日本基督教団 玉川平安教会

■2024年9月1日 説教映像

■説教題 「苦難をも喜びとし」

■聖   書 コロサイの信徒への手紙 1章24〜29節


☆ 聖書を読む時に、断片断片を読み、断片的に考えることは、あまり褒められたことではありません。とんでも
ない誤解を生むことがあります。

 正しく理解するためには、文章全体の流れで読まなくてはなりません。更には、コロサイ書ならコロサイ書全体
の主題を意識して、それに照らして1節1節を読み取ることが大事でしょう。もっと言うならば、新約聖書全体の
信仰に添って読まなくてはなりません。

 普段の説教では、そういうことを心がけているつもりです。

 しかし、今日の箇所では、むしろ、断片断片を読み、断片的に考えることから始めた方が良いようです。その
理由は、自ずとお分かりいただけるものと思います。


☆ 24節。

 … あなたがたのために苦しむことを喜びとし …

 より割愛すれば、『苦しむことを喜び』。

 いろんな宗教で、まま見られることです。『苦しむこと』、困難な修行を積むことで、何かを見出すことが出来
る、と言うよりも、むしろ『苦しむこと』そのものに意味を感じ、それが喜びにさえなるという教えは少なくありませ
ん。実践した人も少なくありません。

 以前にもお話ししました。ヒンズー教では、この傾向が強くて、聖地巡礼までは理解出来ますが、その巡礼の
旅を、困難なものにするために、歩かずに這って行く人がいます。極端には足を切断する人がいます。チベット
仏教にもあります。


☆ 座禅を組むことには、意味があるかも知れません。しかし、足が腐るまで、組んだ手の爪が伸びて掌に食い
込むまでとなりますと、尋常ではない、狂気を感じてしまいます。

 キリスト教の歴史にも実際にありました。この世の汚れを離れて、高い塔のような所に籠もって修行する話
は、一杯あります。この塔がやたらに高くなり、そして立っていられる部分が狭くなります。仕舞いには、鳥の巣の
ようになりました。そこに修行者が立っています。

 食事は、下にいる人が棒の先に付けて届けてくれます。修行者は、体力尽きて転落死するまで、これを続け
ます。それも修行なのかも知れません。そこまで頑張れば、何かしら余人には見えないことが見えるのかも知れ
ません。

 しかし、即物的人間である私などは、余計な心配をします。排泄はどうするのだろう。高い台座の上から、立
ったままで済ますのだろうか、と考えてしまいます。そう考えた瞬間に、この修行の有り難みなど、かけらもなくなり
ます。


☆ うんと断片的に読みました。その結果は、今申し上げたような、とんでもない解釈に繋がります。『苦しむこと
を喜びとし』だけを読んだ結果です。

 どうしても『あなたがたのために』と一緒に読まなくてはなりません。『キリストの体である教会のために』と一緒に
読まなくてはなりません。

 パウロの苦しみに意味があるのは、苦しまなくてはならないのは、『あなたがたのために』です。コロサイ教会員
の救いのためにです。そうでなければ、ただのマゾヒズムでしょう。キリスト教の歴史には、我が身を鞭で打つこと
に意義を見出す鞭打ち教徒が存在しました。自殺教徒さえ、実際にいました。


☆ 24節の後半。

 … キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。…

 『キリストの苦しみの欠けたところ』なんかあるのでしょうか。そんなものはありません。有ったら、イエスさまの十
字架の犠牲は不完全なものとなり、十字架の意義は消えてしまいます。十字架は、単なる自己犠牲になって
しまいます。

 『キリストの苦しみの欠けたところ』を、パウロが補うことが出来るのでしょうか。パウロは、キリストに並ぶような
存在なのでしょう。

 日本のいろんな新興宗教では、『キリストの苦しみの欠けたところ』を、我が教会のご教祖様が補ったという教
えがあります。

 お釈迦さんとキリストさんが、一緒に現れて、「自分が、し残したことを、あなたが完成して欲しい」と頼まれたと
いう新興宗教があります。もしかしたら、今日のこの箇所を、断片的に読んだことから得られたヒントなのかも知
れません。

 統一協会の教えによりますと、十字架では、救いは95%まで達成されたけれども、残りの5%が足りないそ
うです。その分、信者は、インチキ募金をしてまで、原理のお父様・お母様に献金しなくてはなりません。


☆ 『キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。』

 これは勿論比喩的な表現です。ギリシャ語原点がどうのこうのではなく、このように理解すべきでしょう。

 「キリストの苦しみに欠けたところがあるかのように、身をもって満たしています。」

 似たような言葉があります。ガラテヤ書4章19節。

 … わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、

   わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。…

 間違いなく比喩です。コロサイ書24節と同じ種類の比喩です。

 十字架では足りないことを補うという宗教は、それだけで異端です。説教だって同じだと思います。聖書では
足りない所を補うのが説教ではありません。しかし、そんな風に考えている牧師はいますでしょう。それだけで異
端の疑いがあります。


☆ 25節前半。

 … 神は御言葉をあなたがたに

  余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり…

 ここも、先ずは断片的に読みます。『御言葉を〜余すところなく伝えるという務め』。

 昔の牧師は1時間の説教は当たり前、2時間3時間の人もいたと聞きます。『余すところなく伝える』とした
ら、それでも足りないでしょう。

 今は30分前後が普通でしょうか。長い人で40〜50分、私などは、とても短い方に分類されるでしょう。

 『余すところなく伝える』ことは困難です。不可能かも知れません。しかし、これが大原則だということを忘れて
はならないでしょう。毎回毎回の説教で全てを語ることは出来ません。しかし、そのような意気込みを忘れては
ならないでしょう。反省させられます。


☆ 25節後半の方が大事かも知れません。

 … この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。…

 パウロは『この務めのために』、使徒とされました。『この務め』、則ち、『御言葉を〜伝えるという務め』です。こ
れが牧師たる者、教会の務めです。他のことではありません。

 現代は、カウンセリングがとても重んじられます。大事なことでしょう。牧師も少しはこの勉強をし、基礎的な知
識くらいは持っていないと務まらないか知れません。

 しかし、『この務めのために』、『この務め』、則ち、『御言葉を〜伝えるという務め』が牧師、そして教会そのも
のの務めです。

 私の個人的な見解では、牧師が、たいしてありもしないカウンセリングの知識を持ち出すよりは、必要に応じ
て専門家と一緒に働く方が良いと思います。

 白河教会の時に、つまり、未だ新前牧師の時に、お医者さんと一緒に一人の人に向かい合ったことがありま
す。このお医者さんは、牧師の働きをとても重んじてくれました。

 一方、お医者さんの中には、「信仰はそもそも病気に悪い」と考える人もいるようです。


☆ 26〜27節は後回しにして、28節を読みます。

 … このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、

  すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、

  知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。…

 これが本来的な牧師、そして教会のなすべき務めです。他のことではありません。

 『知恵を尽くして』と記されていますから、いろんな体験や学問的知識を動員して、この務めに当たるべきこと
は勿論、間違いではないでしょう。

 それもこれも、牧師、そして教会の本来的な任務を全うするためであって、体験や学問的知識を披瀝するた
めではありません。

 とにかく目的は『すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように』です。他のことではありません。この目
的を曖昧にしてはなりません。


☆ 29節前半。

 … このために、わたしは労苦しており…

 このためです。このためだけにです。『すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように』です。これが伝
道の意味です。牧会の意味です。他のことではありません。

 『このために〜労苦して』いるから、24節に戻り、『あなたがたのために苦しむことを喜びとし』ています。

 これは苦しむことを自己目的とした苦難ではありません。『すべての人がキリストに結ばれて完全な者となる』と
したら、それは大きな喜びです。ですから、『あなたがたのために苦しむことを喜びと』することができます。


☆ 29節後半。

 … わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。…

 戦いです。苦しい戦いです。

 オリンピック競技を巡って議論がありました。一昔前まで、日本代表選手は、オリンピック本番で、普段の力
を発揮することが出来ないと言われていました。緊張のあまりです。もう少しリラックスしなければ、精神的に余
裕がなければ、普段の力を発揮することが出来ないと言われました。その通りでしょう。

 この頃は、「楽しんできます。」と言う選手がいます。「楽しかった。」と言う人もいます。だからでしょうか、以前
よりも成績が良いようです。

 しかし、これを批判的に見る人もいます。「楽しんできますならば、自分のお金で行ってこい。」と批判します。


☆ 意地悪いことを言わなくとも、「楽しんできます。」「楽しかった。」で、成績を上げているのだし、結構ではな
いかと思います。

 これは、こと伝道・牧会でも同じことでしょう。伝道・牧会は、牧師の趣味ではありません。仕事です。そして
戦いです。パウロの言うように、『苦しみ』でしょう。苦しむくらいに戦わなくてはならないでしょう。

 一方、この戦いは苦難は、『喜び』になるに違いありません。

 教会そのものも全く同じことでしょう。教会を営むこと、教会生活をすることには『苦しみ』が伴います。その信
仰が、その思いが真剣なればこそ、『苦しみ』が伴います。

 遊び半分で出来ることではありません。

 しかし、その『苦しみ』こそが、他のことでは決して得られない本当の『喜び』に繋がるに違いありません。

 『苦しみ』に始まって『苦しみ』に終わるような信仰は、どんなに熱心であっても、決して健全ではありません。

 新興宗教の信仰生活で、そのような悲惨な状況に陥り、救われない人を知っています。そのような人と出会
いました。もし、教会生活をそのようにしか味わうことが出来ないとしたら、それは真の希望のない新興宗教と同
じです。


☆ 26節に戻ります。

 … 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、

   今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。…

 これが十字架です。十字架は、神の『秘められた計画』の結果です。

 十字架は、罪人に与えられた過酷な刑罰です。最大の『苦しみ』です。体の痛み、不名誉、絶望、それが
最大の『苦しみ』です。

 しかし、十字架は、神が人間になられたことの極まりです。神は、人間の体や心の痛み、不名誉、絶望、そ
れを体験され、知られ、そして人間に同情されたのです。そのことで、人間には最大の『喜び』が与えられまし
た。


☆ 27節。

 … この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、

   神は彼らに知らせようとされました。…

 これがパウロの使命です。パウロの仕事です。パウロは、神の『秘められた計画』に与りました。そこには一個の
人間として耐えられないような『苦しみ』があります。そして、同時に、とても人間には味わうことの出来ないような
『喜び』が与えられました。

 神の『秘められた計画』、その計画とは、『あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。』パウロは、
そのように言い表しています。私たちは、この計画に与る者であり、そしてこの『秘められた計画』を述べ伝える
者です。

 教会には、神の『秘められた計画』が与えられています。だから、世の人が経験しない『苦しみ』があります。
信仰があるから、正義を信じるからこそ、『苦しみ』があります。

 しかし、これを信じる者だけに与えられる、本当の喜びに繋がります。