パウロが書いたローマの信徒への手紙を読んでいますが、今日の聖書箇所は救いについて言及されています。 救いをなんとするかは宗教によって違います。宗教によっては救いと言うより、目標、目的、となるかもしれませ ん。 天理教などは、陽気暮らしをすることが目的です。陽気暮らしとは一言で言えば、その文字通りに陽気に、皆 笑顔で暮らしていく、それが天理教の目的です。天理教が神様だと信じる神は、人々が陽気暮らしをしている ところを見たい。そのように生きて欲しい、と願う神様だそうです。 仏教はどうでしょうか。仏教では苦しみから解放されて、安らかに生きるための方法が教えられているそうです。 今をイキイキと生きるための智彗を教える、それが仏教だという人もいま。 これで最後にしますが、イスラム教における救いは、アッラーの慈悲で天国に入れられることだと考えるそうです。 そこで言う天国は、緑豊かな、木々のざわめき、小鳥のさえずりが聞こえてきそうな世界がイメージされていま す。物質的な喜びとして、なんでも豊かな食べ物が食べられるだとか、若く美しい従者がもてなしてくれるだとか があるそうです。また、天国には諸階層があり、この世の善行の度合いによって、そこでの地位が決定するよう です。そして天国の中でも日々進歩していくのだそうです。 さて、キリスト教の言う救いは色々な言い方ができますが、今日の聖書箇所で言えば「体が贖われ神の子とさ れること」です。肉において、罪の縄目に囚われてしまっている私たちが、その罪贖われ、神の子とされる。つま り、主イエス・キリストの十字架の出来事によって、罪贖われ、神の子とされ、神の国に入れられ、永遠の命を 生きる。そこで今日の聖書箇所は、神の子の現われが被造物の救いにも繋がることが言及されています。今 はまだ、被造物は虚無に服している状態として語られるが、神の子の現われによって滅びへの隷属から解放さ れるのだと。 虚無とは、神様の創造の業と反対に位置するものだ、とも言われます。創世記1章2節にこうあるからです。< 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。>因みに、「混沌」は口語訳聖書 の時には「むなしい」と訳されていました。この後に、神様の創造の業が展開されます。創造と虚無は、反対語 として使われているのです。ですから、虚無は創造を否定するようなものです。 また、「虚無に服している」とは、「本来の目的を達成しえない状態」だとかの意味があるそうです。虚しい状態 に陥っているとは、人間に本来備えられた一つの目的である、神の御栄光をあらわすだとか、神を讃えるだとか から離れてしまっている状態です。 被造物は虚無に服し、滅びへと向かっている。けれど20節において、被造物は<服従させた方の意思>によ って虚無に服していると言及されています。神のご意志によってそうなっているのだ、と。 これは、創世記3章1節以下の、あの蛇の誘惑の話に繋がると言われます。人は蛇の誘惑を受け、いわゆる 禁断の果実、善悪の知識の実、だとか言われる、神様から食べてはならないと言われていた果実を食べてしま いました。あの話が表していることの全てを話すことはできませんが、そこで確かに言われていることは、人が神に 不満を持った、もしくは持っていた、ということです。神を賛美し、ほめたたえるどころか、神の下に守られ、何不 自由しなかったはずのエデンの園の生活に不満・不平を抱いていた。そして神の言い付けを破り、追放され、 荒れ野のような世界を生きるはめになった。そのことが「虚無に服している」という表現で念頭におかれている事 柄でしょう。被造物はその罪のために、神様のご意志で、本来の目的を見失う結果となっているのです。 その中で18節においてパウロはこう述べていました。 <現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足らないとわたしは思います。 > 現在の苦しみは確かにあります。パウロに至っては、鞭打ちの刑や石を投げつけられること、乗っている舟が難 破するなどとても大変な目にあっています。そのような中、命をかけながら伝道していたにも関わらず、無理解の うちに批難されることも度々ありました。不正を働いている、とまで思われていた時もあるようです。弱いと見える 時にも私は神のもとにあって強いと言い、どんなに辛い目にあっても、イエス様によって満足している、と語るあの パウロが、現在の苦しみ、と言います。パウロは苦しみがなくなったとか、苦しみなんて存在しない、などとは言い ません。確かに今現在苦しみがある。現代でもそれは大きくは変わりません。色々な、多くの重荷をそれぞれが 担っている。 しかし、ここの話はそれぞれが苦労しているだけということでは終わりません。この現在の苦しみは、披造物全体 が負っている苦しみのことなのだと言われているのです。個々人がどうたらで終わる話ではありません。被造物 全体の事柄です。虚無という創造の反対の事柄によって、神様の創造の業が否定され、破壊されている。 これまでも人は多くの転換期を迎えました。世界の平和への道筋がありそうでありながら、その罪ゆえに、虚無 の状態ゆえに、そのチャンスを無下にしてきたのではないかとも思えてしまいます。キリスト教徒が爆発的に増 え、キリスト教国が大きく広がったとき。同じ信仰をもって、同じ主を賛美する群れであるならば、まことに隣人を 愛し、平和な世界を作れてもいいはずが、それができなかった、できないのが人間です。インターネットで世界 が繋がって、遠く離れていてもお互いのことを理解し合えるツールを与えられたにも関わらず、そこで争いを繰り 広げるものたちです。神様に委託された世界を、地球を考えることなしに、環境破壊も大きな問題となってしま った。その時代の人たちが、またわたしたちの時代の人間が特別悪いものだからこのような現状なのか。世界で は戦争が絶えず、先進国においてさえも餓え、虐げられる現状は、私たちが完全なる平穏・平和を創造しえな い存在だからなのか。そうだと思うのです。虚無に服し、神の業に反抗して、神の御心が働いていると信じな い。この世界が神によって造られ、導かれていると信じることなしに、どうにかなると思い込んでいる。そのような 被造物である。 しかし、その被造物に希望があります。20節にこうありました。 <被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意思によるもの であり、同時に希望を持っています。> 確かに虚無に服しているが、同時に希望を持っている。21節。 <つまり、被造物も、いつか滅びの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからで す。> ここで語られる栄光とは、個々人の病や苦難だとかからの解放にとどまりません。それで収まるならば、個々人 にとってのその苦しみが過ぎ去ればことさら問題になることではありません。個々人にとどまらず、被造物全体の 解放です。そこで起こる新たなる創造、復活のことが言われているのです。 パウロが言っているのは、私たち人間が、罪を赦されて神との関係を回復され、神の子とされ、神の御心に従っ て歩む者となる時に、被造物は虚無の状態から、造り主である神の栄光を現わしほめたたえるという本来の目 的を達成するものへと変わることができる、ということです。今は虚無に服してしまっている被造物が、自分たちを 支配している虚無から、滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光輝く神の下にある自由に与る日が 来る、という約束が与えられているのです。 それはどのようになされ、どのような状態、世界になるのか。神の子たちが現れて、神の国が完成する時です。 24節。 <わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。 現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。> しかしそれは見ているものではないとパウロは言うのです。この肉の目で、虚無に服している目で見るようなもの ではない。しかし、見えないからこそ希望をもって待つことができる。見ているものに希望をもつのではなく、見え ないものにこそ希望をもてるのだと。 最初に簡単に各宗教を見ました。他の宗教は、人の想像の範疇に収まるような願望や、この世でどう豊かに 生きるか、といった事柄に救いを見ていたのではないでしょうか。見えているから、ある意味分かりやすいでしょ う。イスラム教の考える物資豊かな世界と、キリスト教の言う見えない希望を比べると分かりやすい気がします。 若い付き人がつく世界、鶏肉が不自由なく食べることできる世界。 パウロは、そのようなところに目を向けてはいません。人が考え、望むところには限界があります。人の考える理 想は、本当にはすべての人を救うことにはならない。あんな世界、こんな世界が良い、素晴らしい完全無欠な 世界だと考えても、それは他の人にとってはどうかはわかりません。人の手ではなしえない神の国の完成、その時 を神に求め、願いながら待っているのがわたしたちの信仰であり、希望です。 主の祈りで「御心の天になるごとく」と祈ります。神様の御心にかなうことが一番だと。人間の考える救いは、ま た希望は、しょうもなかったり、他のものを抑圧することがらであったりし、誰もが本当に納得できる世界など想 像の範疇でも造ることができない。けれど、パウロが言う見えないものならば、人が想像するものの範疇に収ま らない事柄だからこそ、将来わたしたちに現わされるはずの栄光は、希望となるのではないでしょうか。 実際私たちは、見えない、見ていないイエス・キリストの十字架の死と復活を信じ、その御栄光に与ることを待 ち望んでいます。既に、未だ、待ち望んでいます。そんな希望を与えられているが、その完全な姿を見ていませ ん。完全な救いの完成に与っていないからこそ、希望をせばめるのではなく、かえって希望を生み出し、それが 強まるなんてことが大いにあるのではないでしょうか。 もう一度18節。 <現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足らないとわたしは思います。 > 現在の苦しみを、取るに足らない事柄とするほどの栄光を確信している。言ってしまえば、苦しむ度に、この程 度のことなんて取るに足らない栄光が現わされる、と信じて歩むことができる恵みが与えられている。 この後わたしたちは聖餐式において、神の子として天の食卓に与ります。信仰をもって、聖霊によって味わいま す。先に送り出した、代々の聖徒と共にです。見えないけれど、確かにこの礼拝に連なり、聖餐式という天の食 卓を共に囲んでいる代々の聖徒と共に、この食事を頂きます。そうして罪赦され、汚れ清められ、からだの贖わ れる望みを、堅くさせていただきます。この希望は、世の終わりまで希望であり続けます。確かに現在の苦しみ はあるけれども、本当に苦しくうめくほどだけれども、それを取るに足らないと言えるほどの希望が、忍耐の先に 備えられています。ならば、その希望の完成を、神の国の始まりに見ることを望み、忍耐して待ち続けたいと思 います。その信仰に力づけられ、この新しい一週間も歩んでまいりたいと願います。 |