12節に、キリスト者として、「身に着ける」べき、徳目が上げられています。 … だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、 あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。… 『身に着ける』という言葉は、日本語の感覚で読んで、全く差し支えありません。ギリシャ語でも、自分のもの にする、借り物ではなく、自分の体の一部のようになるという意味合いです。 『あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着け』る。借り物ではなく、自分の体の一部であるかのよ うに、『身に着け』ることが勧められています。 身についたものの逆は、既に申しましたように、借り物と言うことでしょう。更に、わざとらしい、嘘くさい、偽善的 というような表現になろうかと思います。パウロ書簡中にも頻繁に用いられる言葉です。 先々週の箇所2章23節に通じるかと思います。 … これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、 知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、 肉の欲望を満足させるだけなのです。… 要するに、取って付けたようで、嘘くさいと言うことでしょう。 『身に着く』『身に着かない』の違いはどこにあるでしょう。 コロサイ書がしている通りに、洋服の譬えで考えるのが効率的です。 真新しいものは、どこかしっくりと馴染みません。何回か着て初めて馴染んできます。つまり、繰り返し行うこと が、身に着くためには一番大切なことです。 信仰的な行いも、繰り返し行うこと以外には、真に自分のものにする術はありません。 しかし、寸法が合っていないと、何度繰り返し着ても、身に着きません。初めから仕立てが違っていれば、どうに もなりません。 色柄の良い半袖ワイシャツを持っていました。子どもからプレゼントされたものです。しかし、どうも着心地が悪 い、捨てようかと思い、しかし、プレゼントだからと、初めてネームを調べたら、某有名デザイナーのものでした。廉 くなかったと思います。もったいないと、捨てるのを止め、むしろ頻繁に着るようになりました。 しかし、どうにも着心地が良くない、それでも惜しいから、今まで、ズボンの中に入れて着ていたのを、外に出 すようにしました。途端に、ぴったりとします。急にお気に入りになりました。時既に遅く、大分よれよれですが。 身の丈に合ったという表現をします。無理は、無意味です。 逆に言えば、身の丈に合ったものを纏って、これを繰り返し着ている内に、しっくりと馴染んで、自分の肌のよう になります。 『あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容』でも同じことです。 身に着かない間は、違和感があります。借り物のような気がしますでしょう。 他人が観て、似合わないと笑っているかも知れない、とさえ思うでしょう。わざとらしい、嘘くさい、そんな気持ち さえするかも知れません。 しかし、繰り返し身に纏っている間に、自分も他人も、これに慣れ、ごく自然に見えるようになって来ます。 これが身に着くということです。 しかし、初めっから無理なことは、どんなに時間をかけても馴染むことはありません。 靴がそうです。寸法が合わないものを、無理して履いていると、思わぬ所に、歪みが出て来ます。足や腰が痛 くなったり、時には、頭痛がしたりします。 或る人が、体調の不調を覚えて、お医者さんに看て貰いました。しかし、原因が分かりません。そうしている内 に、どんどん悪化します。死をも覚悟したこの人は、今生のお別れにと、長い間果たせなかった旅行を思い立ち ます。 最後の旅行だからと、洋服や靴も、新調します。特に、Yシャツを、オーダーメードにしました。そうしましたら、 仕立屋さんが言います。「随分、首回りのきついものを召しておられましたね、少し、余裕を持たせましょう。」 新しいYシャツが出来ました。これを着たら、この人は、たちまち快方に向かいます。 病気でも何でもなく、首回りの寸法が合っていなかったのです。 角川文庫のジョーク集に載っている話です。 13節。 … 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。 主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたも同じようにしなさい。… 要するに、「互いに我慢しなさい」とあります。 12節の「あわれみの心」は、元の字は「あわれみの同情」でありまして、似たような意味の言葉が重ねられて います。「深い同情」とでも訳すべきでしょう。 確かに、我慢しなくてはなりません。我慢も、繰り返していれば身に着くかも知れません。しかし、限度がありま す。 そもそも、寸法が合っていなかったら、どうにもなりません。その時、我慢は無駄です。 12節の始めに戻ります。 … だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから … これが、寸法です。この寸法に即していて、初めて、我慢も出来るし、繰り返し行って身に着きます。 『神に選ばれた者、聖なる、愛されている者』と聞くと、「自分はそんなにたいそうなものではありません」と、逃 げ出したくなる人があります。また、クリスチャンは思い上がっていると反感を持つ人もいます。 しかし、常に申しますように、そんな意味ではありません。 むしろ、普通に受ける印象とは逆です。『神に選ばれた者』つまり、自分の修行や努力で勝ち取ったのではあり ません。神さまから恵みとして与えられました。 『聖なる』、これも常に申しますように、私たちは、神さまとぴったりくっついている時に、『聖なる』と呼ばれます。 神さまが聖だから、それにくっついている者が、聖となります。磁石のようなものです。『愛されている者』、全くそ の通りです。 私たちに、私たちの人生に値打ちがあるのは、神さまに愛されているからです。子ども、特に幼児と同じです。 子どもに値打ちがあるから、愛されているのではありません。愛されていることで、値打ちが上がるのです。 また、だからこそ、つまり、ただ神の選びにより、恵みにより救いを見ることが出来たのだから、他の人を、裁きの 目ではなくて、 『あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容』の目で、見ることが可能になるのです。 だから、『あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容』を身に着けることが出来るのです。単に、美徳として、 これを手に入れようとしても、寸法の合わない着物のように、馴染むことは決してないでしょう。 信仰なき『あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容』、それは『独り善がりの〜偽りの謙遜』に堕ちてしまう かも知れません。 そして、14節。 … これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。 愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。… 『愛を加えなさい』とありますのは、先程の『身に着けなさい』と同じ字です。つまり『愛を着なさい』となります。 愛を身に着けるのです。 『身に着けなさい』という表現は、3章10節でも用いられています。 9節の『脱ぎ捨て』は、その逆です。 こうして見ますと、コロサイ書の著者は、とことんまで、この『着る』という字に拘っています。 更に言うならば、それは、独りコロサイ書の特徴ではありません。着物を「着る」ということが、信仰的な意味で 比喩的に用いられている例が、随所に見られます。 コリントの信徒への手紙一15章53〜54節では、 … なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、 この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 54:この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、 聖書に書いてある言葉が成就するのである。… エペソ4章24節。 … 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、 真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。… そして、極め付けはローマ人への手紙13章14節、『主イエス・キリストを着なさい』、 同様の表現が、ガラ テヤ3章27節。 … 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、 キリストを着ているからです。… かなり、くどい程に、証拠を上げて、お話ししています。しかし、結論は単純と言えば単純です。「着る」ことは、 その人の本質を隠蔽することではなくて、その人の本質が変えられることなのです。 私たちは、中身は中身、外は外みたいな考え方をします。しかし、聖書的には、中身と外面は、決して切り 離すことが出来ません。外面が変わることは、中身が変えられることであり、中身が変われば、外面も変わりま す。 勿論、コロサイ書も、この着物のことを、比喩として語っています。ですから、究極、服装のことを問題にしてい るのではありません。 要するに、中身とは信仰のことであり、愛情のことであり、外面とは、具体的な行動、倫理・道徳のことなので す。 確かに、道徳・倫理イコール信仰ではありません。しかし、信仰的には立派な人だが、倫理・道徳的には問 題があるなどということはあり得ないのです。 最近は、道徳・倫理などという言葉を持ち出しますと、いっぺんで嫌われます。しかし、愛の業という具体的な 実を結ばない信仰は、存在しません。 道徳・倫理的に腐った実をつける信仰は、存在しません。 そのことを、私たちは、最近に嫌という程思い知らされました。オウム真理教、統一協会、彼らの教えが正し いかどうか、その教理を検証し論駁するまでもありません。道徳・倫理的に腐った実をつける信仰は、存在して はいけません。それは邪教です。 このまま、ガザの戦闘が続くなら、ユダヤ教も勿論イスラム教も、邪教の誹りを免れないでしょう。少なくとも、 その宗教的指導者は、戦争抑止の発言をしなくてはなりません。しかし、彼らが平和を説くことは、全然ありま せん。邪教の誹りを免れないでしょう。 15〜17節では、神に対する感謝が必要だと、繰り返し強調されています。これも、信仰の具体的な果実で す。 神さまの愛を信じていながら、常に不平不満で生きていることは矛盾です。信仰を与えられた、つまり、十字 架に架かって、私たちの罪を赦して下さった神さまを信じていながら、他人を赦すことが出来ないなどということ は、あり得ないことです。 神さまの愛を信じたならば、『憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容』という着物を着なくてはなりません。そ れは、キリスト者のユニホームです。 このユニホームを着けなければ、チームの一員ではありません。そして、ユニホームを着続けている時に、私た ちは中身まで変えられます。感謝という着物を着た者は、何時迄も不平不満で生きていることはありません。 十字架に架かって、私たちの罪を赦して下さった神さまを信じるということは、『憐れみの心、慈愛、謙遜、柔 和、寛容』という着物を纏うことです。そうすれば、他人を赦すことが出来る者に変えられて行きます。 同様に、3章18節以下、ここでは秩序を大事にしています。そして、現代人の猛反発を受ける箇所です。 確かに、現代人の感覚には合わないものがあります。しかし、これを、体制的だとか、封建的だとか批判する ならば、それは、むしろ、皮相な見方です。もっと本質を見なくてはなりません。 12〜17節を丁寧に読んでいれば、そんな誤解は生まれない筈です。 最後に、以上申し上げて来た、すべてのことを前提として、14節を、もう一度読みたいと思います。14節。 … これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。 愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。… 帯は、着物を着た後で最後に身に着けるものです。つまり、帯を着けることで、服装は整います。完成しま す。帯は、身に着けたもの全てを一つにまとめ上げるものです。 愛は、仕上げ、完成です。 ここでも、愛は人間の業を完成させるものです。人間の行為に意味付けるものです。 |