☆ 久し振りに何度も何度も原稿を書き直しました。書き直したと言うのは、推敲を重ねたと言うことではありま せん。初めっからもう一度書き直すことを繰り返しました。 理由は、原稿を印刷して、改めて読んでみて、「これは分かって貰えない」と考えたからです。通じないと思っ たからです。 次に書き終えて、また読んで、これも没にしました。理由は、「分かり易くはなったけれども、語るべきことを語っ ていない」、と思ったからです。 3度目、実際には玉川教会時代の原稿もありますから、4度目か5度目です。 「分かって貰えないかも知れない」けれども、「面白くもないかも知れない」けれども、1節ずつ順に、ただ、 淡々と読むことにしました。 今日の説教は、何時もに増して「分かって貰えないかも知れない」、「面白くもないかも知れない」、けれど も、聖書そのものの力を信じて、外連味なく語りたいと思います。 ☆ 21節。 … あなたがたは、以前は神から離れ、 悪い行いによって心の中で神に敵対していました。… コロサイの教会員の多くは、ユダヤ人ではなく、ローマ人やギリシャ人だったと思われます。ですから、彼らは、 聖書の神を知りませんでした。逆に、ローマやギリシャの神々を崇めていたと考えられます。一人一人の信仰の 程度、真剣さなどは分かりません。多くの人は、建前仏教徒、同時に神社の氏子である、今日の日本人のよ うに、その教えなどキチンと学んでいなかったでしょう。 なんとなく、ぼやっと信じていたに過ぎないかも知れません。 ☆ それでも、そんないい加減な信仰でも、人間の道徳・倫理には影響します。これも多くの日本人と同様で す。日本人は、ちゃんとお経を読んだことがなくとも、論語も部分的に聞いたことがある程度の信仰的教養であ っても、それでも、何かしら影響を受けています。「人を虐めてはならない」「親兄弟を大切にしなくてはならな い」「盗んではならない」、こんな当たり前のことも、実は、それらの宗教の影響です。 ☆ あまり脱線しないように元に戻ります。 … あなたがたは、以前は神から離れ… 文句なしに離れていました。距離がありました。何しろ知りません。 そのこと自体が罪だと、著者は考えているようです。普通の罪という言葉、概念から考えたら、理解出来ませ ん。「知らない」のだから仕方がないと思います。それを罪だと言われても困ります。 前の二つの説教原稿は、ここで長くなりました。しかし、どんなに丁寧に説明しても、難しさは和らぎません。そ こで、敢えて、他の牧師やまして聖書学者には叱られるかも知れませんが、罪という言葉に拘らずに、不幸とい う言葉に置き換えて見たいと思います。 神を知らず、関心を持たず、むしろローマやギリシャの神々を崇めていたことは、不幸でした。本当に素晴らし いもの、救いを、神の愛を知らなかったのです。 日本人的感覚から言えば、これは罪ではなくて、不幸と言うべきでしょう。 ☆ 分かり易くしたいとの思いから、和歌を連想しました。 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり 私には、残念ながら和歌の教養など、高校生程度もありませんので、分かったようなことは言えません。しか し、この歌の意味はなんとなく分かりますし、その解釈は間違いではないでしょう。 本当に愛する人に出会った時に、過去の恋愛を思い起こし、あれは幼稚な恋だったなと振り返っています。 乱暴な比喩だったかも知れませんが、コロサイ教会員の信仰は、そんなことだったのではないでしょうか。 ☆ 21節の後半を改めて読みます。 … 悪い行いによって心の中で神に敵対していました。… おやおや、そんな生易しいことではなかったかも知れません。『神に敵対していました』と言われています。 矢張り、神ならぬ神々を拝むことは、信仰的な罪なのでしょう。 しかし、もう一度同じことを言いたくなります。 「「知らなかった」のだから仕方がないでしょう。」と。 ☆ 信仰的なこと、真の神を知らないことが罪なのでしょうが、それだけではありません。 『神から離れ、悪い行 いによって』と、はっきり記されています。これも、偶像崇拝のような信仰的な罪のことなのでしょうか。そうではあ りません。正に、道徳・倫理、法的な罪です。難しいことを言う必要もありません。誰もが悪と見做す、そういう 類いの悪、不道徳です。 悪い神を信じる悪い信仰を持った人は、道徳・倫理、法的な罪を犯すことがあります。彼の宗教が、これを 諫めていないからです。 日本の仏教や儒教は、私たちといろんな点で倫理観が違うけれども、それなりに善を説きます。しかし、善行 を説かない宗教もあります。善に反しても、ご利益を求める宗教もあります。 他宗教の悪口は言わない方がよろしいでしょうが、邪教としか言いようのない宗教も、現実にあります。決し て少なくないでしょう。神の名前の下に、殺人を唆す宗教さえあります。決して少なくないでしょう。 ☆ 22節。 … しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、… 個々は少し難しくなっても、丁寧に説明したいと思います。なるべく簡単に、言いたいことを10分の1、それ以 下に約めて申します。 『和解』という言葉は、日本語では捕らえきれない意味合いを持っています。 『和解』、和解論という分厚い本があるくらいで、とても、簡単に要約して説明することはできませんが、この箇 所に述べられていることだけを、読み取りたいと思います。それが、和解の一番中心的な意味でしょう。 ☆ 『神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し』 神は、キリスト・イエスを十字架に架けることによって、罪の側に住んでいる人間と、和解されたと書いてありま す。普通なら、このようなことは和解とは言いません。犠牲を払ったのは、神の側ですから、むしろ、降伏でしょ う。犠牲を払い、降伏した結果、停戦、和解が成り立つということはあるかも知れません。 しかし、そもそも、神さまが人間の罪に敗北、降伏する筈がありません。 話を拡げると、何も分からなくなりますから、ここに書いてあることに限定して考えましょう。 『御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し』、なるべく簡単に申しますと、こういうことです。 本来は、罪の中に住み、敗北の時、死を避けることのできない人間は、自分の生命に見合った献げ物をもっ て、神さまの前にひれ伏し、拝まなければなりません。 しかし、人間には、自分の生命に見合うだけの、ふさわしい献げ物はありません。誰も、自分の生命を買い取 ることはできません。そこで、神さまが、人間の生命の代価となりうる献げ物、つまり、イエス・キリストを人間にく ださった。その献げ物を、人間が十字架に架け、神さまに捧げたという意味です。 圧倒的に強い者が、弱い者のために、犠牲を払って、和解を実現し、弱い者を滅亡から救ったのです。今も 昔も、この世の現実、この世の王さまとは真逆です。それが聖書の『若い』、聖書の『平和』です。それが十字 架の出来事です。 ☆ 和解とは、戦争が止むことです。終戦です。そして、平和が訪れます。平和とは、戦争が止むことです。し かし、それだけではありません。正しい秩序が回復されることです。戦争が止むだけでは、平和は実現しませ ん。 戦争が止んだ後の焼け野原を見て、平和とは言いません。そこに、人間らしい生活が回復して初めて平和と 呼ぶのにふさわしいでしょう。 神さまとの正しい関係が作り上げられて初めて、和解が実現したのです。神と人間との関係が平和になったの です。 ☆ 22節の後半部分。 … その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、 きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。… 人間が悔い改めて、何かしら、修行のようなことをして、その結果、『聖なる者、きずのない者、とがめるところ のない者と』なることが出来たのではありません。 人間が、『聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者と』なり得るのは、神との平和が得られているから です。神さまが、『その死によって』私たち『と和解し』てくださったからです。 神さまによって、キリスト者は、『聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者と』なったのです。 ☆ 私たちは、十字架に架けられた方への信仰に生きる時に、『聖なる者、きずのない者、とがめるところのない 者、罪を赦され、和解に入れられた者』となります。 何か善い働きをしているからではありません。何かしら、神さまや他の人のお役に立っているからでもありませ ん。 唯、信仰の故に、罪を赦され、和解に入れられた故に、私たちは、『聖なる者、きずのない者、とがめるところ のない者』となるのです。 例え、未だに弱く、惨めに見えようとも、貧しくとも、健康でなくても、老いていても、私たちは、唯、信仰の故 に、『聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者』になっているのです。 ☆ それではつまらないと考える人がいます。「自分は神さまのために、教会のために働き、それなりに功績を積 んで来た。だから、神の国に入ることが出来る。そうではない者が神の国を望むのは図々しい。」そのように思う 人がいます。それも結構かも知れません。そういう人には、これからも教会のために、頑張っていただきたいもの です。 しかし、そのようにはとても考えられない人もあります。「自分には、神さまのお役に立つような能力も財力もな い。でも、神さまの国を仰ぎ見ています。」そのように思う人がいます。 使徒パウロも、自分はそのような存在だと、随所で言っています。 ☆ 22節後半。 … 御自身の前に聖なる者、きずのない者、 とがめるところのない者としてくださいました。… かつては問われません。神さまが清めて下さったのです。もう、以前の私ではありません。ならば、以前の悪徳 に捕らえられてはなりません。以前の欲望を甘やかしてはなりません。以前の憎悪の感情をむき出しにしてはな りません。 罪を赦された者の、感謝と謙虚さをもって、神に、そして教会に仕えるべきでしょう。 ☆ 23節。 … ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、 あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。… 「福音の教えから離れてはなりません」とは言っていません。『福音の希望から離れてはなりません。』です。同 じことかも知れませんが、私は拘ります。 「福音の教えから離れては」いないのに、『福音の希望から離れて』しまう場合があるからです。理屈では福 音を信じ、従っているのに、「福音が現実になる、神の国が実際になる」ことを信じられなくなる場合がありま す。世の現実を、教会の現実を見るからです。見えてしまうからです。 私も、教会で働いて46年、教団で役割を与えられた17年間、いろんなものを見ました。いろんなことを見せ られました。躓きの連続です。 私の体験、私を囲む現実に照らしたならば、希望は潰えます。 しかし、『福音の希望から離れてはなりません。』 常に申しますが、私たち人間の中には、希望の根拠はありません。根拠は、聖書の中にだけあります。御言 葉にあります。 『福音の希望から離れてはなりません。』この言葉が、私たちの希望の根拠です。『恐れるな』とのイエスさま の言葉だけが、私たちが恐れから逃れられる根拠です。どんな時でも、どんな状況でも、『恐れるな』がイエスさ まの言葉です。 玉川平安教会も同じことです。玉川平安教会の牧師も役員も信仰の仲間にも、希望の根拠はないかも知 れません。しかし、『恐れるな』がイエスさまの言葉です。 |