■2023年12月24日 説教映像
■説教題 「星を見て喜びにあふれ」
■聖書 マタイによる福音書 2章7〜12節
◆普通なら一緒に読まれる1〜12節を、先週と二つに分けて読みます。登場人物も殆ど同じですし、どうしても話が重なります。なるべく繰り返しにならないように、なるべく重複しないようにしたいと思います。
しかし、この点だけは、繰り返して確認しておきます。1章の18節以下から、もしかしたら、1章の1節から、正しい人と、正しくない人との対比で、話は進んでいます。今日の箇所では、勿論正しい人は『占星術の学者』であり、正しくないのは、ヘロデ王です。
◆両者には、共通点があります。そして、共通点と見えるところが、実際には真逆です。
『占星術の学者』は、その名前の通りに、星を見る人たちです。この時代には、望遠鏡など存在しません。星の光を妨げる街の灯りもないでしょうが、それにしても、彼らがその仕事を果たすためには、人里を離れて、独りっきりで、砂漠の凍える真夜中を過ごす必要があったことでしょう。孤独な仕事です。
ヘロデ王は、宮廷で、常に陪臣たちに囲まれています。彼には旗下の将軍たちが付いていますし、親衛隊もいたでしょう。夜寝る時でさえ、独りではありません。彼には夫人がいました。何人もです。子どもも大勢いました。
しかし、彼は孤独でした。その夫人を、子どもを信用できずに、自分の王位、命が狙われるという疑心から、何人も殺戮しました。将軍も夫人も王子も、殺されました。
◆7節。
… ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ …
何故『ひそかに』なのでしょうか。
知られてはならないからです。何を、知られてはならないのでしょう。ヘロデにはない、正統性を持った王の誕生を知られたくありません。誰に知られてはならないのでしょう。自分を追い落とそうとして身構えている、将軍たち、王子たち、そして、妻や王子たちの背後に存在する豪族たちに、知られたくありません。
そして何よりも、これらの人々に、自分の怯えを知られたくありません。
3節には、『ヘロデ王は不安を抱いた』とあります。不安なのです。その不安こそが、一番、人に知られたくないものです。
◆8節。
… 「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。
わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。…
ヘロデの本心は、新しい王を守ることではありません。これを殺すことです。『ひそかに』の次は、嘘です。人に本心を隠すこと、密かに、これが嘘に繋がります。
1章19節にも、『ひそかに』という言葉が記されています。
… 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、
ひそかに縁を切ろうと決心した。…
ヘロデもヨセフも、密かに行動しようと考えました。よく似ています。ぴったり重なります。1章の終わりと2章の始め、直ぐ近く、隣の頁です。偶然の筈がありません。マタイは意図的に、二人共に対して『ひそかに』という言葉を用いました。
しかし、表面的にはそっくりでも、二人の中身、人柄は全く違います。裏と表ほどの違いです。それは、正しい者と悪い者との違いです。
天使の声を聞く者と、悪魔の囁きを聞く者との違いです。
◆9節。
… 彼らが王の言葉を聞いて出かけると …
『占星術の学者たち』には、何の疑いもありません。ヘロデ王の言うことを聞いて出かけます。これが、本来自然なことです。王の言葉なのですから。だからこそ、正しくない王が立っていたら、大変なことです。間違った言葉に、悪い言葉に従うことになってしまいます。正しくない王の下で正しくいることは、至難です。
◆9節後半。
… 東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。…
この星が木星と土星との会合現象だと考える人がいます。今日では、バビロンから、或いはエルサレムから、土星と木星とが重なって一つの新しい星に見えた月日時間まで、コンピューターで計測出来ているそうです。
そこから逆に、実際にクリスマスの出来事が起こった月日を知ろうとする人もいます。また、10月頃にバビロンから会合現象が見え、そこから旅立ち、砂漠を越えて12月の初旬にエルサレムに着いたとすれば、1度は見失った星が再び見える月日に、全く符合するそうです。
大変面白いことだと思います。19世紀には、架空の物語、全く神話の世界だと否定されたクリスマスが、歴史的にも、聖書の記述通りだとすれば、愉快です。
◆しかし、マタイ福音書が言いたいことは、そのようなことではありません。『東方で見た星が先立って進み』、 つまり、星が導いたという強調点です。
先週も申しましたが、星は規則正しく運行します。そして、1章から、今日の箇所の前まで、正しいということが、出来事、登場人物の、大事な要因でした。1章の系図、神さまの御心、星の導きが、ここに至りました。『ついに幼子のいる場所の上に止まった』、旧約聖書の全ての歴史は、ここに集約するのです。正しく、ここに辿り着いたのです。
そして、私たちの信仰の歩みは、全てここから始まります。
◆10節。
… 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。…
『星を見て喜びにあふれた』
天文学者だから、1度は見失った星を再発見したら、それは嬉しいでしょう。
科学なら追試が必要です。たまたま発見したこと、それを同じ手順で繰り返して同じ結果が得られて、始めて発見になります。 … しかし、そんな話ではありません。
肝心なことは、旅の目的地に着いたことです。
◆『占星術の学者たち』にまつわる伝説があります。『黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた』という記述から、3人の博士と、普通に言われますが、マタイ福音書のどこにも、3人とは書いてありません。『たち』ですから、2人か3人かとは思いますが、正確な人数は分かりません。
伝説では3人の名前も伝えられています。メルキオール、バルタザール、カスパールです。このそれぞれがまた伝説に彩られています。しかし、聖書的根拠は全くありません。
そもそも、この名前は西洋のもので、他の地では全く別の名前になっています。
◆繰り返しますが、肝心なことは、星に導かれて、旅の目的地に着いたことです。その旅の途中にどんなことがあったのか、どういう経路を辿ったのか、何も記されていません。
『星を見て喜びにあふれた』とは、目的地に着いたという事実そのものです。
純粋に、これが、これだけが旅の目的です。星を見ること、星が指し示した地に辿り着き、星が預言したメシアに会うこと、これだけが旅の目的です。
私たちの旅行ですと、目的地もそうですが、そこに着くまでが、楽しみです。いろんなもの、ことを見物して楽しみます。列車その者を楽しむ人もいます。
『占星術の学者たち』も、砂漠を越える旅で、いろんなものを、ことを、見聞きした筈ですが、それは一切描かれません。描かないことに、マタイの明確な意図があります。
◆11節前半。
… 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。…
私は、この文章が大変、気になります。『幼子は母マリアと共に』です。父母と共にではありません。
13節を見ますと『主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、』とあります。勿論ですが、ヨセフも一緒なのに、ここには、『幼子は母マリアと共におられた』とあります。
一旦そのような些末に思えることを考え出すと、いろいろと気になります。ベツレヘムでの出来事として記されていることはルカ福音書と同じですが、ベツレヘムのどこなのか、書いてありません。馬小屋も飼い葉桶もありません。
ただ、『幼子は母マリアと共に』です。光景を思い浮かべて下さい。
クリスマスの場面です。馬小屋があります。博士たちの他に羊飼いもいます。天使もいます。そして、ヨセフとマリアとイエスさま、そのような場面を思い浮かべます。しかし、『幼子は母マリアと共に』だけです。それがマタイ福音書の記述です。
◆ロバート・シルヴァーヴァーグの『時間線を遡って』という傑作SF小説に、こんな場面があります。時間旅行社が、いろいろな時間に旅行するツアーを企画しますが、一番人気は、クリスマスです。世界で最初のクリスマスには、私たちが思い浮かべる登場人物がいます。世界で最初のクリスマスツアー客は、この光景を見て喜びます。
2番目のクリスマスツアー客は、最初のクリスマスツアー客も含めた、大分賑やかになったクリスマスを見物します。3番目の客はと、どんどん増えて、ベツレヘムの街から人が溢れる様になってしまいます。
このSF小説を馬鹿馬鹿しいと考えますか。SF小説は、どんな科学者よりも、未来を言い当てます。シルヴァーヴァーグのクリスマスは、現代で、全く実現しています。
多分、今夜、いろんなメディアが、ローマや世界各地のクリスマス光景を伝えるでしょう。そこには、2000年前の本当のクリスマスとは似ても似つかない、溢れるばかりの光の洪水があります。クリスマスの星などは見えないでしょう。そこには、2000年前の本当のクリスマスとは、全く比較にならない群衆がひしめいているでしょう。
2000年前の本当のクリスマスとは、およそかけ離れた、贅沢な服装や豪華な料理が溢れているでしょう。シルヴァーヴァーグの小説通りです。年々観光客が増えます。
◆11節後半。
… 彼らはひれ伏して幼子を拝み、
宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。…
『時間線を遡って』旅した観光客は、馬小屋のイエスさまの前で、ひれ伏すでしょうか。むしろ、少しでも高いところに陣取って、見物するでしょう。シルヴァーヴァーグの時代にはスマホはありません。『時間線を遡って』の旅客が増えたら、殆ど全員写真を撮ることに夢中で、ひれ伏す人は、一人もいないでしょう。
そもそも、クリスマス・ツリーの前で、イルミネーションの光の前で、ひれ伏す人は、一人もいません。誰もが、写真を撮ることに夢中です。
◆『宝の箱を開けて』という表現から、私は、全部一つの箱に入っている光景を目に浮かべます。すると、博士たちも、それぞれの地から来たのではなく、一つ所からやって来たのではないでしょうか。 … 書かれていないことを想像しても結論はありません。
『黄金、乳香、没薬』、宝物です。それがどんな意味を持つのか、いろんな説があるようです。『黄金』とはイエスさまが王として即位するための王冠と見做すことは可能かも知れません。しかし、それならば王冠と書けば良いと思います。同様に、『乳香、没薬』は、イエスさまの十字架、復活と結び付いているという説もあります。
しかし、そんな想像は、私が、全部一つの箱に入っていたと考えるよりも、もっと意味がないでしょう。宝物を贈り物として捧げた、その一点が、その一点だけが重要です。
これが、博士たちの旅の目的だからです。
◆これも余計な想像かも知れませんが、私は毎回考えてしまいます。
もし、博士たちが、かつての王族の末裔ならば、エルサレムの地で、王族・貴族として迎えられることが旅の目的だったというのなら、頷けます。
同様に、ルカ福音書の羊飼いたちは、馬に乗り、弓矢や鞭を使い、団体行動に慣れていますから、新しい王の親衛隊にふさわしいでしょう。現に天の軍勢まで登場します。しかし、ルカ福音書に登場する天の軍勢は、戦ではなく、平和の讃美を歌います。
◆『学者たちはその星を見て喜びにあふれ』そして『黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ』、何ら見返りを得ることなく、元の土地に帰って行きます。
ルカ福音書の羊飼いたちも、親衛隊に職を得るどころか、何一つ見返りなく、しかし、喜んで元の牧場へと帰って行きます。 … それが世界で最初のクリスマスです。
私たちも、今日クリスマスを祝い、そして、それぞれの場所へと帰って行きます。その瞬間から、来年のクリスマスに向けた旅が始まります。
決められた場所から、次の決められた場所へと歩き続ける旅があります。巡礼です。聖書の始まり、ユダヤ人の始祖たちも、それぞれ辿り着いた場所で、小さな祭壇を築き、礼拝を捧げます。巡礼の旅のようです。彼らの旅路を辿ることが巡礼でしょうか。
私たちも、日曜日毎に礼拝を捧げながら、クリスマスまで歩き続けます。巡礼のようにして。巡礼と観光客、似て非なるものです。その違いは、礼拝を目的としているかどうかです。この旅が、クリスマスの星に導かれた巡礼でありますようにと、祈るだけです。