日本基督教団 玉川平安教会

■2024年9月29日 説教映像

■説教題 「恥ずべき言葉を捨てて」

■聖   書  コロサイの信徒への手紙 3章1〜11節 


♪ 1節で

 … 上にあるものを求めなさい。…

 と言われ、1〜4節には、その説明が述べられていますが、決して分かり易い言葉ではありません。

 5節から読んだ方が、少しは分かり易いと言いますか、効率的でしょう。

 … だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、  および貪欲を捨て
去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。…

 『みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲』が地上的なものであり、捨て去るべきものとし
て上げられています。

 『上にあるもの』とは、その逆です。

 私たちには、なかなか『上にあるもの』が何かは分かりません。どうしたら『上にあるもの』に近づけるかも分かり
ません。

 しかし、その逆、下にあるものなら、容易に想像出来ます。身の周りに見ることさえ出来ます。たくさん溢れて
います。


♪ 地上的なものとして上げられた、その一つ一つの項目を、その真逆は何かと、考えて見ても良いかも知れま
せん。真逆を考えることは、聖書を読む上で、とても役立ちます。

 『みだらな行い』、辞書を見ますと、淫らの対義語として、貞操が上げられています。

 『みだらな行い』とは、男女間、夫婦間の不義のことであり、信仰的な表現で言えば、神への不従順でしょう
か。

 他の神々に惹かれること、他の神々を拝むことが、『みだらな行い』です。『みだらな行い』とは、その意味で、
『偶像礼拝にほかならない』と言っても間違いではありません。

 旧約聖書には、偶像崇拝を浮気や姦淫に準える表現が沢山あります。


♪ 『不潔な行い』が次に上げられています。

 これも辞書で対義語を見ますと、純潔・清潔でした。不潔イコール不衛生ではありません。清潔ではなく、純
潔こそが、『不潔な行い』の真逆でしょう。

 つまり、一人の神に仕えるのではなく、他の神々をも拝むことが、『不潔な行い』です。『不潔な行い』とは、そ
の意味で、『偶像礼拝にほかならない』と言っても間違いではありません。

 勿論、コロサイ教会員の男女間、夫婦間にも当て嵌まります。何しろ、一夫多妻が当たり前だった時代で
す。これと、いろんな神を拝むこととが重ねられています。

 

♪ かねて不思議に思うことですが、一神教を唱え、偶像を退ける宗教が、何故か、一夫多妻で、そこに矛盾
を感じないようです。そういう人にとっては、宗教・信仰と、一夫多妻とは、別次元のことなのでしょうか。

 そうなのかも知れませんが、少なくとも新約聖書は、これを矛盾と考えています。いろんな女性に心惹かれる
ことと、一人の神を信じ、これを拝むこととは、両立しないこととして述べられています。


♪ 『情欲、悪い欲望』はひとまとめにします。

 これも辞書で対義語を見ましたが、ぴったりくるものはありませんでした。

 『情欲』の反対は情熱でしょうか。純愛でも良いでしょう。『悪い欲望』の逆は、良い欲望という表現はありま
せん。これも情熱か、意欲でしょうか。

 『情欲、悪い欲望』こそ、その意味で、『偶像礼拝にほかならない』と言っても間違いではありません。

 『情欲』と純愛とは、おうおう区別が付かないかも知れません。だからこそ、一人の女性に対する思いは、純
愛で、多数に向かったら『情欲』だと考えるしかありません。

 勿論、この場合の男と女とを入れ替えても同じことです。

 とにかく、『情欲、悪い欲望』が地上のことであり、純愛は天上のことです。


♪ 最後に上げられてるのが、『貪欲』です。

 諄いのですが、これも辞書で見ました。無欲とあります。信仰的、聖書的には、あまりピント来ません。

 『貪欲は偶像礼拝にほかならない』、この表現から考えなくてはならないでしょう。貪欲とは、偶像礼拝だそう
です。

 先週お話ししましたように、当時のローマ・ギリシャの信仰は、八百万の神を拝む、多神教です。この事実と、
貪欲とが重なるように思います。

 八百万の神とは、八百万の欲望ではないでしょうか。

 人間が八百万の神に惹かれるのです。八百万の欲望に捕らえられるのです。実際には、

八百万の神など存在しません。全て、人間の腹の中のことです。敢えて言えば、八百万の神は、人間の腹の
中に巣くっているのに過ぎません。

 そうしますと、八百万の神とは、むしろ悪魔ではないでしょうか。悪魔こそ、人間の腹の中、心の中に住んでい
て、ことある毎に、人間を誘惑します。悪の道へと誘います。


♪ 人間の心に、無数・無限とも言える欲望があるから、一人の神さまでは間に合いません。綺麗に言えば、そ
れぞれの願い、祈り、飾らないで言えば、無数・無限とも言える欲望を叶えて貰うために、無数・無限の神さま
を求めます。無数・無限の神さまを必要とするのです。

 使徒言行録17章22〜23節。

 … パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、

   あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。

  23:道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、

   『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。

   それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、

  それをわたしはお知らせしましょう。…

 パウロの痛烈な皮肉です。

 八百万の神を拝むローマの人々は、万一にも、漏らしてはならないと、『知られざる神』さえ拝みます。


♪ ここでも、八百万の神の正体が分かります。

 『眠り姫』の昔話があります。どなたもご存知の話です。その発端は、13人の魔女がいるのに、王女の誕生
の祝いにの席に、12人しか招かなかったことにあります。13人番目の魔女は、これを根に持ち、王女に呪いを
かけます。

 八百万の神を拝むローマの人々は、この事態を恐れました。八百万の神の一人を外してしまったら、どんな
災いがあるかも知れないと考え、『知られざる神に』と刻まれている祭壇を設け、拝みました。

 これはどう考えても神さまではありません。むしろ、魔女であり、悪魔です。

 八百万の神への信仰は、唯一の神を信じる信仰の、八百万倍熱心な信仰ではありません。むしろ、悪魔
祈願です。


♪ 『上にあるものを求めなさい』とは、このような、所詮は自分の欲望に忠実な生き方とは真逆です。つまり、
偶像という、実際には何の実もないものを求めるのではなく、真実のものを求めることです。

 コロサイ2章22節に述べられている『使えば無くなってしまうもの』ではなく、本当に価値あるもの、消えてしま
うことのないものを求めなさいという意味です。


♪ 6節以下順に読みます。6〜7節。

 … 6:これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。

  7:あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、

  それに従って歩んでいました。…

 本当の神を知らない者は、偶像に仕えて生きています。つまり、自分の腹の中にある欲望に仕えて生きてい
ます。


♪ 8節。

 … 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、

   口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。…

 『口から出る恥ずべき』もの、つまり、腹の中にあるものです。欲望です。それが、言葉となって外に出て来ま
す。

 『怒り』、それは露骨な感情です。『怒り』を制御することはとても困難です。何故困難なのか、腹の中にある
からです。腹の中にあるものは、鏡にも映りません。

 普通は腹の中に存在するものを、露骨に外には出しません。腹の中に持っていても、人前に見せないように
隠します。丁度、排泄物です。

 つまり、『怒り』を暴露することは、自分の排泄物を曝す、まき散らすに等しい行為です。自分の排泄物をま
き散らす人はいませんが、しかし、『怒り』をまき散らす人は少なくありません。そして、一度吐き出された『怒り』
は、鏡にも映ります。


♪ 『憤り』だって同様です。『憤り』の方が義憤と言うように、根拠があり正しいことのように見えますが、『怒り』と
本質的には変わりありません。排泄物で言うなら、少し、上等の排泄物でしょうか。前の晩、少し贅沢なものを
食べた結果でしょうか。

 『怒り』を当たりに吐き散らす人は、排泄物か下呂を吐き出す人に過ぎません。

 『憤り』だって、それがもし義憤であっても、自分で制御できなければ、それは排泄物の垂れ流しと同じです。

『悪意、そしり』、これはもう駄目です。

 お腹の中で腐ってしまったものです。これを垂れ流してはなりません。


♪  『口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい』

 『口から出る』『言葉』そのものが、問題になっています。

 聖書では言葉が、つまり、口から出ることが、重要視されます。

 日本だって、言霊信仰がありますし、本質的には変わらないと思いますが、ユダヤ教でより重要視されている
ことは間違いありません。

 ユダヤ教もキリスト教も言葉の宗教と言われるくらいです。言葉が持つ意味には、大きいものがあります。しか
し、長くなりますので、他の機会に譲ります。

 一つだけ例として上げます。ヨブ記2章10節。

 ヨブの妻は、災いを下された時、

 …「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、  ヨブは答えた。「お前ま
で愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このよ
うになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。…

 言葉に出すか、出さないで押さえるか、それが決定的に大事なことです。

 ですから、口に出して、言葉で言う信仰告白が、或いは、罪の告白が、決定的に大事なことと考えられてい
ます、


♪  9節。

 … 互いにうそをついてはなりません。…

 嘘も、『口から出る恥ずべき言葉』であり、その極まりでしょう。そして、人間の腹の中にあるものです。『うそを
ついてはなりません』は、どの宗教でも共通する教えでしょうし、無神論者にとっても、当たり前の倫理でしょう。

 しかし、コロサイ書では、一寸関心が違います。9〜10節。

 … 9:互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、

  10:造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、

  真の知識に達するのです。…

 『うそをついてはなりません』とは、虚言を弄してはなりませんの意味であり、また、虚言の中に生きていてはなり
ませんの意味です。つまりは、間違った信仰、間違った価値観に生きていてはなりませんとの意味です。


♪  11節。

 … そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、

   未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。

  キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。…

 これまでの文脈とは無関係のようにも聞こえます。唐突感があります。しかし、これが、結論です。そして、この
戒めの執筆意図でしょう。

 コロサイ教会の中に、『ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、

 未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別』があったのでしょう。深刻な対立だったことでしょう。そ
の対立の根本原因を、コロサイ書は指摘しているのです。

 それは、洗礼を受けた者に似つかわしくない、古い信仰、古い価値観に基づく差別だと指摘しているのです。


♪ キリスト者の自由とは、何者にも縛られない自由だというだけでは、不十分です。むしろ、何者をも縛らない
こと、差別しないことこそが、本当の意味での自由です。新しい信仰に基づく、新しい生き方です。人を差別す
ることこそが、『使えば無くなってしまうもの』、本当には価値のないものの奴隷となって生きることです。