日本基督教団 玉川平安教会

■2025年10月5日 説教映像


■説教題 「全ての人に柔和に

■聖   書 テモテへの手紙二 2章14〜26節 


◇ 説教が難しく、聞き取るのが困難だという指摘を受けます。その通りかも知れません。指摘の通りなのでしょ
う。私なりに、なるべく分かり易くと、考え、工夫はしているつもりです。しかし、なかなか、効果はないのでしょう
か。

 今日は、普段とは違って、段落を区切り、段落毎にお話ししたいと思います。

 最初の段落は、14節のみです。

 … これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、

   神の御前で厳かに命じなさい。

  そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。…

 特に注目するのは、『言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。』です。何のことやら分か
りません。分かるような気もしますが、はっきりしません。

 『これらのこと』と言うのですから、先週、先々週の箇所、2章1〜13節のことでしょう。そうだとしても、良く分
かりません。

 ただ、確実に分かることは、『言葉をあげつら』う人、そうして、他の教会員を批判したり攻撃したりする人がい
たらしいことです。

 その具体的な内容は、おそらく、3章2節以下に記されている事柄でしょう。


◇ 3章2節以下については、急がないで、19日に読むこととします。兎に角、今日私たちが聞くべき教えは、
人の『言葉をあげつらわないように』、それは『何の役にも立たず、聞く者を破滅させる。』という戒めです。

 逆に言えば、その人をやっつけたいと思ったのなら、『言葉をあげつら』うのが、効果的なのでしょう。つまり、そ
の人が何を言いたいかなどは問題にせずに、言葉尻を捉まえ、小さい間違いを指摘したりして、馬鹿にすること
でしょう。『言葉をあげつら』う、とは、詰まる所、相手の言い分を聞かないことです。相手の口を塞ぐことです。

 しかし、そのようなやり方は、自分自身をも滅ぼすでしょう。そんな人は、やがて誰にも、自分の考えを、言い
分を聞いて貰えなくなります。人の言葉を聞かない人は、自分の言葉を聞いて貰えなくなります。当然です。
誰も、そんな人の相手をしたくありません。


◇ 2番目の段落は、15〜17節です。

 1節ずつ読むのが普段の読み方ですが、絞って読みます。

 『適格者と認められて神の前に立つ者』とは、一番簡単に言えば、神の国に入れられる者のことでしょう。神
の国のために働く者と言ってもよろしいでしょう。

 『適格者』ならば、『適格者』になりたいならば、『俗悪な無駄話を避けなさい。』と戒めています。『俗悪な無
駄話』とは何かという点についても、テモテ書の他の箇所から、検証が必要なのでしょうが、そんなに難しく考え
る必要はないと思います。私たちが普通に思い浮かべる『俗悪な無駄話』で充分でしょう。

 教会で『俗悪な無駄話』は必要ありません。教会に、血液型性格判断や、動物占いやら、暦などを持ち込
む人がいます。野球や相撲の応援まで持ち込む例もあります。これは、それらの真偽は別として、教会には要
りません。

 まして、他の人の噂話や、まして悪意に満ちた、誹謗中傷などは、教会には似合いません。政治的な対立
なども要りません。政治談義は、重要なのかも知れませんが、教会の外でして貰いたいと考えます。


◇ 3番目の段落は、17〜18節です。

 ここは、詳細は分かりません。解る必要もないでしょう。『ヒメナイとフィレト』と、二人の実名が挙げられていま
す。しかし私たちは、この人たちを知りませんし、知る必要もないでしょう。二人が話した『俗悪な無駄話』とは、
『復活はもう起こったと言って』いたことです。しかし、この点も、詳しくは分かりません。何しろ『俗悪な無駄話』
なのですから、調べる必要は感じません。

 ただ、この教えは、『人々の信仰を覆』してしまいました。異端思想です。これは重大な罪です。取るに足りな
い『俗悪な無駄話』が、『人々の信仰を覆』す重大な罪になり得ます。なってしまうことがあります。警戒しなくて
はなりません。


◇ 次に19節を読みます。

 … しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。

  そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、

  また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。…

 『俗悪な無駄話』が『人々の信仰を覆』す、見逃せない異端思想になる場合があります。その異端を説く人
が現れます。

 しかし、それで『神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。』

 揺らいではなりません。揺らいだりしたら、それは『神が据えられた堅固な基礎』ではありません。つまり、教会
ではありません。

 牧師や役員が交替するたびに、教会が大きく揺らぐようなら、そこは『神が据えられた堅固な基礎』たる教会
とは言えないでしょう。そういう場所には、『俗悪な無駄話』が入り込みます。入り込む隙が生まれます。


◇『主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである』とは当然のこととも言えますし、厳密に考え受け止め
れば、至難の業とも言えます。

 不義が、義・正義の反対物だとすれば、重要だし多様だし、聖書の沢山の箇所に聞かなくてはなりません。

 しかし、ここだけに限定して読めば、『不義から身を引く』とは、『俗悪な無駄話』に乗らないこと、加わらないこ
とでしょう。それほどに、『俗悪な無駄話』は、深刻な、重大な罪になり得るのです。決して軽いことと思ってはな
りません。『俗悪な無駄話』は、不義であり、義・正義の反対にもなり得るのです。


◇ 20〜21節を読みます。

 先ず20節だけを読みます。

 … さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。

  一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。 …

 ここだけを読むと、嫌いだと言う人がいるでしょう。人に貴賤、貴い賤しいがあるかのように聞こえます。私も個
人的に言えば、好きな表現ではありません。

 貴賤が、生まれついての身分や、個々人の能力を指す言葉ならば、如何にテモテ書の言葉とは言え、素直
には聞くことが出来ません。

 中には、お家柄に誇りを持っていて、我が意を得たりと思う人がいるかも知れませんが、テモテ書は、本当にそ
う言っているのでしょうか。


◇ 21節を読みます。

 … だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、

  聖なるもの、主人に役立つもの、

  あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。…

 身分的な貴賤ではありません。『諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器に』造り変えられるの
です。決して生まれながらではありません。

 信仰によって造り変えられて、『聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとな
るのです。』

 なることが出来ると書いてあります。これが、テモテ書の真意です。身分を持ち出して、人を裁き、分け隔てを
しているのではありません。


◇ 次の段落は、22〜23節です。

 『若いころの情欲から遠ざかり』とは、必ずしも、若い時の性的な欲のことではないと言いますか、それだけで
はありません。むしろ分別のない我が儘・傲慢であり、知識経験が足りないがための、独善のことでしょう。

 そういう人は、そこから抜け出せない人は、『愚かで無知な議論を避け』ることが出来ません。他のことを知ら
ないために、自分が持っている僅かばかりの、『愚かで無知な』知識や体験に過ぎないものを、絶対視して、譲
ることが出来ません。

 そういう人は、耐えず『争い』を生み出します。若い人の中には、そのような争いそのものを、とても大事なこ
と、充実したことだと考える人もいます。


◇ 私も、「牧師さんは、いつも臭い物には蓋」で、「間違っていることを間違っていると言わない。間違った意見
や人を受け入れてしまう。」と批判されたことがあります。一度や二度ではありません。

 その批判は当たっているかも知れません。牧師として、教会を守りたいと言う思いが何より優先し、教会の和
を重んじます。時に、それを絶対視してしまいます。自分の態度を正しいと自己義認してしまいます。私への批
判は当たっているのかも知れません。

 しかし、もし私が「間違っていることを間違っていると言」わなくてはならないとしたら、誰に対してよりも先に、他
人を批判し、退けるこの人に対して、「あなたは間違っている」と言うでしょうし、言わなくてはなりません。

 蛇足かも知れませんが、付け加えますと、自分の意見を主張し譲らず、争いになる議論を生み出すのは、若
い人、信仰歴の浅い人とは限りません。


◇ 私がどう考えるかではありません。私の性格が問題なのではありません。

 テモテ書は、何と言っているでしょうか。それだけが問題です。

 … 愚かで無知な議論を避けなさい。

  あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。…

 このように言っています。私たちが聞くべきは、この言葉です。若い人も年配の人も、信仰歴のある人も、浅
い人も、誰でも同じです。勿論、牧師も同じです。自説に拘って、他の人を退けてはなりません。


◇ 24〜25節を読みます。全部読みます。

 … 主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、   25.反抗する者を優
しく教え導かねばなりません。

  神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。…

 ここが、テモテ書の結論です。

 今日の始めの方だけを読みますと、大きく誤解するでしょう。その誤解を説明すると、話がややこしくなります
から、既にお話ししたことに止めます。それで充分でしょう。

 テモテ書の中心的使信は、教会から争いを除くことにあります。しかし、それより更に重要なことは、『柔和に
接し、教え〜よく忍び〜反抗する者を優しく教え導』くことです。

 つまり、信仰から離れて行く者を、引き帰らせることにあります。

 これが一番大切なことです。


◇ ちょっと拘りますと、『神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれない』とあります。必ずそう
なるとは書いてありません。

 そのように上手くは運ばないかも知れません。駄目かも知れません。どっちか分かりません。だからこそ、決め
付けないで慎重にならなくてはいけないのでしょう。


◇ 26節。

 … こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、

  いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。…

 『悪魔に生け捕りにされてその意のままになって』いるような者でも、信仰に帰ることが出来ると言っています。
そのような者にも、信仰に帰るように導く必要があると言っています。教会に戻るように働き掛けると言っていま
す。

 ここでも拘れれば、25節は『かもしれない』であり、26節では『罠から逃れるようになるでしょう。』と書いてあ
ります。この違いに注目するのはよろしいかも知れません。原語のギリシャ語を調べるのも良いかも知れませ
ん。

 しかし、それを得意げに語った瞬間に、他の人の理解を否定した瞬間に『愚かで無知な議論』に成り果てる
でしょう。


◇ 話は大きく変わってしまうかも知れません。先週礼拝後、奥沢教会修養会に途中から出席しました。そこ
で、講師の小島先生が話したことが、胸に堪えました。先生は、「教会員を躓かせてしまったことが、何度かあ
る。深く悔やむ。」と告白しました。

 温厚で人格者の小島牧師が、そのように告白しました。

 私などはどうしたら良いでしょう。

 本当に難しい問題です。一つ一つの事例で違いますでしょう。どの事例にも通用する原理原則など存在しな
いと思いますが、テモテ書の言うことだけは聞かなくてはならないでしょう。

 どんな人も、『神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれない』であり、『いつか目覚めてそ
の罠から逃れるようになるでしょう。』

 私たちが、絶対にしてはならないことは、「あの人はもう駄目だ、赦されない」と決め付けることでしょう。それ
は、自分が神となる傲慢です。

 そもそも、『愚かで無知な議論』『俗悪な無駄話』は、傲慢の結果です。