日本基督教団 玉川平安教会

■2025年7月27日 説教映像


■説教題 「ぶどう酒を少し」

■聖   書 テモテへの手紙一 5章17〜6章2節 


◇ 18節を先に読みます。

 … 聖書には、「脱穀している牛に口籠(くちこ)をはめてはならない」と、

   また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と書かれています。…

 これは申命記からの引用です。パウロたちが読んでいた申命記とは、翻訳版が違いますから、何章何節と言
ったら、却って面倒臭くなります。しかし、このような記述が聖書の中にあることは、興味深いことです。

 孫が住んでいる若葉台の駅近くの公園に、山羊が飼われています。綱は付いていますが、長くて、行動半
径も広く、かなり自由です。山羊は、傾斜地の草を食べて、公園の美化整備に働いています。その労働の報
酬は、食べる草、そのものです。労働イコール報酬、分かり易くって良いと思いました。勿論、雨露を凌ぐ小屋
も与えられていると思います。


◇ 18節の牛もまた働いています。牛も綱を付けられて、真ん中の棒杭から、綱の長さだけの自由を持ってい
ます。自由とは呼べないでしょうか。綱の長さだけの自由です。

 牛もまた報酬を貰います。麦の籾が、牛が歩くことで脱穀されます。牛は、麦藁を食べます。麦そのものも食
べるかも知れません。どのくらい食べるかまでは分かりません。

 その脱穀している牛に、『口籠をはめてはならない』と申命記に記されています。申命記には、奇妙に見える
程に、細かいと言いますか、些末にも見える戒めが記されています。

 一つだけ例を上げます。24章5節。

 … 人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、

  一年間は自分の家のためにすべてを免除される。

  彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。…

 趣旨は分かります。良いとも思います。しかし、こんなことが律法、日本で言えば法律に記されていることが不
思議です。これを、早く子どもを設けるためだと解釈し、富国強兵と結び付けて批判する人もいますが、どうで
しょうか。

 もっと普通に、素直に読めば、現代の育児休暇をこそ連想させられます。これはほんの一例に過ぎませんが、
厳しく人間の生活、一挙手一投足をも規制しているような印象のある律法は、よくよく読めば、弱い立場にあ
る人間への思いやりに満ちています。


◇ 17節に戻ります。

 … よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは

   二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。…

 長老とは、今日で言えば、役員ではなく、むしろ牧師と解釈してよろしいでしょう。教会で専門職として働いて
います。彼らについて『二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。』と言います。

 これは牧師の立場からは、言いにくいことですが、明確に聖書に記されているのですから、言うべきでしょう。
牧師は、教会から報酬を貰う権利があるということです。

 こんなことを言わなくてはならないのは、当時の教会員の中に、牧師が報酬を貰うことに反対する人がいたか
らでしょう。今日でもいます。

 『二倍の報酬』か、人並みかは知りませんが、反対する考えはあります。そのように考える自由はありますし、
主張するのも自由でしょう。牧師が無報酬の教会も存在します。それで、教会も牧師もやっていけるのなら、そ
れでよろしいでしょう。

 しかし、何であれ、聖書がこのことに言及しているという事実そのものが面白いと、私は考えます。


◇ 19節。

 … 長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、

   受理してはなりません。…

 これは、ちょっと考えてしまいました。構図が良く分かりません。訴えを『受理』するのは、誰でしょう。

 今日の教団に当て嵌めて読んでも良いのでしょうか。教団なら、牧師に不行跡があった場合、教会の役員
会は、それを教区に訴え出ます。場合によっては、教団の教師委員会、事柄によっては、信仰職制委員会で
審理を受けます。

 私は、教師委員会も信仰職制委員会も経験ありませんが、これに陪席する権利を持っていて、行使したこと
もありましたので、幾らかは現実を知っています。

 そんな現実が、今の教団にはあります。同じ牧師として情けないことですが、あります。

 そして、パウロの時代の教会にもあったのでしょう。

 極めて現実的な、醜い問題を、今、パウロは論じているのです。


◇『二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。』とは、要するに慎重に扱いなさいと言うこ
とでしょう。軽々しく対処してはなりません。

 その一方で20節。

 … 罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、

   ほかの者も恐れを抱くようになります。…

 かなり厳しい対処です。

 マタイ福音書18章、少し長い引用になります。

 … 15:「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、

  行って二人だけのところで忠告しなさい。

  言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。

  16:聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。

   すべてのことが、

  二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。

  17:それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。

  教会の言うことも聞き入れないなら、

  その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。…

 これはイエスさまの言葉です。こちらの方がより慎重です。しかし、最後の言葉には、厳しいものがあります。
結局、テモテ書と同じでしょう。


◇ 21節前半。

 … 神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。

   偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。…

 ここは理解出来ます。『偏見を持たずに』とは、自分だけの好き嫌いや価値観で測ってはならないという意味
でしょうか。

 

◇ 21節後半。

 … 何事をするにも、えこひいきはなりません。…

 前半と、繋がりがちょっと分かりません。しかし、『偏見を持たずに』と『えこひいき』とは、重なるかも知れませ
ん。『えこひいきはなりません』もまた、自分だけの好き嫌いや価値観で測ってはならないという意味でしょうか。


◇ 22節前半。

 … 性急にだれにでも手を置いてはなりません。…

 また話が飛躍したようにも聞こえます。しかし、『偏見を持たずに』と『えこひいき』とは、繋がるかも知れません。
『手を置』くとは、長老に任命することです。聖書の箇所によって、牧師の意味だったり、役員の意味だったりしま
す。まだ、牧師、役員の職制が出来上がってはいません。ですから、先ほど、一応、牧師として読んだ17〜1
8節も、今日の役員かも知れません。

 そうしますと、『報酬』も、牧師給のことではないかも知れません。むしろ、尊敬、名誉のようなことに解釈出来
るかも知れません。

 いずれにしても、本質的なことは変わりません。大事な役割です。

 それだけに、これを選ぶには、慎重さが必要だし、手続きも必要であり、『偏見を持たずに』、『えこひいき』に
ならずに、選出されなくてはなりません。


◇ 22節後半。

 … 他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい。…

 これは選ばれる人、長老についての戒めです。

 『他人の罪に加わってもなりません』。当然と言えば当然です。しかし、自分では罪を犯さなくとも、『他人の
罪に加わって』しまうことは、あるでしょう。自分では手を汚さなくても、共犯だったり、むしろ、主犯だったりしま
す。悪意なく、荷担してしまう場合もあります。それらの罪は、決して軽い罪ではありません。

 先ほど引用したマタイ福音書18章の直前6節。

 … 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、

   大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。…

 誰の目にも明らかな犯罪だけが罪ではありません。他の人の眼には留まらなくとも、より深い罪があります。

 躓く人、挫折する人はいます。しかし、その人の弱さ故の躓き、挫折だと言って、片付けてはなりません。躓か
せる人の罪は大きいと、イエスさまが仰います。

 自分自身の言動を制御出来ない人は、牧師や長老には向かないでしょう。


◇ 23節。

 … これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、

   ぶどう酒を少し用いなさい。…

 何とも、理解出来ない不可解な言葉です。どんどん話が飛躍して脈絡がないようにしか聞こえません。

 本当に脈絡はなく、ただ、思いつくままに語っているのかも知れません。

 脈絡はつかなくとも、背景なら分かります。これらは、全て、パウロが弟子のテモテに語る言葉・教えです。テモ
テ書をパウロの筆ではないと言う人もあります。しかし、少なくとも、前提は、パウロが弟子のテモテに語る言葉・
教えです。そのように聞けばよろしいし、聞くべきと思います。


◇ テモテには、『度々起こる病気』があったようです。どんな病気かは記されていないので分かりません。

 『水ばかり飲まないで、胃のために』とあります。これでは病名は分かりませんが、想像させられます。テモテ
は、質素と言うよりも、質素すぎる生活をしていたのではないでしょうか。この当時の人々にとっては当たり前の、
食事の際のぶどう酒も飲まず、パンと水ばかりの食事をし、病気よりも前に、栄養不良だったのでないでしょう
か。

 『度々起こる病気』は、何とか病ではなく、栄養不足による虚弱だったのではないでしょうか。これは、私の解
釈、むしろ想像に過ぎません。あまり根拠はありません。しかし、的外れではないと、私は考えます。

 そのことと、18節、17節とは、無関係ではないかも知れません。教会員の援助や食事の差し入れにも遠慮
し、質素すぎる食生活で、パウロが心配する程だったのではないでしょうか。こんな想像は、私だけのものかも知
れませんが、外れてはいないと思います。


◇ パウロは、そんなテモテに、『水ばかり飲まないで〜ぶどう酒を少し用いなさい。』と諭します。これは、たまに
はお酒でも飲んで気分を変えなさい、時に仕事を忘れて遊びなさいと言う意味ではないでしょう。

 ですから、この言葉は、酒飲みの口実にはなりません。食事、栄養、体調のことです。

 何れにしろ、このようなパウロの気遣いには、とても嬉しい気がします。とても現実的な配慮です。まじめすぎる
テモテだって、ちゃんと食べる物を食べ、飲むものを飲み、そして、休養も取らなければ、働くことは出来ません。

 

◇ パウロは使徒言行録でも、似たような配慮を見せます。とても現実的な手当です。

 舟が嵐に沈みそうになった時に、言います。28章33〜34節。

 … 夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。

   「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。

 34:だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。…

 船が沈没するかと思われる時、パウロは、パウロの意見を聞かずに、出航した船員たちを責めるのではなく、
彼らのために祈るのでもなく、『どうぞ何か食べてください』と勧めます。

 極めて現実的なのです。パウロは、自分は神さまの名によって、ローマに行かなくてはならない、だから、途中
で死ぬことはないし、死んではならないと言います。理想、使命を持っている人間は、現実的なのです。現実
的でなければなりません。

 現実を無視した発言をする人は、実は、理想を持たない人です。


◇ 24〜25節は、そのようなパウロの思想の根拠です。神の裁き、神の導きを信じています。使徒言行録の
嵐の中の出来事と同じです。信仰の確信があるからこそ、極めて現実的な問題に、現実的に対処します。躓
きませんし、他人を呪うこともありません。ただ、今なすべきをなすだけです。テモテには、『ぶどう酒を少し』と諭し
ます。

 私たちも、理想を目的をしっかりと持ち、そのためにこそ、現実的でありたいものです。