■2023年12月31日 説教映像
■説教題 「子供たちがもういない」
■聖書 マタイによる福音書 2章13〜23節
◆2023年最後の礼拝です。
教会暦では降誕節第1主日礼拝に当りますから、今日がクリスマス礼拝と考える教会もあります。妥当性があるかも知れません。あるでしょう。
しかし、多くの教会では25日に一番近い日曜日をクリスマス礼拝として守ります。今年も、このことを巡って異論・議論があるようですが、そのことに紙数を費やしたくありません。既に何回かお話ししていることでもありますので、今日はこれ以上触れません。
◆13節。
… 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。…
またも夢です。ヨセフの夢は2回目です。しかも、その内容は極めて具体的なものです。私たちが毎夜見る夢のように漠然としたものではありません。普通に見る夢は、キチンと筋道の通ったものではなく、何を意味するのかも良く分かりません。
しかし、ヨセフと博士たちが見た夢は、そのメッセージがはっきりしています。その点では、夢と言うよりもお告げでしょう。
13節後半。
… 「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、
わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。
ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
この夢は、夢・幻と言う時の夢ではありません。ビジョンでもありません。天使からの指令です。解釈の余地はありませんし、躊躇している暇もありません。
時間的にも切迫した内容ですが、だからと言って、この指令に従うのは大変に困難だったでしょう。
身重の旅も負担ですが、出産直後の旅も容易ではありません。困難、むしろ、暴挙と呼ぶべきでしょうか。しかし、ヨセフは、この指令に従いました。
◆14節。
… ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り…
何故従ったのか、天使のお告げだからです。これが、誰かしら人間の指図だったならば、簡単に聞き入れることは出来ません。母親と新生児の負担を考慮したならば、聞き入れてはならない指図でしょう。
ガザの医療崩壊した病院に取り残された乳幼児の様子が報道されていました。そんな切迫した場面です。逃げなければならないと分かっていますが、逃げることもまた、危険です。そういう切迫した場面です。
ヨセフは、そこで天使の声に従いました。夢に従いました。ヨセフの見た夢は、そのような夢です。天使が、或いは羊が宙に舞うような夢ではありません。
◆15節。
… ヘロデが死ぬまでそこにいた。
それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、
主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。…
ここは、モーセによるエジプト脱出の出来事に重ねられています。
こじつけのように聞こえるかも知れませんが、イエスさまの十字架の出来事が、ここから始まるという意味でしょう。そのことは重要です。
系図から始まって、全ての出来事は神の御旨に従って、運ばれます。決して無意味な、偶発的な出来事の連続が十字架ではないと、主張しています。
◆ヘロデの死は、紀元前4年です。そうしますと、イエスさまの誕生は、さらにその数年前となります。紀元前6年説と7年説とがあるようです。
16節。
… ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。…
そもそも欺したのは、ヘロデの方です。その嘘が8節に記されています。
… 「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。
わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。…
大嘘です。『見つかったら』殺すつもりでした。
自分が欺して、『ベツレヘムへ送り出した』のに、しかし、自分が欺されたかのように感じています。そういう人がいます。そういう人は、常にこのような思いの中にいるようです。自分の嘘が分からないのです。自分の言ったことが嘘だと自覚できません。自分の行動が嘘に満ちていることが、自覚できません。
そういう人ほど、他人の嘘は赦せないのだから、不思議です。勿論、他人の落ち度も赦せないでしょう。自分は失敗を重ねていても。
◆そういう人は、結果怒ります。自分が蒔いた種なのに、他人が正しいことに対して怒るのです。結局、約めて言えば、自分の嘘が、この結果を招来しています。
嘘の反対は真実、正しいことです。マタイ福音書は、1章からずっと、正しい、間違い、真実、嘘という対比で、登場人物を色分けして描いています。
夢にも正夢と逆夢があるようですが、大事なことは、事実かどうかよりも、そこに真実があるかどうか。夢に導かれた行動が、正しいかどうかではないでしょうか。
◆16節後半。
… 人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、
ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。…
嬰児虐殺と呼ばれる出来事です。
なかなか出来ることではないと思いますが、歴史的には珍しくもない現実です。
日本の歴史を観ると、敵の子どもを殺した方が正解、情けをかけると徒となるようです。
私は、この頃大河ドラマは見なくなりました。今年のドラマは見たくもありませんでした。戦国時代のものは、もう沢山です。どんなに美化しても、戦国の英雄と呼ばれる人たちは、要するに人殺しです。
自分の子どもや孫までをも殺す、人殺しに過ぎません。
これも少し前の大河ドラマで、平清盛が主人公でした。清盛の最大の失敗は、頼朝兄弟を皆殺しにしなかったことかも知れません。
◆『ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。』とは、随分徹底しています。5〜6節等を見ますと、メシアがベツレヘムに生まれることも、その時も、分かっていたのですから、もっと地域と時間を限定しても良さそうなものですが、打ち漏らしてはならじとばかりに、皆殺しにしました。
これが歴史的事実かどうかは議論がありますでしょうが、ヘロデ王という人物を、その悪を描き出しています。
◆何度も申しますが、マタイ福音書のクリスマス記事は、正しい、悪いのコントラストで、登場人物を表現しています。ヘロデ王は、キリストの真反対にいる人物です。
彼の特徴は、彼自身が不安の中にいる、だから専制的に振る舞う、嘘をつく、人を殺す、そして自分の命を利権を守ろうとする、このように描かれています。
これは、キリストとは誰かを知る大きな手掛かりです。キリストは、全てこの逆です。
◆ちょっと寄り道かも知れませんが、16節末尾の『一人残らず殺させた』に注目します。『殺させた』です。
いろいろな犯罪があります。犯人に同情するケースだってあります。その犯罪の中でも、赦しがたいのは、殺人です。しかし、殺人にだって、犯人に同情するケースがあります。この頃特に多いように思います。老老介護の果てとか、許されない事ながら、同情しないではいられません。
全く同情の余地のないのが、『殺させた』です。人を殺させるのは、自らの手で殺す以上に罪深いことです。全く同条の余地はありません。
しかし、大河ドラマでそうですが、人を殺させると、英雄扱いです。
◆中国の思想家墨子は説きます。「人一人を殺せば罪人で、忌み嫌われる、しかし、10人を殺せば豪傑と呼ばれ、百万人を殺洗馬英雄となる」と。
イエスさまの思想と重なります。イエスさまの時代、自分こそがメシアだと主張し、若者を絶望的な対ローマ戦争に駆りたてた偽キリストが、何百人も現れたと言われています。現代にもこうした英雄が存在します。
残虐非道な政治家やテロリスト本人、その家族の、アメリカにある銀行預金資産が凍結されたというニュースを聞くことがあります。首を90度かしげても足りません。アメリカを徹底的に批判しテロまで煽り立てる人が、アメリカに銀行預金資産を持っている、これは何か、たちの悪い冗談でしょうか。
イエスさまは、全く逆です。それが十字架です。
◆数年前に、「日本も戦争が出来る国になってしまった」と嘆く人が増えました。しかし、もっと恐ろしいのは、「戦争をしなくてはならない国になってしまう」ことでしょう。
この点ではお話ししたいことが山のようにあります。しかし、説教で政治の話に踏み込むのは、極力避けたいと思います。
◆17〜18節。
… こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
18:「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、
/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
エレミヤの預言について詳しく触れる必要はないでしょう。預言者エレミヤの言葉が、今、ベツレヘムで現実になってしまったのです。
それが、実に意地悪い言い方ですが、キリスト誕生の結果でした。キリスト誕生が引き起こした、結果でした。
だったらキリストの誕生は要らなかったと言う人もありますでしょう。しかし、イエスさまは1〜2章に描かれたような人間の現実の中に誕生されたのです。
逆に、その現実やらを隠して、綺麗に映る所だけを見せているのが、現代のクリスマスです。しかし、これは偽キリストならぬ、偽クリスマスではないでしょうか。
◆19節。
… ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて …
またまた夢です。ヨセフは夢で告げられたことに従う人です。自分の夢に従ったのではありません。夢の中で語られた天使の声に従ったのです。この二つは、同じことではありません。
人間、夢を抱き、その夢の実現のために努力することは大切でしょう。しかし、その夢が正しいものかどうかは、話が別です。
夢の中で語られた天使の声に従うことは、正しい教えに従うことです。
◆21節。
… ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。…
エジプトでどんな生活をしていたかは記されていません。モーセの出来事と重ねると、エジプト滞在は、困難なことだったのでしょうか。そもそも、既に申しましたように、身重で旅することも、生まれたばかりの赤ちゃんとエジプトに向かうことも、とてつもなく困難な道だったでしょう。今また、イスラエルに帰る道も困難な道です。
夢に従うことは、楽な道ではありません。しかし、正しい道ならば、歩き続けなくてはならないし、歩いていれば、目的地に辿り着きます。
◆困難はなおも続きます。22節。
… しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、
そこに行くことを恐れた。…
止めた、道を変えたとは書いてありません。しかし、躊躇いました。ヨセフは、自分の考えはなく、ただ天使の声に従う人ではありません。躊躇います。別の道はないかと模索します。
しかし、22節後半。
… ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり …
またしても夢のお告げです。夢は、安易な道を指し示してくれるものではありません。どうも、より困難な道を案内します。しかし、これが正しい、歩むべき道なのです。
◆23節。
… ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、
預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。…
やはり、全てが、預言者の昔から伝えられていた、正しい道だったのです。歩むべき道だったのです。
私たちの教会の歩みも同様でしょう。
夢、伝道の幻を持たない教会は、ただ滅びへの坂道を転げて行くだけです。10年後、20年後のビジョンをもち、育てて行かなくてはなりません。しかし、それは単に自分たちの願望ではありません。自分の好みに合った教会を形成することが夢・幻ではありません。私たちは、私たちに夢を与えて下さい。道を指し示して下さいと祈るのです。