日本基督教団 玉川平安教会

■2024年7月14日 説教映像

■説教題 「天に唾する者は」

■聖   書 オバデヤ書11〜15節 


▼ 今日与えられているのは、旧約聖書のオバデヤ書です。オバデヤ書と聞いても、あまり馴染はないかも知れ
ません。滅多に読む機会がありません。

 ペイジを開くことさえ大変ではないでしょうか。この辺りと見当を付け、パラパラとめくっても見逃してしまうほどで
す。1章だけ、2ペイジだけ、つまり、紙一枚だけしかありません。アモス書の後、ヨナ書の前と覚えておかないと、
開くことが出来ません。


▼ さて読み始めますと、エドム民族に対する裁きが、かなりきつい言葉で、並べ立てられています。2節には、
このように記されています。

  … 「見よ、わたしはお前を 諸国のうちで最も小さいものとする。

   お前は、大いに侮られる。…

 7節には、

  …  7:お前と同盟していたすべてのものが お前を国境まで追いやる。

   お前の盟友がお前を欺き、征服する。

  お前のパンを食べていた者が お前の足もとに罠を仕掛ける。

  それでも、お前は悟らない。…

 預言者の言葉とはいえ、耳障りの良くない、容赦のない裁きが記されています。呪いとさえ言える内容です。

 私たちは、エドムの人々に対する思い入れなど全く持っていませんから、聞いていられますが、それでも、心地
良くない響きなのではないでしょうか。


▼ 何故、エドムは、ここまで徹底的に批判され、糾弾されなくてはならないのでしょうか。そもそも、何故、聖書
は、このような激しい裁きの言葉を記し、残さなければならなかったのでしょうか。その理由には、10節で触れら
れています。

 … 兄弟ヤコブに不法を行ったので お前は恥に覆われ、とこしえに滅ぼされる。…

 私たちは、創世記に記されたエサウとヤコブの物語を知っています。

 オバデヤ書の厳しい預言を受け止めるためには、そこから読み始める必要があるでしょう。また、オバデヤ書の
時代のユダとエドムの関係について、いろいろと検証しなくてはならないのかも知れません。


▼ しかし、ユダとエドムの歴史を調べなくとも、11節を読みますと、エドムの罪が見えて来ます。

 … お前が離れて立っていたあの日 異国の者がエルサレムの財宝を奪い

   他国の者がその門に入り エルサレムをくじ引きにして取った

   あの日に お前も彼らの一人のようであった。…

 何年何月の出来事と特定する必要もありません。エルサレムが外国の軍隊に攻められ、略奪を受けました。
その時に、エドムは、傍観していました。『お前が離れて立っていたあの日』、傍観しているだけで、エルサレムを
助けようとはしません。

 このこと自体は、仕方がないかも知れません。エドムにも言い分はあるでしょう。聖書でエドムとイスラエルの歴
史を読むと、エドムからしたら、親近感よりも、反感の方が強いかも知れません。強力な軍隊に抗って、エルサ
レムを支援する義理は感じないでしょう。

 しかし、それだけではありません。『お前も彼らの一人のようであった。』

 むしろ、略奪に加担していました。

 これまでの歴史を振り返って、ユダが苦しむ様を、小気味よいこととして眺めていたのです。一緒になって虐め
ることに、快感を感じていたようです。


▼ 12節。

 … 兄弟が不幸に見舞われる日に お前は眺めていてはならない。

  ユダの人々の滅びの日に お前は喜んではならない。

  その悩みの日に 大きな口をきいてはならない。…

 これが、エドムの姿だったのでしょう。エドムにも言い分はあるでしょう。『兄弟』だと認めたくないかも知れませ
ん。しかし、長い歴史を通じて、隣りあって居住しています。隣接しているからこそ、利害が対立することも、争
いもあるでしょう。

 しかし、隣同士で住まいしている、矢張り兄弟です。

 兄弟が苦しむ時に、それをただ黙って見ていることは、罪でしょう。まして、隣人の苦悩を『喜んでは』なりませ
ん。それは、大きな罪です。

 

▼ ロバート・ウェストールという作家に『弟の戦争』という作品があります。簡単に紹介しますと、イラクで戦う少
年兵士の魂が、イギリスに住む少年の魂に入り込んでしまいます。彼は、イギリスの平和な町にいながら、同時
に、イラクの戦場での、激しい戦闘を、殺戮を目にします。

 少年の心は、遠い土地の戦争によって傷付けられ、破壊されて行きます。

 ウェストールには、戦争と少年を描く作品が多数あります。その何れも、深く心に残る、読者も戦場に引き出
されるような、リアリティーある物語です。この人には、幽霊が登場する作品もあります。その幽霊物語さえも、リ
アルです。


▼ 『弟の戦争』が語っているのは、平和な国に暮らす者は、戦火にある国々を、そこに住む人々の苦しみを、
全く他人事だと思っているということでしょう。遠い遠い国の、遠い遠い出来事だとしか感じないという批判でしょ
う。

 確かに、距離があります。苦しむ子供たちの泣き声も、聞こえません。彼が受けた傷は、まして心の傷は、私
たちには見えません。

 せいぜいテレビの画面を通してしか見えません。テレビでは、傷みは感じられません。匂いもありません。恐怖
も100倍、1000倍に薄められています。あまり残酷な場面になると、私たちはスイッチをオフにします。そうする
と、もう何も聞こえません。何も見えません。聞かなくて、見なくて済みます。


▼ しかし、正に、今この時間に、爆撃があり、銃撃があり、餓えがあります。

 私たちが感じないだけです。

 12節の『その悩みの日に 大きな口をきいてはならない。』、の意味は良く分かりません。こんなことを想像し
ました。

 遠い土地、アフリカとか、中近東とかの戦争、テロの報道を聞きますと、同情もしますが、同時に、「なんて、
愚かな人たちだろう」と思います。「なんて、酷い国だろう」とさえ思います。更に、この国の問題点について、指
摘したり批判したりします。

 遠い土地にいて、傷くも痒くもないから、全て分かったように思い、それを、実に簡単に口にします。13節を読
みます。

 … その災いの日に わが民の門に入ってはならない。

  その災いの日に 苦しみを眺めていてはならない。

  その災いの日に 彼らの財宝に 手を伸ばしてはならない。…

 他の国の、他の人の苦しみを傍観していてはなりません。まして、それに付け入って、自分の利益としてはなり
ません。

 エドムは、この罪で告発されています。歴史上の、実際の真偽は分かりません。エドムが告発されている罪
の、有罪無罪も分かりません。

 そんなことではありません。これが、私たち自身の姿ではないかということです。


▼ もし、この聖書個所を読んで、感想は、「エドムの罪は大きい。刑罰を受けて当然だ。」だったとしたら、それ
は、正にエドムの罪と同じではないでしょうか。

 自分には関係ないと傍観を決め込むこと、まして、「あんな奴はやっつけられて当然だ。」と言ったら、それは、
ここに描かれたエドムが犯した罪と、同じ罪です。14節。

 … 逃げて行く者を殺すために 別れ道で待ち伏せしてはならない。

  その悩みの日に 生き残った者を引き渡してはならない。…

 まるで落ち武者狩りです。私たちは、映画やテレビドラマで観るだけですが、歴史上、そんなことが実際にあり
ました。とても実際にあったとは信じられない恐ろしさです。

 人間、そこまで、冷血になれるものでしょうか。しかし、実際にあったのです。

 落ち武者狩りは、遠い遠い昔の出来事でしょう。しかし、昔とは言えない時代にも、中国やロシアや沖縄を舞
台に、このような出来事が現実に起こり、日本人は、その時々に加害者であり、また、被害者となった人もいま
した。


▼ 15節。

 … 逃げて行く者を殺すために 別れ道で待ち伏せしてはならない。

  その悩みの日に 生き残った者を引き渡してはならない。…

 こんな出来事が実際にありました。私たちは、そんな非道なことはしません。そんなこととは無縁です。本当に
そう言い切れるのでしょうか。

 聖書の時代のような残虐行為はなくとも、現代日本もまた、激しい競争社会です。

 教会という、一種シェルターのような世界にいても、世の中が、激しい競争社会であることは、実感させられま
す。


▼ 私は、12年間島根の松江に住んでいました。多くの知人が、観光をかねて訪ねて見えます。その度に、出
雲大社を案内します。殆どがクリスチャンですから、お参りではなく観光です。それが何十回も重なって、私はす
っかり出雲大社に飽きてしまいました。お客さんが観光している間、私は暇つぶししています。その格好の暇つぶ
しとは、絵馬を見ることでした。出雲大社ですから、良縁祈願が多いのですが、合格祈願もあります。むしろ、
良縁祈願よりも多いかも知れません。

 あることに気付きました。祈願はあっても、願いが成就した御礼の絵馬は、殆どありません。12年間で、何枚
かしか見ていません。

 後に、靖国神社で絵馬を見たこともありました。靖国神社なのですから、平和の祈願があってしかるべきだと
考えますが、ありません。殆ど合格祈願です。しかも、何故か人気のキリスト教主義学校への合格祈願です。
そして、合格御礼はありません。


▼ そんなことから、考えさせられました。合格祈願です。もしお参りの御利益があって、合格したとしたら、その
人の分、誰かが不合格となります。

 もし、出雲大社や靖国神社に神さまがいて、絵馬を捧げる人の願いを聞いているとしたら、この神さまは、随
分と、安っぽい神さまで、ことの是非を弁えない神さまです。賽銭をはずんで、絵馬に記せば合格、それをしな
いと不合格、そんな神さまに、何の魅力も感じられません。こんな神さま、こんな安っぽい信仰が、この世の現
実でしょうか。

 

▼ 8節。

 … その日には必ず、と主は言われる。わたしはエドムから知者を

  エサウの山から知恵を滅ぼす。…

 裏側から読めば、エドムにも、知者がいたことになります。知恵があったことになります。しかし、知者は、彼らの
知恵は、正しく働かなかったようです。

 彼らは利に賢かったのかも知れません。外交戦術としては、エルサレムを見捨て、むしろ、これを攻める者に味
方した方が正しかったのかも知れません。しかし、その知恵は、浅知恵です。本当に知恵があれば、7節の結
果を見通していなくてはなりません。

 … お前と同盟していたすべてのものが お前を国境まで追いやる。

   お前の盟友がお前を欺き、征服する。 お前のパンを食べていた者が

   お前の足もとに罠を仕掛ける。それでも、お前は悟らない。…

 こうなるのは、理の当然です。知者がそれを見ないのは、目の前の利益に捕らわれているからです。この知者
は、目先のことしか見えません。もっと先のことを見ていません。この知者は、未来が見えません。本当に未来を
見るのは、知恵ではありません。信仰です。


▼ こんな風に読んでいますと、オバデヤ書は、遠い昔に語られた、中東の狭い地域のことではないように思いま
す。同じようなことが、今でも繰り返されています。

 私たちは、目の前の利益ではなく、目の前の感情ではなく、神の義に立たなくてはなりません。そうでないと、
結局は、我が身を滅ぼします。

 エドムへの弾劾の言葉が、我が身に返ってきます。

 イエスさまは、『あなたの隣人を愛しなさい』と、教えられました。私たちは、この言葉に従いたいと思っていま
す。何しろ、イエスさまの言葉なのですから。

 しかし、隣にいる人を見て、この人を愛することが出来ません。

 その人には、愛されるべき資格も、値打ちもないと判断します。そこで、もう一寸先にいる人に目をやります。
この人なら、愛することが出来ると判断します。そして、仲良くなります。友人が出来ました。隣人を愛することが
出来ました。

 本当にそうでしょうか。隣人を選んだだけです。


▼ エドムの人は、ユダの人を隣人とは認めたくなかったようです。隣に住んでいるだけでは隣人とは言えないと
判断しました。むしろ、敵のように思っていたかも知れません。隣に敵が住んでいたら大変です。平和などありま
せん。一日だって、心に平安はありません。オバデヤ書も、エドムの人を隣人とは思っていないのでしょうか。だか
ら、このように厳しい裁きを語っているのでしょうか。それとも、隣人だと考えているからこそ、エドムがユダにした仕
打ちが、赦せないのでしょうか。両方かも知れません。

 

▼ しかし、私たちは、イエスさまの教えを知っています。

 『あなたの隣人を愛しなさい』と、教えられました。

今現在、隣にいる者が、隣人です。認めたくない場合もありますが、今現在、隣にいる者が、隣人です。オバ
デヤ書は預言です。預言は、全てイエスさまに依って成就します。

 

▼ 18節には、一段と厳しい裁きが記されています。

  … ヤコブの家は火となり ヨセフの家は炎となり エサウの家はわらとなる。

  火と炎はわらに燃え移り、これを焼き尽くす。

  エサウの家には、生き残る者がいなくなる」と まことに、主は語られた。…

 この預言を、エサウの家に語られたものとして聞くだけでは、不十分でしょう。我が身に語られたこととして聞く
べきです。