日本基督教団 玉川平安教会

■2024年8月25日 説教映像

■説教題 「福音の希望」

■聖   書 コロサイの信徒への手紙 1章21〜23節 


☆  久し振りに何度も何度も原稿を書き直しました。書き直したと言うのは、推敲を重ねたと言うことではありま
せん。初めっからもう一度書き直すことを繰り返しました。

 理由は、原稿を印刷して、改めて読んでみて、「これは分かって貰えない」と考えたからです。通じないと思っ
たからです。

 次に書き終えて、また読んで、これも没にしました。理由は、「分かり易くはなったけれども、語るべきことを語っ
ていない」、と思ったからです。

 3度目、実際には玉川教会時代の原稿もありますから、4度目か5度目です。

 「分かって貰えないかも知れない」けれども、「面白くもないかも知れない」けれども、1節ずつ順に、ただ、
淡々と読むことにしました。

 今日の説教は、何時もに増して「分かって貰えないかも知れない」、「面白くもないかも知れない」、けれど
も、聖書そのものの力を信じて、外連味なく語りたいと思います。


☆ 21節。

 … あなたがたは、以前は神から離れ、

  悪い行いによって心の中で神に敵対していました。…

 コロサイの教会員の多くは、ユダヤ人ではなく、ローマ人やギリシャ人だったと思われます。ですから、彼らは、
聖書の神を知りませんでした。逆に、ローマやギリシャの神々を崇めていたと考えられます。一人一人の信仰の
程度、真剣さなどは分かりません。多くの人は、建前仏教徒、同時に神社の氏子である、今日の日本人のよ
うに、その教えなどキチンと学んでいなかったでしょう。

 なんとなく、ぼやっと信じていたに過ぎないかも知れません。


☆ それでも、そんないい加減な信仰でも、人間の道徳・倫理には影響します。これも多くの日本人と同様で
す。日本人は、ちゃんとお経を読んだことがなくとも、論語も部分的に聞いたことがある程度の信仰的教養であ
っても、それでも、何かしら影響を受けています。「人を虐めてはならない」「親兄弟を大切にしなくてはならな
い」「盗んではならない」、こんな当たり前のことも、実は、それらの宗教の影響です。


☆ あまり脱線しないように元に戻ります。

 … あなたがたは、以前は神から離れ…

 文句なしに離れていました。距離がありました。何しろ知りません。

 そのこと自体が罪だと、著者は考えているようです。普通の罪という言葉、概念から考えたら、理解出来ませ
ん。「知らない」のだから仕方がないと思います。それを罪だと言われても困ります。

 前の二つの説教原稿は、ここで長くなりました。しかし、どんなに丁寧に説明しても、難しさは和らぎません。そ
こで、敢えて、他の牧師やまして聖書学者には叱られるかも知れませんが、罪という言葉に拘らずに、不幸とい
う言葉に置き換えて見たいと思います。

 神を知らず、関心を持たず、むしろローマやギリシャの神々を崇めていたことは、不幸でした。本当に素晴らし
いもの、救いを、神の愛を知らなかったのです。

 日本人的感覚から言えば、これは罪ではなくて、不幸と言うべきでしょう。


☆ 分かり易くしたいとの思いから、和歌を連想しました。

逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり

 私には、残念ながら和歌の教養など、高校生程度もありませんので、分かったようなことは言えません。しか
し、この歌の意味はなんとなく分かりますし、その解釈は間違いではないでしょう。

 本当に愛する人に出会った時に、過去の恋愛を思い起こし、あれは幼稚な恋だったなと振り返っています。

 乱暴な比喩だったかも知れませんが、コロサイ教会員の信仰は、そんなことだったのではないでしょうか。


☆ 21節の後半を改めて読みます。

 … 悪い行いによって心の中で神に敵対していました。…

 おやおや、そんな生易しいことではなかったかも知れません。『神に敵対していました』と言われています。

 矢張り、神ならぬ神々を拝むことは、信仰的な罪なのでしょう。

 しかし、もう一度同じことを言いたくなります。

 「「知らなかった」のだから仕方がないでしょう。」と。


☆ 信仰的なこと、真の神を知らないことが罪なのでしょうが、それだけではありません。 『神から離れ、悪い行
いによって』と、はっきり記されています。これも、偶像崇拝のような信仰的な罪のことなのでしょうか。そうではあ
りません。正に、道徳・倫理、法的な罪です。難しいことを言う必要もありません。誰もが悪と見做す、そういう
類いの悪、不道徳です。

 悪い神を信じる悪い信仰を持った人は、道徳・倫理、法的な罪を犯すことがあります。彼の宗教が、これを
諫めていないからです。

 日本の仏教や儒教は、私たちといろんな点で倫理観が違うけれども、それなりに善を説きます。しかし、善行
を説かない宗教もあります。善に反しても、ご利益を求める宗教もあります。

 他宗教の悪口は言わない方がよろしいでしょうが、邪教としか言いようのない宗教も、現実にあります。決し
て少なくないでしょう。神の名前の下に、殺人を唆す宗教さえあります。決して少なくないでしょう。


☆ 22節。

 … しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、…

 個々は少し難しくなっても、丁寧に説明したいと思います。なるべく簡単に、言いたいことを10分の1、それ以
下に約めて申します。

 『和解』という言葉は、日本語では捕らえきれない意味合いを持っています。

 『和解』、和解論という分厚い本があるくらいで、とても、簡単に要約して説明することはできませんが、この箇
所に述べられていることだけを、読み取りたいと思います。それが、和解の一番中心的な意味でしょう。


☆ 『神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し』

 神は、キリスト・イエスを十字架に架けることによって、罪の側に住んでいる人間と、和解されたと書いてありま
す。普通なら、このようなことは和解とは言いません。犠牲を払ったのは、神の側ですから、むしろ、降伏でしょ
う。犠牲を払い、降伏した結果、停戦、和解が成り立つということはあるかも知れません。

 しかし、そもそも、神さまが人間の罪に敗北、降伏する筈がありません。

 話を拡げると、何も分からなくなりますから、ここに書いてあることに限定して考えましょう。

 『御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し』、なるべく簡単に申しますと、こういうことです。

 本来は、罪の中に住み、敗北の時、死を避けることのできない人間は、自分の生命に見合った献げ物をもっ
て、神さまの前にひれ伏し、拝まなければなりません。

 しかし、人間には、自分の生命に見合うだけの、ふさわしい献げ物はありません。誰も、自分の生命を買い取
ることはできません。そこで、神さまが、人間の生命の代価となりうる献げ物、つまり、イエス・キリストを人間にく
ださった。その献げ物を、人間が十字架に架け、神さまに捧げたという意味です。

 圧倒的に強い者が、弱い者のために、犠牲を払って、和解を実現し、弱い者を滅亡から救ったのです。今も
昔も、この世の現実、この世の王さまとは真逆です。それが聖書の『若い』、聖書の『平和』です。それが十字
架の出来事です。


☆ 和解とは、戦争が止むことです。終戦です。そして、平和が訪れます。平和とは、戦争が止むことです。し
かし、それだけではありません。正しい秩序が回復されることです。戦争が止むだけでは、平和は実現しませ
ん。

 戦争が止んだ後の焼け野原を見て、平和とは言いません。そこに、人間らしい生活が回復して初めて平和と
呼ぶのにふさわしいでしょう。

 神さまとの正しい関係が作り上げられて初めて、和解が実現したのです。神と人間との関係が平和になったの
です。


☆ 22節の後半部分。

   … その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、

  きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。…

 人間が悔い改めて、何かしら、修行のようなことをして、その結果、『聖なる者、きずのない者、とがめるところ
のない者と』なることが出来たのではありません。

 人間が、『聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者と』なり得るのは、神との平和が得られているから
です。神さまが、『その死によって』私たち『と和解し』てくださったからです。

 神さまによって、キリスト者は、『聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者と』なったのです。


☆ 私たちは、十字架に架けられた方への信仰に生きる時に、『聖なる者、きずのない者、とがめるところのない
者、罪を赦され、和解に入れられた者』となります。

 何か善い働きをしているからではありません。何かしら、神さまや他の人のお役に立っているからでもありませ
ん。

 唯、信仰の故に、罪を赦され、和解に入れられた故に、私たちは、『聖なる者、きずのない者、とがめるところ
のない者』となるのです。

 例え、未だに弱く、惨めに見えようとも、貧しくとも、健康でなくても、老いていても、私たちは、唯、信仰の故
に、『聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者』になっているのです。


☆ それではつまらないと考える人がいます。「自分は神さまのために、教会のために働き、それなりに功績を積
んで来た。だから、神の国に入ることが出来る。そうではない者が神の国を望むのは図々しい。」そのように思う
人がいます。それも結構かも知れません。そういう人には、これからも教会のために、頑張っていただきたいもの
です。

 しかし、そのようにはとても考えられない人もあります。「自分には、神さまのお役に立つような能力も財力もな
い。でも、神さまの国を仰ぎ見ています。」そのように思う人がいます。

 使徒パウロも、自分はそのような存在だと、随所で言っています。


☆ 22節後半。

 … 御自身の前に聖なる者、きずのない者、

  とがめるところのない者としてくださいました。…

 かつては問われません。神さまが清めて下さったのです。もう、以前の私ではありません。ならば、以前の悪徳
に捕らえられてはなりません。以前の欲望を甘やかしてはなりません。以前の憎悪の感情をむき出しにしてはな
りません。

 罪を赦された者の、感謝と謙虚さをもって、神に、そして教会に仕えるべきでしょう。


☆ 23節。

 … ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、

  あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。…

 「福音の教えから離れてはなりません」とは言っていません。『福音の希望から離れてはなりません。』です。同
じことかも知れませんが、私は拘ります。

 「福音の教えから離れては」いないのに、『福音の希望から離れて』しまう場合があるからです。理屈では福
音を信じ、従っているのに、「福音が現実になる、神の国が実際になる」ことを信じられなくなる場合がありま
す。世の現実を、教会の現実を見るからです。見えてしまうからです。

 私も、教会で働いて46年、教団で役割を与えられた17年間、いろんなものを見ました。いろんなことを見せ
られました。躓きの連続です。

 私の体験、私を囲む現実に照らしたならば、希望は潰えます。

 しかし、『福音の希望から離れてはなりません。』

 常に申しますが、私たち人間の中には、希望の根拠はありません。根拠は、聖書の中にだけあります。御言
葉にあります。

 『福音の希望から離れてはなりません。』この言葉が、私たちの希望の根拠です。『恐れるな』とのイエスさま
の言葉だけが、私たちが恐れから逃れられる根拠です。どんな時でも、どんな状況でも、『恐れるな』がイエスさ
まの言葉です。

 玉川平安教会も同じことです。玉川平安教会の牧師も役員も信仰の仲間にも、希望の根拠はないかも知
れません。しかし、『恐れるな』がイエスさまの言葉です。