日本基督教団 玉川平安教会

■2024年9月8日 説教映像

■説教題 「権威の武装を解除し」

■聖   書 コロサイの信徒への手紙 2章1〜15節 


☆ 1〜5節は、先週の箇所、それ以前の箇所と重なりますので、6節から順に読みます。

 … あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、

   キリストに結ばれて歩みなさい。…

 明治初頭を舞台としたドラマを見ますと、背広に下駄、羽織袴に靴というような、和洋折衷の服装の人が出
て来ます。上下で何だか不釣り合い、珍妙な格好です。

 一方で、当時の女学生の、着物に袴、そして靴は、とても映りが良いように思います。その格好で自転車に
乗る場面もありました。私は惹かれますが、眉をひそめる人もいます。好き嫌いに過ぎないかも知れません。

 この和洋折衷こそ、日本の近代文明の象徴でしょう。この頃は聞かれなくなりましたが、和魂洋才という言葉
もありました。

 二つの相異なる文明文化の良い所を採って、混ぜ合わせるのは、大変に優れた知恵かも知れません。毛嫌
いするのは、良くないでしょう。損をします。


☆ パウロは、この文化・宗教の混交を、あまり歓迎していません。

 『主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて』とは、平たく言えば、「クリスチャンになったか
らには、クリスチャンらしく生きなさい。」という意味でしょう。パウロは、ユダヤ人クリスチャンにも、「クリスチャンにな
ったからには、クリスチャンらしく生きなさい。ユダヤ人の姿形、律法は捨てなさい。」と言います。

 「上から下まで全部信仰で生きなさい。心の部分は信仰だけど、頭は別の哲学で、腹は欲望とか、そんなこ
とは出来ない。」と言っています。


☆ テレビではしばしば見られる光景です。

 ある教会にいろんな宗旨の人が集まって祈ったことが報道されていました。平和の祈りです。今日の日本では
美徳とされるけれども、本当にそうなのでしょうか。

 画面の娘さんは、南無妙法蓮華経の法被に、十字架の首飾りでした。

 現代は、この誘惑が強いと思います。寛容、多様性、素晴らしいことに聞こえますが、それは真に豊かさなの
でしょうか。それは、偶像崇拝に過ぎないのではないでしょうか。

 八百万の神と言うくらいですから、ギリシャや日本には、無数の神さまがいます。日本だけで八百万ですか
ら、世界の諸宗教を混ぜたら、何億万の神さまです。何億万、なんと読むかも分かりません。

 神道、仏教、キリスト教、混ぜ合わせて、上手く使いこなせば良いのでしょうか。


☆ 7節の前半だけ読みます。

 … キリストに根を下ろして … 

 キリストにしっかりと立って、と読み替えてもよろしいでしょう。靴でも、下駄でもしっかりと立つことは可能でしょ
う。一番しっかりとした履き物なら、ブーツでしょうか。スニーカーの方が良い場合もあるでしょう。それぞれ利点
弱点があります。

 先日の台風のような時には、長靴が一番と思っていましたが、必ずしもそうではないと、専門家が言っていまし
た。長靴に水がたっぷり入ってしまうと脱げるし、歩くのに障りが出るそうです。

 それこそ、ケースバイケースで、ふさわしい履き物は違うようです。しかし、何通りもの靴を履くことは出来ませ
ん。何足も持ったら荷物にもなります。

 咄嗟の時に迷ってもいられません。どれかを選ばなくてはなりません。


☆ いっそ、右足には長靴、左足にはスニーカーにしたらどうでしょうか。→駄目に決まっています。両方共に、そ
れぞれの長所がある筈なのですが、右足には長靴、左足にはスニーカーだと、それぞれの短所が重なるだけで
しょう。

 背広に下駄、羽織袴に靴でもよろしいかも知れませんが、右足はキリスト教、左足は仏教、これでは、歩く
のも困難になります。しかし、実際にそんな人がいます。

 パウロ時代の教会には、そんな人の方が多かったようです。


☆ 7節全部を読みます。

 … キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、

   あふれるばかりに感謝しなさい。…

 『キリストに根を下ろして』いなければ、信仰は育ちません。田んぼと畑の両方にまたがって根を下ろす植物な
どありません。否、有るかも知れません。ただし、雑草です。田んぼでも邪魔者、畑でも抜かれてしまいます。

 田んぼにいて、畑を羨む草があるでしょうか。有るかも知れません。畑に育って、田んぼに焦がれる作物はあ
るでしょうか。有るかも知れません。ただし、雑草です。


☆ 8節の前半。

 … 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事 …

 だましごとの哲学、人間の知恵、具体的には記されていませんが、見当はつきます。ギリシャの古典にもそん
な場面が出て来ます。当時の有閑階級では、哲学が、一種の趣味道楽でした。政治談義もそうでした。これ
らの人と同じような感覚で、宗教を趣味道楽とした人もいたことでしょう。明治期の日本にもそんな人がいまし
た。趣味教養です。

 18節もヒントになります。

 … 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。

  こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、

  肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、…

 ここもあまり具体的とは言えませんが、8節18節とを重ねますと、おぼろげながら姿が見えてまいります。

 信心深いようでいて、中身のない信仰です。暇人の道楽みたいな信仰です。

 「あなた方は、そんなものを求めて、信仰の道に入ったのか」とパウロは問います。


☆ 8節に戻ります。8節後半。

 … それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。…

 『世を支配する霊』、パウロはこれを否定していません。その存在を認めています。しかし、『従ってはならな
い。』と言います。

 当時の人々ですから、今日のような科学的知識には、どうしても欠けます。迷信にとらわれています。パウロ
は迷信を肯定しているのではなくて、人々が迷信にとらわれている現実を認識しています。

 ですから、真っ正面から『世を支配する霊』を否定し、そんな物は存在しないとは言いません。ただ、『従って
はならない。』と言います。


☆ 何でもかんでも信じやすいことが、信仰深いことではありません。しかし、今日でも、迷信深いことと、信仰深
いこととを区別しない人、区別出来ない人がいます。

 使徒言行録17章11節。

 … ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、

   非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。…

 全く無批判に信じること、何でも信じ受け入れることが信仰ではありません。

 ここに述べられているように、『非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べてい
た。』それが真の信仰の熱心です。


☆ 9節。

 … キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、

   見える形をとって宿っており、…

 『キリストの内には、満ちあふれる神性が』ありますから、他の神々、他の哲学や思想にそれを求める必要は
ありません。

 ところが、コロサイの教会員の中には、何かしら教会の教えでは物足りないものを感じて、他の宗教や思想・
哲学にそれを求めた人がいたのでしょう。そういうことを、一段と優れたことだと考える人は、今日でもいます。今
日の方が多いかも知れません。

 もう一度、使徒言行録17章11節を読みます。

 … ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、

   非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。…

 このような熱心さならば、納得の行く答えを見出すことが出来るでしょう。それをしないで、別の宗教や思想・
哲学に解決を求めても、駄目でしょう。


☆ 10節。

 … あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。

   キリストはすべての支配や権威の頭です。…

 現代は多様性の時代です。

しかし、無警戒に多様性を受け入れると、それは八百万の神への信仰になり、気付いたらキリスト教ではなくな
ってしまうでしょう。こういう人たちにとっては、キリスト教も八百万の神、八百万の信仰の一つでしかありません。

 現代は多様性の時代ですと申しましたが、実は、聖書の時代こそ、多様性の時代でした。

 聖書の時代と言いますのは、コロサイ書の時代だけではありません。旧約聖書に描かれる時代から、ずっと、
八百万の神を信仰する時代であり、多様性の時代でした。これは、創世記にも描かれていますし、預言者が
告発したのも、この多様性です。


☆ 11節。

 … あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、

   つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、…

 学問的に言うならば、様々な価値観、多様な宗教の中に、もっとも目新しいキリスト教が加えられたのかも
知れません。しかし、パウロの考えは違います。

 『肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け』たのです。もう一枚上に来たのではありません。今までのものを
脱ぎ捨てたのです。


☆ このことをより強く、より本質的なことで声明するのが、12節です。

 … 洗礼によって、キリストと共に葬られ、

   また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、

  キリストと共に復活させられたのです。…

 一番簡単に言えば、新しい人生を始めたのです。人生に新しい一日が加えられただけではありません。人生
そのものが新しくなったのです。


☆ 13節も同様です。全く同じ意味です。前半だけ読みます。

 … 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、

   神はキリストと共に生かしてくださったのです。…

 新しい人生が始まったのです。

 今までの人生に、何かしら新しい体験・知識が加えられて、より豊かになったのではありません。背広に下駄、
羽織袴に靴ではありません。和洋折衷ではありません。


☆ 13節後半から14節。

 … 神は、わたしたちの一切の罪を赦し、

 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、

  これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。…

 古い証文は破棄されました。古い身分は捨てられました。

 ユダヤ人の歴史で言えば、エジプトやバビロンでの奴隷生活から解放されたことに、匹敵します。エジプトやバ
ビロンで、彼らを奴隷に縛り付けていた証書が破られ、自由が与えられました。それは、エジプトやバビロンの
神々から解放されたことでもあります。

 日本人で言えば、以前の身分制度や、村々に、家々にまつられる八百万の神々から自由になったことを意
味します。


☆ これを可能にしたのが、イエス・キリストの十字架です。そして15節。

 … そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、

   キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。…

 ジャンケンをして、負けた者は勝った者の後ろに着くゲームがあります。出来た列の先頭と先頭が更にジャンケ
ンして、最後に二つの列の先頭がジャンケンして、統一されます。 イエス・キリストの十字架の勝利によって、
他の神々は、その列の後ろに従えられたのです。勿論、他の神々など存在しません。

 しかし、神々が象徴する文化や宗教が、キリスト教の後ろに従えられたのです。『もろもろの支配と権威の武
装』は、既に解除されました。これに従う必要はありません。

 昔々、間違いなく神々が、八百万の神々が、人間を支配していました。偶像が支配していました。実際には
存在しない神々が、人間を支配していました。これは歴史的事実です。勿論、実際には、神の名前を騙る人
間が支配していました。

 真の神さまを知るとは、これらの迷信や偶像崇拝から自由になり、本当の物を知ることです。自由と多様性と
は意味が重なります。自由とは、多様な価値観に支配されることではありません。そこから自由になることです。
自由を得て、真の多様性が生まれます。