◇ 創世記9章を先ず引用します。長い引用ですが、『ノアの洪水物語』の末尾、ほんの一部、後日譚に過ぎ ません。 … 21:あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。 22:カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。 23:セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、 父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。 24:ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、 25:こう言った。「カナンは呪われよ 奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」 26:また言った。「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。 27:神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)セムの天幕に住まわせ カナンはその奴隷となれ。」… 多くの人が、不可解、理不尽と思い。少なからぬ人が、嫌悪感さえ抱く箇所です。 ◇ 先ず、『義人ヨブ』の物語の主人公が、飲み過ぎて酔っ払い、裸で寝込んでいるという事実そのものに、反 感を覚えるでしょう。もっと納得がいかないのは、ヨブが、息子ハムの行動を理由に、彼の子孫、ヨブ自身の子 孫にもなる訳ですが、これを呪ったことです。しかも、ハムではなく、その子カナンとその子孫が、呪いの対象とな っています。 飲み過ぎて酔っ払らったのは、自分でしょう。我が身を呪いなさいと言いたくなります。 ◇ 何故、ハム、カナンは駄目で、セムとヤフェトは褒められるのか、これを、それぞれの子孫とされるハム族、カ ナン族、セム族、ヤフェト族だとして、これにイスラエルの歴史を重ねて読むのは、ごく自然だとは思います。一種 の原因譚です。 しかし、その説明で、現代の読者が抱く違和感は拭えません。両者の違いを比べて見たいと思います。 『ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。』つまり、父の酔態を蔑み、他の兄弟に告 げ口しました。一緒に笑うためでしょうか。 一方、『セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、 父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。』つまり、父の酔態を見ないようにし、これを 覆い隠しました。 ◇ 人は、失敗する生き物です。間違いを犯します。みっともない羽目に陥ることもあります。そうした時に、この 人を、蔑むのか、人の眼に曝すのか、それとも、庇うのか、この違いです。私たちには、理不尽と見えますが、聖 書は、ハムの行為を、赦されざる罪と、告発しています。 『義人ヨブ』でさえ、年をとり、酔態を曝すという失敗をしました。『義人ヨブ』でさえそうなのですから、これは、 人間の免れ得ない定めです。 私は、今年になったら、急にお酒が飲みたくなくなりましたし、飲めなくなりました。ですから、酔態を曝す危険 はなくなりました。それとも、ビール一杯で、酔態を見せるのか、これは未だ分かりません。 何お酒のことだけではありません。他にもいろいろな醜態があります。しかも、年齢故の醜態があります。それ を今数え上げる必要はありませんので省略します。しかし、確実に、醜態があります。しかも、年齢故の醜態が あります。 ◇ 1節を読みます。 … 老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。… 老人が老人であるが故の失態を演じたとします。パウロは、それを『叱ってはなりません。』と諭します。かつ、 『むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。』と奨めます。 ここは大事な点だと思います。他人の親ならば、笑って済ませます。ある意味、寛容です。自分の親だから、 黙ってはいられないし、躓きます。がっくりします。結果、他人なら優しく見守っているようなことでも、きつく咎めた りします。口に出して叱ります。 しかし、パウロは、『むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。』と教えます。 私たちは、『自分の父親』だからこそ、叱ってしまいます。叱るだけではなく、否定し、投げ出し、自分は逃げ 出します。しかし、パウロは、『むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。』と教えます。『諭しなさい』と言います。 つまり、ただただ、見て見ぬふりをしなさいとは言っていません。親だから、どんな不当なことも、我慢して従いな さいとは言っていません。 つまり、必ずしも、セムとヤフェトのようでありなさいとは言っていません。 パウロが説いているのは、行いではなく、父として見ているのか、父だと思って、それを前提にして対処している のか、これを問題にしています。 ◇ … 若い男は兄弟と思い、2:年老いた婦人は母親と思い… ここも同じことです。 『若い男は』、『若い男』だからこその、失敗をします。罪さえ犯します。その時に、「今時の若者は」と、全否 定するのか、それとも『兄弟と思い』、心を痛めながら、諭すのか、この違いは大きいものです。 『年老いた婦人は母親と思い』、これも理屈は全く同じです。今時、男女の違いを言ってはならないかも知れ ませんが、現実ではあります。『年老いた婦人』ならではの、そこまで言わなくても、『年老いた婦人』にありがち な失敗も罪もあります。 これも、パウロには、『諭しなさい』とする対象です。 ◇ 2節の後半。 … 若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。… ここは、少し調子が違います。言葉の調子ではなく、対象の違いからでしょうか。 ここでも、男女の違いを言ってはならないかも知れませんが、現実ではあります。『若い女性には』、『若い女 性』だからこその、危惧があります。心配しなくてはなりません。それは、差別ではありません。 『若い女性』を、肉体的にも社会的にも弱い存在だと考えて、それを前提にしてものを言ってはならないでしょ う。しかし、現実的な心配は確かにあります。 ◇ 3節。 … 身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。… また、調子が変わります。矢張り対象の違いです。ここでは、『諭しなさい』とは、言われていません。『大事に してあげなさい』です。『やもめ』になった事情は、それぞれに違うでしょう。その理由をパウロは、問題にしていま せん。どんな事情でも、『大事にしてあげなさい』です。 今の時代も、この時代でさえも、『やもめ』が、必ずしも、経済的に困窮しているとは限りません。『大事にして あげなさい』とは、金銭面のことだけではないと思います。 逆に言いますと、経済的には何も出来ないようだけれども、教会にも出来ること、なすべきことはあると思いま す。 ◇ 5・6節で『やもめ』について、もっと具体的に触れられていますので、先ずは、4節を読みます。 … やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、 親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。… ここにこそ、反感を覚える人がありますでしょう。扶養義務、これに苦しむ人は今の世にもいます。決して少な くありません。 扶養義務、介護義務もあるでしょう。戦前までは、このために身売りを強いられた歴史が存在します。現代 では、介護のために、職を捨てる、自分の将来そのものを捨てる人、これを強いられる人が確かに存在します。 私は、かの養老・孝子の教えが大嫌いです。養老の滝など、とんでもないと思います。 若い人は聞いたことがないかも知れませんので、簡単に説明します。 親孝行な息子が父親が寝ていて蚊に刺されてはならないと、傍らに裸で寝て蚊避けになるとか、父親にもっと お酒を飲ませて上げたいと苦労し、最後は、酒が泉と湧く滝を見つける話もあります。とんでもない。こんな父 親のために、自分を犠牲にしてはなりません。 ◇ この点、パウロさんの説に全く賛成は出来ませんが、パウロも全く自己犠牲的に親に仕えろと言っているので はないと考えます。 そもそも、初代教会は、アガペーと言われますが、貧しい人、食べ物に不自由する人、特にやもめや孤児に、 手を伸ばしていました。これらの人が一緒に食事をするのが、アガペーであり、これは、聖餐式の起源の一つと 考えられています。 大勢の人が、教会を、教会での食事を当てにして生きていました。当然、教会が提供出来ることには限界が あります。寝床も、食べ物も、限られています。 だから、『やもめに子や孫がいるならば』となります。そういう理屈で、養老・孝子の教えと一緒くたには出来ま せん。酒を飲み、裸で寝込むなど、ノアの物語と不思議な共通点がありますが、その理由は、私には分かりま せん。兎に角、似て非なる教えです。 ◇ 5節。 … 身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、 昼も夜も願いと祈りを続けますが、… まるで修道女の姿です。パウロは、これを肯定的に描いています。『神に希望を置き』、4章10節と重なりま す。パウロの宣教団は、『神に希望を置き』活動していました。パウロが困窮する人々に与えたいものは、他の 何者よりも、希望です。生きる希望です。 ◇ 否定的なのは、その後6節です。 … 放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。… 厳しい口調ではありますが、現実そんな人がいたのでしょう。希望がありません。 8節も、断定的に厳しいことを言いますが、これも、現実なのでしょう。 9〜10節も同様です。 当時の教会は、貧しい人たちを経済的にも支えていました。しかし、支えられる人数には、限りがあります。ど うしても、制限を設けなくてはなりません。 9〜10節の資格が、妥当かどうかは、議論があるでしょうが、些末なことです。少なくとも、今日の、入居金 や月々の費用が払えるか、という基準よりは、妥当だと考えます。 ◇ 11節。 … 年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、 情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、 12:前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。… 何とも一面的な見方、理屈であり、乱暴な言葉遣い、かも知れません。しかし、そういう人が現実にいたので しょう。私が、パウロの代わりに謝っても仕方がありません。そんなことは、出来る筈がありません。 ここでも、パウロの言葉尻を捕らえるような読み方は、意味がありません。そうではなくて、この当時の教会に 寄り集まった人々を思うからこその、パウロの発言です。 13節は、より酷い言葉、決めつけとさえ聞こえますが、矢張り、この時の現実なのでしょう。理念哲学を論じ て居るのではありません。現実を見、現実に対処しているのです。 ◇ 14節。 … だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、 家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。… ここは、現代ではセクハラ、マタハラと言われるでしょう。 勿論、パウロの真意は、そして背景は、既に述べた通りです。15節が、現実ですし、16節が、再婚を奨め る事情です。それでも、現代人からは、批判が消えないでしょう。 逆に言えば、今日のこの箇所、パウロの勧めを、文字通りに受け止めて、実践しなければならないと考えるの はどうでしょうか。殆ど意味をなさないと思います。パウロの言葉を武器にして、現代の寡婦を縛るのは、パウロ の意図からは、全く遠いと考えます。 パウロの本意は、貧しい人、弱い人、苦悩している人を救うことにあり、何より希望を与えることにあります。教 会はその働きをしなくてはならない、教会にはその力があると説得することに、パウロの真意があります。 その具体的方法論となりますと、これは、時代の違い、国の違いがあります。その中で、教会は何が出来る か、何をしなくてはならないか。そのように考えるべきでしょう。 ◇ ノアは、その信仰と働きで、洪水を乗り切りました。その信仰と働きの上に、ノアの子供たちの命も、財産 も、日々の生活も、存続出来ました。 しかし、ノアも人間ですから、間違いを犯すこともあります。年寄れば、その頻度も程度も進かも知れません。 その失敗や罪を、厳しく咎め立て、まして弾劾や排斥をすることは、自分が立っている地面を否定する業です。 『老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。』叱ってはならないと言いますが、同時 に諭しなさいとも言います。何事も言いなりになりなさいではありません。それが親孝行ではありません。時に、 間違いを糺すこともありますでしょう。 問われるのは、『自分の父親と思って』相手しているかどうか、これだけです。 |