♪ 22節に『だから』と述べられています。何故『だから』なのか、少し遡らなくてはなりません。15節よりも、14 節が直接的に関係するかと思います。 … 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、 これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。… 『わたしたちを訴えて不利に陥れていた証書』とは、旧約の律法のことでしょうが、律法に限定されることではな く、もう少し意味が拡がるでしょう。 奴隷証書であり、逮捕令状、告発状という形を取ることもあります。 15節の『もろもろの支配と権威の武装』もこれに当たるでしょう、とにかく、人間の体と心とを縛り付けてきた、 様々な迷信や、不当な権力などです。 ♪ イエスさまの十字架は、これらの悪しき力から、救い出してくれました。その十字架の犠牲によって、奴隷証 書、逮捕令状、告発状を破棄し、只の紙切れに買えてくれました。『だから』、二度と、『もろもろの支配と権 威』に繋がれてはなりません。 それなのに、コロサイの人々の中には、再び、悪しき力の奴隷にされてしまう人がいました。その悪しき力とは、 16節に描き出されています。 … あなたがたは食べ物や飲み物のこと、 また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。… 『祭りや新月や安息日』、一つ一つについて考えなくてはなりません。 ローマ・ギリシャの『祭り』について、詳しいことは知りません。調べる必要さえありません。何しろ、八百万の 神々です。八百万を365日でわれば、219.17になります。つまり、毎日毎日、何かしらの神さまにまつわる お祭りが行われている勘定です。八百万は始めから大げさだとして800にしても、日本のどこかで、毎日毎 日、2.19のお祭りがある計算です。実際に、そのくらいの数、お祭りがあるのではないでしょうか。 毎日、二つ三つと掛け持ちしなければ、全ての神さまのお祭りに参加することは出来ません。 ♪ 昔、国語の教科書に清水幾多郎の短い文章が載っていました。更に要約しますと、混んだ電車の中の話 です。一人の愛国青年が、路面電車がお社や地蔵なりの前を通りかかると、席で立ち、その方に黙礼します。 お社やお寺は沢山見掛けます。青年は、頻繁に席で立ち上がり、黙礼します。席で立ちです。席を立ちでも 席から立ちでもありません。彼は、満員電車の他の乗客、老人に席を譲ることはありません。 ♪ 『新月』、ギリシャでは天文学が盛んでした。これと共に、全くの迷信である占星術も、大真面目に受け入 れられていました。現代の占星術は、お笑い・余興のようなものに過ぎませんが、この時代には、本気で信じる 人がいたようです。 月も星も、信仰の対象でした。併せて星晨信仰と言います。何故かこの箇所では触れられていませんが、太 陽への信仰は、星晨信仰以上です。 『安息日』は、勿論、ユダヤ教の信仰です。最初の『食べ物や飲み物のこと』も、同様、ユダヤ教の信仰で す。 これらのことで『だれにも批評されてはなりません。』と、明確に述べられています。 ♪ つまりは、批評する人がいました。とかく言う人がいました。批評する、とかく口出しするのは、これらに関心が あるからで、また詳しいからです。しかし、彼らの知識は半端で、本当の知識ではありません。今日でも、そんな 人がいます。 田舎では、これらの人に辟易とすることがありました。特に葬儀の時です。田舎では、町会や職場が、葬儀を しきります。本当に細々したことまで、段取りし、指図します。それが、キリスト教の葬儀でも、表に出て来ます。 「そういうものだ」「いついつの時はそうだった」 全て習わしと、顔役の意見で決まってしまいます。 それが古い帳簿にでも記録されていて、正しいのなら仕方がありません。しかし、おうおう、顔役の記憶に過ぎ ず、甚だいい加減なものです。しきたり、習わし、実は為政者の都合に合わせたご都合・便宜に過ぎません。 ♪ きだみのるの『きちがい部落周遊紀行』を読みますと、田舎の冠婚葬祭のことが詳しく描かれています。そ れこそ「いついつの時はそうだった」が記録されていて、お香典の額まで記されています。それが、この度の葬儀 ではどれだけ包むのが適切かの判断材料になります。 きだみのるによれば、これは一種の互助組織で、合理的だそうです。そうかも知れません。保険がなく蓄えが ないひとにとっては、とても役立つ、ありがたい方法でしょう。 因みに、この本だったか別の本だったか、きだみのるによれば、かつての村社会には、徹底した村八分がありま した。一切の交流が禁止されます。村八分になった家と関われば、その人も村八分に遭います。 しかし、村八分であっても、葬儀は別です。葬儀となれば、その時だけ、普段通りの習わしが復活します。 ♪ この頃、日本基督教団の教会でも、戒規が盛んです。結構、頻繁に適用されるようです。仕方がないか も知れません。何事も曖昧、臭いものには蓋では、教会の秩序は保てないかも知れません。 私は一度も戒規などしたことがありません。それどころか、強く意見することもありません。無責任なのかなと、 反省することがあります。しかし、大抵何も言いません。牧師としては、駄目なのかも知れません。 しかし、村八分でも、葬儀は別扱いだったということに照らせば、戒規を適用していても、礼拝出席は出来 る、聖餐には与れるというのが、本当ではないでしょうか。 陪餐停止という戒規があります。法的には知らず、信仰的には、これが一番重い戒規ではないでしょうか。 陪餐停止の戒規を振り回すことは、むしろ陪餐の軽視に過ぎません。 ♪ 大分脱線しています。17節に戻ります。 … これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。… 『食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のこと』、これらは、『影にすぎず』と言っています。何ら 実体がありません。本当には、意味がありません。 もっと露骨に言えば、迷信であり、ややもすれば異教の神々への傾斜でしかありません。 そして、何よりも知 ったか振りです。 葬儀で、物知り顔に振る舞う人、知ったか振りで他人に命令する人、こういう人にとっては、大好きな戒めな のでしょう。それで、自分が人の上に立つことが出来る道具なのですから。それだけのことです。 ♪ また脱線しそうですから。18節を読みます。 … 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。… 『偽りの謙遜と天使礼拝にふける者』が、教会の中に居たのではないでしょうか、教会と関係ない人が、口出 しする筈がありません。教会の中に居た人が、『食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことで』、 知ったか振りをし、うるさいことを言っていたのでしょう。今日でもそういう人がいます。信徒よりも、牧師に多いか も知れません。 天国の裁判官になりたい人がいます。誰は救われる、誰は救われない、これを自分で決めたい人がいます。 信徒よりも、牧師に多いかも知れません。 ♪ 私は、裁判官にはなれませんし、せいぜい門番でしょうか。門番だって、上の命令に従って、誰は右の道、つ まり、天国、誰は左の道、つまり、地獄と言い渡すのかも知れませんが、門番が自分で決めるのではありませ ん。 門番も厳格でなくてはならないでしょう。神さまの沙汰に逆らってはなりません。しかし、融通を利かして、甘く 対処する門番の方が、やたらと厳しい門番や、増して裁判官気取りの人よりはましだと、私は思います。 ですから、毅然としていないと批判されようと、優柔不断だと物足りなく思われようとも、裁判官になりたくはあ りません。 火葬場には、導師の部屋があります。火葬の時には、遺骨や遺影を持った親族よりも、牧師の方が先頭に 立って歩きます。火葬場の職員がそのように言います。導師だからです。あの世に導く導師、正しい道を教える 役割だからです。 私は、導師様と呼ばれるとむずがゆくなります。私は、門番で結構です。 ♪ 18節の後半から19節。 … こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、 肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、 19:頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、 体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、 結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。… 教会で我が物顔に振る舞う人は、結局、神に仕える人ではありません。自分だけが大事な人です。むしろ、 神さまに仕えて貰いたい人です。 そんな人が、生半可な知識で分かったようなことを言い、命令を始めたら、教会は危機的な状況に陥るでし ょう。お寺や他の宗教では、このような人は少なくないようです。 ♪ 20節。 … あなたがたは、キリストと共に死んで、 世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、 なぜ、まだ世に属しているかのように生き、… コロサイ書では、同じようなことが繰り返し述べられています。キリスト者に生まれ変わったのに、何故、後ろを 振り向くようなことばかりするのかと、問われています。 そのような人が多かったのでしょう。実際大変だと思います。むしろ、今の日本の方が大変かも知れません。 キリスト者になった、つまり、神の国の市民権を得たと言っても、住所変更する訳ではありません。転職もしませ ん。プロテスタントでは、洗礼名がありませんから、名前も変わりません。 昨日と同じ生活が、今日も明日も続きます。これが、むしろ誘惑です。 ♪ 21節。 …「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。… 洗礼を受けても、『戒 律に縛られている』のが、私たちの現実なのでしょう。様々な世の決まりが、義務が、私たちにもあります。逃れ ることは出来ません。逃れてはならないことも多々あります。 この世の法律、条令、倫理・道徳、常識、これらからは逃れられませんし、逃れてはならないでしょう。職場 の縛りもあります。家庭のそれもあります。学生は勉学から逃避してはなりません。 私たちを縛り上げるものは沢山あります。 ♪ しかし、縛られていてはならないこともあります。22節。 … これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。… これが縛られていてはならないものです。 『使えば無くなってしまうもの』、かなり多くのものが、『使えば無くなってしまうもの』に当たります。あらゆる消費 財、それを手に入れるためのお金、『使えば無くなってしま』います。しかし、これを手に入れるために汲々として いるのが、人間の現実です。 ♪ 聖書の言葉を、一人一人の人間に当て嵌めて読むことは大事です。我が身を振り返ることは大切なことで す。それ以上に、教会に当て嵌めて考えなければならないでしょう。 19節も、教会のことです。先ほど省略した後半だけ読みます。 … この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、 結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。… 14節以下は、一人一人のことであり、教会全体のことです。14節以下に描かれた人々は、教会を破壊す る人々です。教会よりも、自分のことが大事な人です。教会とって何が一番かよりも、自分の好き嫌いが優先 する人です。 ♪ ならば、22節の『使えば無くなってしまうもの』も、教会のことに当て嵌めて考えなければなりません。お金の ことでしょうか。この当時教会に大金などなかったと考えます。お金がないからこそ、その使い道で揉め事になっ たのでしょぅか。どちらにしても、『使えば無くなってしまうもの』に過ぎません。絶対のものではありません。 『人の規則や教え』も同様です。今日は絶対でも明日には意味を失うものもあります。絶対ではありません。 教会で真に大事な『規則や教え』は、聖書に記されている十字架の言葉であり、使徒達が伝えた伝承です。 福音です。これは、明日には変わってしまうものではありません。教会には、福音以外に絶対のものなどありま せん。 ♪ 23節。 … これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、 知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、 肉の欲望を満足させるだけなのです。… 正にその通りです。『独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行』、そんなものは、教会には要りません。これ に拘る人は、むしろ教会に害をなすでしょう。 |