そこまで言わなくても、『年老いた婦人』にありがち
な失敗も罪もあります。

 これも、パウロには、『諭しなさい』とする対象です。


◇ 2節の後半。

 … 若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。…

 ここは、少し調子が違います。言葉の調子ではなく、対象の違いからでしょうか。

 ここでも、男女の違いを言ってはならないかも知れませんが、現実ではあります。『若い女性には』、『若い女
性』だからこその、危惧があります。心配しなくてはなりません。それは、差別ではありません。

 『若い女性』を、肉体的にも社会的にも弱い存在だと考えて、それを前提にしてものを言ってはならないでしょ
う。しかし、現実的な心配は確かにあります。


◇ 3節。

 … 身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。…

 また、調子が変わります。矢張り対象の違いです。ここでは、『諭しなさい』とは、言われていません。『大事に
してあげなさい』です。『やもめ』になった事情は、それぞれに違うでしょう。その理由をパウロは、問題にしていま
せん。どんな事情でも、『大事にしてあげなさい』です。

 今の時代も、この時代でさえも、『やもめ』が、必ずしも、経済的に困窮しているとは限りません。『大事にして
あげなさい』とは、金銭面のことだけではないと思います。

 逆に言いますと、経済的には何も出来ないようだけれども、教会にも出来ること、なすべきことはあると思いま
す。


◇ 5・6節で『やもめ』について、もっと具体的に触れられていますので、先ずは、4節を読みます。

 … やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、

   親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。…

 ここにこそ、反感を覚える人がありますでしょう。扶養義務、これに苦しむ人は今の世にもいます。決して少な
くありません。

 扶養義務、介護義務もあるでしょう。戦前までは、このために身売りを強いられた歴史が存在します。現代
では、介護のために、職を捨てる、自分の将来そのものを捨てる人、これを強いられる人が確かに存在します。

 私は、かの養老・孝子の教えが大嫌いです。養老の滝など、とんでもないと思います。

 若い人は聞いたことがないかも知れませんので、簡単に説明します。

 親孝行な息子が父親が寝ていて蚊に刺されてはならないと、傍らに裸で寝て蚊避けになるとか、父親にもっと
お酒を飲ませて上げたいと苦労し、最後は、酒が泉と湧く滝を見つける話もあります。とんでもない。こんな父
親のために、自分を犠牲にしてはなりません。


◇ この点、パウロさんの説に全く賛成は出来ませんが、パウロも全く自己犠牲的に親に仕えろと言っているので
はないと考えます。

 そもそも、初代教会は、アガペーと言われますが、貧しい人、食べ物に不自由する人、特にやもめや孤児に、
手を伸ばしていました。これらの人が一緒に食事をするのが、アガペーであり、これは、聖餐式の起源の一つと
考えられています。

 大勢の人が、教会を、教会での食事を当てにして生きていました。当然、教会が提供出来ることには限界が
あります。寝床も、食べ物も、限られています。

 だから、『やもめに子や孫がいるならば』となります。そういう理屈で、養老・孝子の教えと一緒くたには出来ま
せん。酒を飲み、裸で寝込むなど、ノアの物語と不思議な共通点がありますが、その理由は、私には分かりま
せん。兎に角、似て非なる教えです。


◇ 5節。

 … 身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、

   昼も夜も願いと祈りを続けますが、…

 まるで修道女の姿です。パウロは、これを肯定的に描いています。『神に希望を置き』、4章10節と重なりま
す。パウロの宣教団は、『神に希望を置き』活動していました。パウロが困窮する人々に与えたいものは、他の
何者よりも、希望です。生きる希望です。


◇ 否定的なのは、その後6節です。

 … 放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。…

 厳しい口調ではありますが、現実そんな人がいたのでしょう。希望がありません。

 8節も、断定的に厳しいことを言いますが、これも、現実なのでしょう。

 9〜10節も同様です。

 当時の教会は、貧しい人たちを経済的にも支えていました。しかし、支えられる人数には、限りがあります。ど
うしても、制限を設けなくてはなりません。

 9〜10節の資格が、妥当かどうかは、議論があるでしょうが、些末なことです。少なくとも、今日の、入居金
や月々の費用が払えるか、という基準よりは、妥当だと考えます。


◇ 11節。

 … 年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、

   情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、

  12:前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。…

 何とも一面的な見方、理屈であり、乱暴な言葉遣い、かも知れません。しかし、そういう人が現実にいたので
しょう。私が、パウロの代わりに謝っても仕方がありません。そんなことは、出来る筈がありません。

 ここでも、パウロの言葉尻を捕らえるような読み方は、意味がありません。そうではなくて、この当時の教会に
寄り集まった人々を思うからこその、パウロの発言です。

 13節は、より酷い言葉、決めつけとさえ聞こえますが、矢張り、この時の現実なのでしょう。理念哲学を論じ
て居るのではありません。現実を見、現実に対処しているのです。


◇ 14節。

 … だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、

   家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。… 

 ここは、現代ではセクハラ、マタハラと言われるでしょう。

 勿論、パウロの真意は、そして背景は、既に述べた通りです。15節が、現実ですし、16節が、再婚を奨め
る事情です。それでも、現代人からは、批判が消えないでしょう。

 逆に言えば、今日のこの箇所、パウロの勧めを、文字通りに受け止めて、実践しなければならないと考えるの
はどうでしょうか。殆ど意味をなさないと思います。パウロの言葉を武器にして、現代の寡婦を縛るのは、パウロ
の意図からは、全く遠いと考えます。

 パウロの本意は、貧しい人、弱い人、苦悩している人を救うことにあり、何より希望を与えることにあります。教
会はその働きをしなくてはならない、教会にはその力があると説得することに、パウロの真意があります。

 その具体的方法論となりますと、これは、時代の違い、国の違いがあります。その中で、教会は何が出来る
か、何をしなくてはならないか。そのように考えるべきでしょう。


◇ ノアは、その信仰と働きで、洪水を乗り切りました。その信仰と働きの上に、ノアの子供たちの命も、財産
も、日々の生活も、存続出来ました。

 しかし、ノアも人間ですから、間違いを犯すこともあります。年寄れば、その頻度も程度も進かも知れません。
その失敗や罪を、厳しく咎め立て、まして弾劾や排斥をすることは、自分が立っている地面を否定する業です。

 『老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。』叱ってはならないと言いますが、同時
に諭しなさいとも言います。何事も言いなりになりなさいではありません。それが親孝行ではありません。時に、
間違いを糺すこともありますでしょう。

 問われるのは、『自分の父親と思って』相手しているかどうか、これだけです。