▼ 16節から順に読みます。 … 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。… マルコにもマタイにも、夕方という言葉が出て来ます。しかし、意味合いが違います。マルコ・マタイでは、船を こいでいる内に夕方になってしまったという書き方です。ヨハネでは、『夕方になったので』とあります。ヨハネの方 が時間の経過、そして事柄の順番ということに拘っています。これは、ヨハネの特徴として上げられるものです が、ここでは、特に、一連の出来事が時間的にも連続して起きたことであり、互いに深い関連を持っているとい うことを強調しているように思います。 ▼17節。 … そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。… 6章の1節、22節も、ご覧下さい。 『その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた』 『その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、 そこには小舟が一そうしかなかったこと、 また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、 弟子たちだけが出かけたことに気づいた』 湖と、これを渡る舟のことに、諄い程、繰り返し言及しています。5000人のパンの前後で、湖と舟に言及さ れています。史実がそうだったからというのが、一番簡単で、説得力のある説明かも知れません。しかし、どう も、そんな単純なことではないようです。 ▼分かり易いように、答えから申し上げた方がよろしいようです。 新約聖書の他の箇所でも、殆ど例外なしにそうであるように、舟は教会を象徴するものです。そして、湖と は、この世界のことであり、嵐の湖とは、世が乱れ、例えば戦争の危機にあることを指します。 弟子たちは、その舟に、乗ったり降りたり繰り返します。教会という舟は、この世という湖に浮かんでいます。湖 に浮かんでいると言う点では、この世のものです。しかし、この世と全く同じものになることはありません。全く同じ になるとしたならば、それは、舟が沈没した時です。或いは、老朽化して岸に繋ぎっ放しになる時です。 弟子たちは、その舟に、乗ったり降りたり繰り返します。この世と教会とを行ったり来たりしなければなりません。 ▼17節の後半。 … 既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。… 時に拘るのが、ヨハネ福音書の特徴です。時に拘るとは、順番に拘ることであり、また言い換えれば、論理に 拘ります。筋道に拘ります。 イエスさまの十字架を巡る全ての出来事は、神秘的な計画に基づくものであり、偶発的に起こったことは、何 一つありません。それは、教会についても当て嵌まります。 『既に暗くなっていた』、教会を知り囲む状況は、決して明るくはありません。イエスさまの時代も、今現在も、 です。そして、今、舟の中にイエスさまはおられません。 『イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった』とは、再臨のイエスさまのことかも知れません。イエスさま が、今現在舟の中にはおられないと言うだけではなくて、イエスさまがおられないままに、嵐の海を漕ぎ悩む教会 の姿が問題になっています。イエスさまの時代も、今現在も、です。 ▼18節。 … 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。… いよいよ、嵐が来ました。しかし、今、舟にはイエスさまがおられません。 この箇所を読む時に、私たちは、問わなくてはなりません。私たちの教会はどうなのかと。私たちの教会はこれ からどうなるのかと。 これは神学的に考えて、なかなかに、難しい問題だろうと思います。 十字架に架けられて復活し、その後昇天されたキリスト、やがて来たるべき来臨のキリスト、そして、一方でキ リストの体なる教会への信仰。私たちの教会に今現在、イエスさまはおられるのでしょうか。そうではないのでしょ うか。簡単な議論ではありません。 ▼さて、あくまでも、聖書に沿って、聖書に基づいて考えなければなりません。19節。 … 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、 イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。… 前半は特に問題ないと思います。後半です。 『イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた』 この辺りのことは、マルコやマタイの方が、詳しく臨場感がある描き方をしています。 マタイ福音書14章24〜26節。 『ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、 逆風のために波に悩まされていた。 25:夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 26:弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、 恐怖のあまり叫び声をあげた』 ▼ヨハネ福音書は、省略して描いているのかも知れません。その後の、20節。 … イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」… これは、マタイと殆ど同じです。ヨハネ福音書でも、弟子たちは、イエスさまを幽霊か何かと見間違えたのでしょ うか。はっきりとしませんが、とにかく、イエスさまだとは、分からなかったようです。 しかし、ヨハネ福音書が直接描いているのは、『イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼 らは恐れた』です。 弟子たちは、そして私たちも、イエスさまがおられないことが当たり前になっていて、『イエスが近づいて来られの を見』たならば、私たちは、恐れおののくのです。 それが私たちの教会の現実だと言うのです。イエスさまがおられないことが当たり前、イエスさまがおられないこ とを前提にして、教会の営みがなされています。 讃美歌を歌うにしても、お祈りをするにしても、まるで、そこにイエスさまがおられないかのように、聞いてはおら れないかのように、歌い、祈ります。まして、常議員会とか、教団総会とか、ヤジや怒号が飛び交うなど、とて も、イエスさまがおられることを前提にしている、聞いておられることを前提にしているとは思われないことがまかり 通ります。 ▼『イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」』この言葉をイエスさまは、何度も仰っています。厳密に 言いますと、『恐れることはない』とは、マタイやルカのクリスマス物語、そして復活の記事に現れる言葉です。ヨ ハネ福音書の場合、繰り返されるのは、『わたしだ』と言う言葉の方です。 何度かお話ししたエゴーエイミという独特の言い回しです。ヨハネ福音書は、マタイやルカよりも、もっと強調し て、今、此処にイエスさまがおられる、しかし、人々はそれを理解できずに、脅えたり恐れたりすると記していま す。 ▼21節。 … そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、 舟は目指す地に着いた。… 此処では、二つのことに注目致します。 一つは、『イエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた』この点です。イエスさまな しには、教会には目的地も終着点も存在しません。 『イエスを舟に迎え入れようと』する、当たり前のことの筈です。しかし、それが当たり前でなくなり、ややもすれ ば、邪魔にします。それが現代の教会の現実すも知れません。 ▼今一つは、『舟に迎え入れようとした』、このことに拘ります。迎えいれたらではありません。結局イエスさまは、 この時点で、舟に乗り込まれることはなかったのです。マタイとマルコでは、イエスさまが舟に乗り込まれると、嵐は おさまったという風に書いてあります。ところが、ヨハネ福音書では、『舟に迎え入れようとした』なのです。舟に乗 り込まれてはいません。 パンの出来事と、嵐の湖の出来事とに共通しているものとは何なのか。 それは、救いの確かさということです。イエスさまは、私たちにパンを下さった。それは、小さいもののように見え ながら、実は、大きな意味を持つものでした。 ▼6章11節をご覧下さい。 … さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、 座っている人々に分け与えられた。 また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。… 『感謝の祈りを唱えてから』です。イエスさまの手を経てからです。捧げられ、そして清めて用いられたのです。 僅かしかないものだから、平等に分配されなければならない、誰にも、自分の取り分を要求する権利があると 言うような話ではありません。もし、そのような話ならば、5000人で分けたら、それぞれの取り分はほんの一口 分もありません。 誰もが不満で、暴動が起こるかも知れません。戦争が始まるかも知れません。 ▼マルコ福音書のパンの奇跡も、ヨハネと同じ6章に記されています。34節。 … イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のような その有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。… 『飼い主のいない羊』を深く憐れんだ結果、イエスさまは、餓えた人々にパンを上げるのではなく、神の御言 葉を教えられたのです。 『飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた』『教えはじめられた』と記さ れています。「食べ物を与えた」とは記されていません。 これに比較して、ヨハネ福音書では、イエスさまは、食べ物のないことに同情しておられます。しかし、マルコ福 音書でも、ヨハネ福音書でも、肝心なことは同じです。 ▼人々が公平に分配したのではありません。神さまに捧げられました。その捧げものが、神さまの手によって、人 間に与えられたのです。この出来事の全体が、イエスさまの十字架と結び付いています。 イエスさまは、罪を犯した人間たちの捧げものとして、十字架に架けられました。勿論、捧げた人間たちは、そ の意味を理解してはいませんでした。 しかし、十字架に架けられたイエスさまは、今日も、礼拝・聖餐式という形で、人々に配られています。聖餐 式でいただくパンはほんの一切れです。葡萄酒も、一口分です。しかし、信仰をもって、聖餐式に預かった者な らば、このことを誰もが知っています。ほんの一切れのパン、一口の葡萄酒が、誰をも満足させるのです。 ▼人々は、しかし、それを理解することが出来ません。もっと多くのパンを、もっと大きな奇跡を求めます。或い は、もっと現実的に役立つものを求めます。 6章14〜15節を見ます。 … そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、 世に来られる預言者である」と言った。 15:イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、 ひとりでまた山に退か れた。… これが、5000人のパンの奇跡から、人々が受け止めたことでしたす。イエスさまは、人々の間に留まることは 出来ません。自分勝手に、キリスト像を作り上げるからです。 ▼6章34節以下もご覧下さい。 … そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 35:イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は 決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 36:しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。… ▼結局、全部同じです。26〜17節をご覧下さい。 … イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。 あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、 パンを食べて満腹したからだ。 27:朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、 永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。 これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。 父である神が、人の子を認証されたからである。… 私たちは、他のものをではなく、命のパンを求めなければなりません。 イエスさま、どうかこの舟に一緒に乗っていて下さいと祈ります。否、そのことを信じて、全てを主の手に委ねま す。 |