◆ 13節まで一緒に読むのが普通かも知れません。敢えて、7節までと8節以下に区切りました。それは、なる べく一語一語を、正しく、詳しく読みたいと考えたからです。そうしないと、この箇所は、大きな誤解を生むでしょ う。まるで見当違いな解釈になってしまう恐れがあります。 同じ理由から、聖書研究みたいになりますが、1節ずつ順に読みます。私は、多くの場合、このような仕方で 説教します。それでは説教ではなく聖書研究であり、説教になっていないと考える意見もあります。そのように聞 こえてしまうかも知れませんが、私は、説教ぽくするよりも、著者の意図を探り、正しく理解したいと考える立場 です。 無教会の指導者には、そのような説教、正しくは講義をする人が多いと思います。 ◆ 1節。 … わたしの子よ … 『わたしの子よ』と、パウロは呼びかけます。これが、パウロがテモテに教える時の、指導する時の、大前提で す。大事なことだと考えます。大前提は、先ず、テモテに対して我が子を思うような愛を持っているということで す。これがないならば、大抵の場合は、むしろ何も言わない方が賢明でしょう。 愛がない言葉は、教えは、聞いて貰えないし、そもそも語る意味がないでしょう。反発を招き、憎まれるだけ です。当然です。語る人に愛がないのなら、それに応えるのに愛は生まれません。むしろ、憎しみが生まれるで しょう。 方向が逆の時、つまり、子が親に意見する時も同様でしょう。子が親を窘める時の方が、この大前提は、決 定的に重要でしょう。 親は子に対して、つい、大声を上げたり、時には理不尽な要求をしたりします。 逆、子が親に対しての場合は、絶対に駄目です。 良く言われます。怒りを覚えたら、一秒、間を置いてから口を開きなさいと。親に対して物言う時には、最低 一分は必要でしょう。否、一日かも知れません。 ◆ 1節後半。 … あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。… 『強くなりなさい』がメッセージです。パウロがテモテに向けたメッセージですが、これは私たちにも向けられてい るでしょう。 『強くなりなさい』、これこそが、親が子に望むことです。強くならなければ、独り立ち出来ません。独り立ちこ そ、親が子に望むことです。勿論、もう面倒見るのに疲れたからではありません。面倒を見る体力、気力、そし て経済力が尽きたからでもありません。 時があるからです。親は何時までも子と一緒にはいられません。自分 がいなくなった後のことを心配するからです。それが親です。 ◆ 『強くなりなさい』、どうしたら強くなるでしょう。どんなトレーニングが必要でしょうか。 子どもにスポーツをさせる親は少なくありません。結果は、無理強いして、子どもに大きな負担をかける場合 が多いようです。子どもの健康、成長を願う親心ならば、それもありかも知れませんが。逆効果の恐れもありま す。 スポーツよりも遙かに重要だと考えて、子どもに勉強させる親は、少なくないどころか、それが当たり前だと見ら れているようです。結果は、無理強いして、子どもの心を深く傷付ける場合があります。 それでも親は、なかなか諦めません。スポーツならば、見切りを付けても、勉強となると、見切る訳にはまいり ません。子どもを思うからこそなのだから、仕方がないかも知れません。しかし、その傷は思いの他、深く、取り 返しが付かず、致命的な場合もあります。 『わたしの子よ』よりも、『強くなりなさい』の方に重きを置いていると、悲劇が生まれます。私はそのような事例 を、幾つか見ました。なんとも、悲しい出来事でした。 ◆ 『わたしの子よ』、『強くなりなさい』。これ自体にも更に、大前提があります。 『キリスト・イエスにおける恵みによって』です。 子を教えよう、鍛えようと思うならば、先ず、『キリスト・イエスにおける恵みによって』です。親もそうですし、子 どももそうです。先ず大切なのは、『恵み』です。これがなければ、スポーツだろうと、勉強だろうと、当人にとって は難行・苦行です。難行・苦行に過ぎません。 『恵み』とは、何度も繰り返し申しますが、橋三郎の説に依れば、使命と訳した方が分かり易い言葉です。 常に妥当すると思います。私はこの説に倣っています。 一番分かり易く言えば、何のためにです。これを果たさなくてはならないという使命感があれば、苦しい試練や 修行にも耐えられます。何のためにやっているのか分からなくなると、ただ、ひたすら辛いだけです。スポーツで も、勉強でもそうです。 ですから、親は先ず、使命を、恵みを、そしてそこから生まれる喜びを教えなければなりません。それが出来な いならば、むしろ何も教えない方が、子どものためでしょう。 ◆ 2節。 … そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、 ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。… これは話が二重に重ねられています。 『わたしから聞いたことを、ほかの人々にも教え』なさいではありません。 その言葉を、『ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。』です。テモテが、一人でも 多くの人に伝えなさいとは、言っていません。『忠実な人たちにゆだねなさい。』です。 そして『忠実な人たち』とは、『人々にも教えることのできる』人のことです。 話がややこしくならないように、もっと単純に説明します。 何もかも自分でする必要はない、それが出来る人に任せなさいという意味でしょう。 ◆ 松下幸之助は、「部下が100人いるなら、自分の偉さは101番目だと思える人が真のリーダーだ。」と言っ たそうです。 断片的知識で、深くは知りませんが、教訓だと思います。どうも最近の、リーダーを自負する人は、自分が一 番だと考えているのではないでしょうか。どれだけの人数を従えることが出来るかが、力量だと思っているのでは ないでしょうか。 100人の部下を持つ人よりも、1000人の部下を持つ人が偉いと考えるのは、間違いで、1000人の部下 を持つよりも、10000人の部下を持つよりも、100人の部下を持つ能力の者を、100人部下にすることが大 事だという教えがあります。古い中国の教えです。 私には、この中国の教えよりも、 松下幸之助の方が正解だし、偉いと思います。 ◆ ここで話が終わったら、松下幸之助教で終わります。実際、そのような人も多くいたようです。聖書は、もう 少し違います。一例として、ギデオンの逸話が良いでしょう。 ギデオンは、敵の大群と戦うのに、一人でも、兵士の数を増やそうとはせずに、逆に、心構えのあるものを選 抜し、数を減らします。やる気のある者、使命が分かるものに限ったのです。 これ以上は申しません。直接、士師記6〜8章を読んで貰った方が早いと思います。 ◆ 3節。 … キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。… テモテに与えられた宣教の使命は、スポーツに準えたら足りない、勉強とも比較にならない、難行であり、そし て大義です。 宣教とは、兵士の心構えがなくては適わないものだったのです。 ◆ 4節以下も省略しないで順に読みます。 … 兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、 自分を召集した者の気に入ろうとします。… ここで強調されているのは、『自分を召集した者』つまりは、イエス・キリストへの忠誠心です。他のことに煩わさ れてはならないという意味です。それ以上でも以下でもありません。あまり拡げて解釈する必要はないでしょう。 ◆ 5節。 … また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、 栄冠を受けることができません。… これはまず、文脈など考えない方が分かり易いでしょう。 当たり前です。ルールを守らず、勝手なことをし始めたら、ゲームが成立しません。ガキ大将が、自分の好み で、他では通用しないるルールを作ったら、そしてまた、自分の都合で変えてしまったら、誰も楽しくもないでしょ う。楽しいのは、ガキ大将だけです。しかし、往々にして、これが、世の中に蔓延ります。 昔、ゲリマンダーという言葉がありました。選挙の時に、都合の良いように選挙の区割りや方法を変えたら、民 社主義の崩壊です。民主的な選挙を重視するのは、日本では、当たり前のことですが、各政党の中で、必ず しもそうではなく、独裁だったり、ボス政治だったり、世襲だったりします。そんな政党に民主主義を標榜する資 格はありません。 もちろん、法の不備を突き、ルール以前に常識無視、マナー違反だったら、そんな政党は信頼出来ません し、そんな風潮には危機感を覚えます。 ◆ これが教会で起こったら大変です。もう、教会ではいられません。そもそも、教会で、日本基督教団の教憲 教規や、教会規則が持ち出され、争うようだったら、まして世俗の法律に頼って争うようならば、もう、何も解決 方法はないでしょう。 パウロは具体的な、規則違反の実例を挙げていません。コリント書等から、想像を巡らすことは出来ますが、 パウロが挙げていないことを尊重して、触れないことにします。 ◆ 6節。 … 労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。… これは、どうも理解に苦しみます。意味が分からないということではなくて、何故、これを言うのか不可解です。 無理にでも整合性を付けるとしたら、6節も、規則の一つなのでしょうか。 確かに、ゴールが決まっていなければ、徒競走も、球技も成り立ちません。他のどんな競技でもそうでしょう。 ゴールした人の横を通り抜けて、10メートル先でゴールしたと主張したら、それをテープを持った人が迎えたと したら、つまり、100メートル競走が、突然110メートル競走に変わったら、このスポーツは成り立ちません。 ◆ ところが、信仰生活では、ゴールがはっきりしません。 100メートル競走に参加した人と、マラソンに参加した人とが一緒に走っているような具合です。ゴールがどこ かさえはっきりしません。 むしろ、ゴールのない果てしないマラソンのようなものでしょう。ゴールがなければ、 ゴールがはっきりしなければ、勝ち負けはありません。 これも、信仰のルールの一つなのでしょう。勝ち負けはありません。勝ち負けを強調したい宗教はたくさんあり ます。教会の中でも、これを言う人があります。分かり易い教えかも知れません。競争心があった方が、熱心に なり、成果も上がるかも知れません。 テレビドラマで見るだけですが、セールスの成績をグラフにして、一番には賞金が出る、ビリには懲罰があるとい う光景があります。もしかすると、効果があるのかも知れません。しかし、それは信仰とはほど遠い世界だと、私 は思います。 ◆ 6節から見て、私はパウロの教えに逆らっているのでしょうか。そんなことはありません。確信を持って言いま す。パウロは、テモテの成績向上のために、叱咤激励しているのではありません。人参を目の前にちらつかせて いるのでもありません。 これは想像です。100%の確信を持って言うことは出来ません。しかし、コリント書などから類推することは出 来ます。まるっきり外れてはいないと考えます。 テモテに対して、ここに記されていることと逆のことを主張する人がいたのだと思います。4・5・6節についてで す。テモテは、どうも年若く純粋で、生真面目な人だったようです。別の言い方をすれば、傷つきやすかったと思 います。信仰的な家庭で、信仰によって育てられました。素晴らしいことですが、それ故の弱さもあったと思いま す。 だからパウロは教えます。信仰のルールを守り、福音宣教に集中し、他のことや、他の人に煩わされないように と。 ◆ 戦争には戦死者がいます。傷病を負う人もあります。競技では敗北者が出ます。むしろ、大半が敗北者で す。それでも戦います。その意義があると信じて戦います。それがない人は、戦う前に脱落します。戦い続ける 人は、本当は敗北者ではありません。 信仰の戦いも、神の国の実現のために戦い続ける人は、敗北者にはなりません。戦い続けるならば、誰も が、必ずゴールするからです。 |