日本基督教団 玉川平安教会

■2024年9月22日 説教映像

■説教題 「偽りの謙遜」

■聖   書  コロサイの信徒への手紙 2章16〜23節 


♪ 22節に『だから』と述べられています。何故『だから』なのか、少し遡らなくてはなりません。15節よりも、14
節が直接的に関係するかと思います。

 … 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、

   これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。…

 『わたしたちを訴えて不利に陥れていた証書』とは、旧約の律法のことでしょうが、律法に限定されることではな
く、もう少し意味が拡がるでしょう。

 奴隷証書であり、逮捕令状、告発状という形を取ることもあります。

 15節の『もろもろの支配と権威の武装』もこれに当たるでしょう、とにかく、人間の体と心とを縛り付けてきた、
様々な迷信や、不当な権力などです。


♪ イエスさまの十字架は、これらの悪しき力から、救い出してくれました。その十字架の犠牲によって、奴隷証
書、逮捕令状、告発状を破棄し、只の紙切れに買えてくれました。『だから』、二度と、『もろもろの支配と権
威』に繋がれてはなりません。

 それなのに、コロサイの人々の中には、再び、悪しき力の奴隷にされてしまう人がいました。その悪しき力とは、
16節に描き出されています。

 … あなたがたは食べ物や飲み物のこと、

  また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。…

 『祭りや新月や安息日』、一つ一つについて考えなくてはなりません。

 ローマ・ギリシャの『祭り』について、詳しいことは知りません。調べる必要さえありません。何しろ、八百万の
神々です。八百万を365日でわれば、219.17になります。つまり、毎日毎日、何かしらの神さまにまつわる
お祭りが行われている勘定です。八百万は始めから大げさだとして800にしても、日本のどこかで、毎日毎
日、2.19のお祭りがある計算です。実際に、そのくらいの数、お祭りがあるのではないでしょうか。

 毎日、二つ三つと掛け持ちしなければ、全ての神さまのお祭りに参加することは出来ません。


♪ 昔、国語の教科書に清水幾多郎の短い文章が載っていました。更に要約しますと、混んだ電車の中の話
です。一人の愛国青年が、路面電車がお社や地蔵なりの前を通りかかると、席で立ち、その方に黙礼します。
お社やお寺は沢山見掛けます。青年は、頻繁に席で立ち上がり、黙礼します。席で立ちです。席を立ちでも
席から立ちでもありません。彼は、満員電車の他の乗客、老人に席を譲ることはありません。


♪ 『新月』、ギリシャでは天文学が盛んでした。これと共に、全くの迷信である占星術も、大真面目に受け入
れられていました。現代の占星術は、お笑い・余興のようなものに過ぎませんが、この時代には、本気で信じる
人がいたようです。

 月も星も、信仰の対象でした。併せて星晨信仰と言います。何故かこの箇所では触れられていませんが、太
陽への信仰は、星晨信仰以上です。

 『安息日』は、勿論、ユダヤ教の信仰です。最初の『食べ物や飲み物のこと』も、同様、ユダヤ教の信仰で
す。

 これらのことで『だれにも批評されてはなりません。』と、明確に述べられています。


♪ つまりは、批評する人がいました。とかく言う人がいました。批評する、とかく口出しするのは、これらに関心が
あるからで、また詳しいからです。しかし、彼らの知識は半端で、本当の知識ではありません。今日でも、そんな
人がいます。

 田舎では、これらの人に辟易とすることがありました。特に葬儀の時です。田舎では、町会や職場が、葬儀を
しきります。本当に細々したことまで、段取りし、指図します。それが、キリスト教の葬儀でも、表に出て来ます。

 「そういうものだ」「いついつの時はそうだった」

 全て習わしと、顔役の意見で決まってしまいます。

 それが古い帳簿にでも記録されていて、正しいのなら仕方がありません。しかし、おうおう、顔役の記憶に過ぎ
ず、甚だいい加減なものです。しきたり、習わし、実は為政者の都合に合わせたご都合・便宜に過ぎません。


♪ きだみのるの『きちがい部落周遊紀行』を読みますと、田舎の冠婚葬祭のことが詳しく描かれています。そ
れこそ「いついつの時はそうだった」が記録されていて、お香典の額まで記されています。それが、この度の葬儀
ではどれだけ包むのが適切かの判断材料になります。

 きだみのるによれば、これは一種の互助組織で、合理的だそうです。そうかも知れません。保険がなく蓄えが
ないひとにとっては、とても役立つ、ありがたい方法でしょう。

 因みに、この本だったか別の本だったか、きだみのるによれば、かつての村社会には、徹底した村八分がありま
した。一切の交流が禁止されます。村八分になった家と関われば、その人も村八分に遭います。

 しかし、村八分であっても、葬儀は別です。葬儀となれば、その時だけ、普段通りの習わしが復活します。


♪ この頃、日本基督教団の教会でも、戒規が盛んです。結構、頻繁に適用されるようです。仕方がないか
も知れません。何事も曖昧、臭いものには蓋では、教会の秩序は保てないかも知れません。

 私は一度も戒規などしたことがありません。それどころか、強く意見することもありません。無責任なのかなと、
反省することがあります。しかし、大抵何も言いません。牧師としては、駄目なのかも知れません。

 しかし、村八分でも、葬儀は別扱いだったということに照らせば、戒規を適用していても、礼拝出席は出来
る、聖餐には与れるというのが、本当ではないでしょうか。

 陪餐停止という戒規があります。法的には知らず、信仰的には、これが一番重い戒規ではないでしょうか。
陪餐停止の戒規を振り回すことは、むしろ陪餐の軽視に過ぎません。


♪ 大分脱線しています。17節に戻ります。

 … これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。…

 『食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のこと』、これらは、『影にすぎず』と言っています。何ら
実体がありません。本当には、意味がありません。

 もっと露骨に言えば、迷信であり、ややもすれば異教の神々への傾斜でしかありません。 そして、何よりも知
ったか振りです。

 葬儀で、物知り顔に振る舞う人、知ったか振りで他人に命令する人、こういう人にとっては、大好きな戒めな
のでしょう。それで、自分が人の上に立つことが出来る道具なのですから。それだけのことです。


♪ また脱線しそうですから。18節を読みます。

 … 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。…

 『偽りの謙遜と天使礼拝にふける者』が、教会の中に居たのではないでしょうか、教会と関係ない人が、口出
しする筈がありません。教会の中に居た人が、『食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことで』、
知ったか振りをし、うるさいことを言っていたのでしょう。今日でもそういう人がいます。信徒よりも、牧師に多いか
も知れません。

 天国の裁判官になりたい人がいます。誰は救われる、誰は救われない、これを自分で決めたい人がいます。
信徒よりも、牧師に多いかも知れません。


♪ 私は、裁判官にはなれませんし、せいぜい門番でしょうか。門番だって、上の命令に従って、誰は右の道、つ
まり、天国、誰は左の道、つまり、地獄と言い渡すのかも知れませんが、門番が自分で決めるのではありませ
ん。

 門番も厳格でなくてはならないでしょう。神さまの沙汰に逆らってはなりません。しかし、融通を利かして、甘く
対処する門番の方が、やたらと厳しい門番や、増して裁判官気取りの人よりはましだと、私は思います。

 ですから、毅然としていないと批判されようと、優柔不断だと物足りなく思われようとも、裁判官になりたくはあ
りません。

 火葬場には、導師の部屋があります。火葬の時には、遺骨や遺影を持った親族よりも、牧師の方が先頭に
立って歩きます。火葬場の職員がそのように言います。導師だからです。あの世に導く導師、正しい道を教える
役割だからです。

 私は、導師様と呼ばれるとむずがゆくなります。私は、門番で結構です。


♪ 18節の後半から19節。

 … こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、

   肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、

 19:頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、

   体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、

  結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。…

 教会で我が物顔に振る舞う人は、結局、神に仕える人ではありません。自分だけが大事な人です。むしろ、
神さまに仕えて貰いたい人です。

 そんな人が、生半可な知識で分かったようなことを言い、命令を始めたら、教会は危機的な状況に陥るでし
ょう。お寺や他の宗教では、このような人は少なくないようです。


♪ 20節。

 … あなたがたは、キリストと共に死んで、

  世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、

  なぜ、まだ世に属しているかのように生き、…

 コロサイ書では、同じようなことが繰り返し述べられています。キリスト者に生まれ変わったのに、何故、後ろを
振り向くようなことばかりするのかと、問われています。

 そのような人が多かったのでしょう。実際大変だと思います。むしろ、今の日本の方が大変かも知れません。
キリスト者になった、つまり、神の国の市民権を得たと言っても、住所変更する訳ではありません。転職もしませ
ん。プロテスタントでは、洗礼名がありませんから、名前も変わりません。

 昨日と同じ生活が、今日も明日も続きます。これが、むしろ誘惑です。


♪ 21節。

 …「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。… 洗礼を受けても、『戒
律に縛られている』のが、私たちの現実なのでしょう。様々な世の決まりが、義務が、私たちにもあります。逃れ
ることは出来ません。逃れてはならないことも多々あります。

 この世の法律、条令、倫理・道徳、常識、これらからは逃れられませんし、逃れてはならないでしょう。職場
の縛りもあります。家庭のそれもあります。学生は勉学から逃避してはなりません。

 私たちを縛り上げるものは沢山あります。


♪ しかし、縛られていてはならないこともあります。22節。

 … これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。…

 これが縛られていてはならないものです。

 『使えば無くなってしまうもの』、かなり多くのものが、『使えば無くなってしまうもの』に当たります。あらゆる消費
財、それを手に入れるためのお金、『使えば無くなってしま』います。しかし、これを手に入れるために汲々として
いるのが、人間の現実です。

 

♪ 聖書の言葉を、一人一人の人間に当て嵌めて読むことは大事です。我が身を振り返ることは大切なことで
す。それ以上に、教会に当て嵌めて考えなければならないでしょう。

 19節も、教会のことです。先ほど省略した後半だけ読みます。

 … この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、

  結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。…

 14節以下は、一人一人のことであり、教会全体のことです。14節以下に描かれた人々は、教会を破壊す
る人々です。教会よりも、自分のことが大事な人です。教会とって何が一番かよりも、自分の好き嫌いが優先
する人です。


♪ ならば、22節の『使えば無くなってしまうもの』も、教会のことに当て嵌めて考えなければなりません。お金の
ことでしょうか。この当時教会に大金などなかったと考えます。お金がないからこそ、その使い道で揉め事になっ
たのでしょぅか。どちらにしても、『使えば無くなってしまうもの』に過ぎません。絶対のものではありません。

 『人の規則や教え』も同様です。今日は絶対でも明日には意味を失うものもあります。絶対ではありません。
教会で真に大事な『規則や教え』は、聖書に記されている十字架の言葉であり、使徒達が伝えた伝承です。
福音です。これは、明日には変わってしまうものではありません。教会には、福音以外に絶対のものなどありま
せん。


♪ 23節。

 … これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、

   知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、

   肉の欲望を満足させるだけなのです。…

 正にその通りです。『独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行』、そんなものは、教会には要りません。これ
に拘る人は、むしろ教会に害をなすでしょう。