◆クリスマスの度毎に、繰り返し読まれる箇所です。昨年も燭火礼拝で読みました。それぞれの方が、いろんな機会に読んでおられ、また聞いておられる所です。それに付け加えて、特に目新しいことを申し上げる必要もないでしょう。 ですから、1節ずつ順に読んで聖書が私たちに語り伝えようとしていることを聞き取り、むしろ、味わいたいと思います。 ◆18節。 … イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。 母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、 聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。… ヨセフも『聖霊によって身ごもっていること』を知っていたのでしょうか。どうも、そうではありません。19節から解釈するに、ヨセフは、マリヤが妊娠したことを知っていましたが、詳しい次第は知らないようです。何故、誰の子供を妊娠したのかは知りません。 私たちはルカ福音書を知っていますから、どうしても一緒に重ねて読んでしまいます。しかし、マタイ福音書は、読者がルカ福音書をも読んでいることを前提にして記されているのではありません。むしろ、ルカのことは忘れ、勘定に入れないで読んだ方が、マタイ福音書の趣旨を正しく理解出来るでしょう。 マタイ福音書では、マリヤに天使のお告げがあったことを、この時まで、ヨセフは知りません。しマリアから打ち明けられて知ったとしても、それを信じてはいなかったと考えられます。 とにかく、マタイ福音書には、マリアへの受胎告知はありません。少なくとも描かれていません。マタイ福音書では、ヨセフへの告知が最初の受胎告知になります。 ◆ だからこそ、ヨセフは19節のように考えました。 … 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、 ひそかに縁を切ろうと決心した。… マリアの妊娠は知っていました。しかし、聖霊云々は知らなかったか、信じなかったと受け止められる表現です。 『表ざたにするのを望まず、ひそかに』をどのように解釈したら良いでしょうか。世間体をはばかってと読むことも出来ます。そのように読む人が多いかも知れません。 自分の婚約者が誰とも知れない男の子供を宿したことは、何しろ不名誉なことです。その女性当人にとっても勿論不名誉ですが、婚約していた男性にとって、より不名誉です。 他人には知られたくない恥です。社会的地位のある人間程、このような対処方法を取るでしょうか。隠密裏に運ぶことで、当人のそして家の名誉を守ろうとするでしょう。 山本周五郎の『みずぐるま』という短編に、そんな話が描かれています。主人公の青年武士の家には、秘密があります。それは、数年前に自死した妹にまつわるものです。 ストーリーを詳しく紹介できませんし、無駄かと思います。しかし、そこには、武家の未婚の娘が妊娠するという、出来事の重さ、不幸、むしろ悲劇が述べられています。 ◆もう一つこのような読み方が出来ます。当時の律法によれは、事が明らかになった場合、最悪、マリヤは石打の刑に処せられます。このような事例では、『かくして、イスラエルの内から、悪を取り除かなければならない』これが、律法の規定です。ヨセフはその石打の刑を避けようとしたのではないかと考えられます。 どちらの読み方が蓋然性が高いか、断定出来ないまでも、かなりの精度で推理出来ます。 『正しい人であったので』と言う表現が、判断の根拠になります。『正しい』とは、本来の意味では、律法を遵守するという意味です。律法を一点一画も疎かにせず、守ることこそが、『正しい』という言葉の意味です。 自分の面目で律法に背く人を、『正しい人』とは言いません。地位名誉を守るために律法に背く人を、当時のユダヤ教では、『正しい人』とは言いません。これは絶対です。 ◆一方、『正しい』と言う表現が、弱い立場にある者への労り、思いやりと言う意味で用いられることはあります。旧約聖書中にも、用例が存在します。マリヤを思いやって、石打の刑を免れさせるために、『表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。』その人物を、『正しい人』と呼ぶことはあり得ました。 ちょっと寄り道かも知れませんが、このこと自体、大変に重要なことではないかと考えます。マタイ福音書は勿論、旧約聖書の時代から、『正しい』とは、必ずしも字面通りに律法に従うことではなくて、むしろ、律法の根本精神に立ち返って、他の人を思いやり、具体的に手を述べることこそ、律法に従うことだという思想が存在していました。イエスさまのパリサイ人批判などは、この延長上にある思想だと考えます。 教条主義的に、厳密に律法を守ることが、必ずしも義ではありません。イエスさまは、所謂原理主義者とは違います。 ◆20節の前半だけ読みます。 … このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。… 実に簡単な描写です。ヨセフの心には、もっともっと複雑な思いがあったでしょうが、『このように考えていると』とだけ表現しています。では、ヨセフの心境をどのように描いたら良いのでしょうか。 これで良いのかも知れません。くどくどと記す必要のない事柄です。詳細に記そうとしても無理でしょう。唯、この『このように考えていると』とは、己の心の葛藤だけではありません。自分のこと、自分の汚されたプライドや、裏切られた悔しさだけを見詰めていたのならば、絶対に出ては来ない結論・対処方法を、ヨセフは選びました。 ヨセフは自分の怒りや嫉妬や世間体や様々な感情に任せることはしませんでした。それよりも、マリアをかわいそうに思う気持ちが勝ったのです。 この時、ヨセフは救われました。汚されたプライドや、裏切られた悔しさに埋没してしまわないで、マリヤを思ったから、ヨセフは救われたのです。 牧師という職業柄、46年間に、いろいろな人間関係の破綻を見て来ました。不幸な出来事に遭遇して、魂が滅んでいく人のことも見てきました。見させられました。自分のことをしか考えられなくなった時に、人は滅びます。 他の人のことも考えられる間は、救いの余地があります。いろんな不幸の中で、家族への愛で立ち直った人を、何人も見て来ました。滅んで行く人は、自分のことしか見えなくなった時です。家族の顔さえ見えなくなった人が滅んで行きます。愛すべき対象を失っなった人、愛する心を失った人が滅んで行くのです。 ◆『主の使が夢に現れた』とは、何を意味するのか。勿論聖書に書いている通りで、天の使いがヨセフに語りかけたのでしょうが、それ以上に、マリヤへの愛の故に苦悩するヨセフが、その絶望の中で、逆説的に、マリヤへの愛の故に、救われたことを表現しているのではないでしょうか。 自分の悲しみ、自分の苦しみに埋没しなかったからこそ、ヨセフは天使の声を聞くことが出来ました。救いを見ることが出来ました。滅んでいく人は、他人の声に耳を閉ざします。それでは、神さまの声を聞くことは出来ません。 『夢に現れた』とは、そのようなことを表しているのだと考えます。聖書には、夢を見る話が沢山出て来ます。それは、普段・日常の時間・次元から離れて、別の時間・次元に移されていることを意味していると考えます。ヤコブも、ヨセフも、ペトロも、パウロも。 中には、悪夢を見て、悪魔に捉えられてしまう人もいます。 ◆20節の後半を読みます。 …「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。 マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。… 『聖霊による』とは、そこに神さまの御旨が存在すると言う意味です。理由があると言うことです。人は、痛いから、辛いから絶望するのではありません。痛さにも辛さにも耐えることが出来ます。もし、その痛さ・辛さに意味があるならば、しかし、もし意味が無いならば、もう耐えられません。 『恐れず』口語訳では『心配しないで』です。この字は、ルカのクリスマス物語で繰り返される字と同じです。そして、ルカでもマタイでも復活の出来事に際して、同じ表現が繰り返されます。 約めて言うならば、神さまの御旨だから『恐れるな』、最早恐れる必要がありません。ちょっとややこしい言い方かも知れませんが、恐るべき出来事が起こったからこそ、『恐れるな』と言われるのです。恐れるのが当たり前の状況です。 恐るべき出来事に遭遇した我々に、『恐れるな』と言われます。神さまが現れたことを感じた我々に、『恐れるな』と言われているのです。 そして神さまの前で、この恐れを感じた者が、人間的な恐れから解放されます。自分の身に起こったことが、神さまの御旨から出ていると、意味が存在すると、知ったからです。 ◆これもややこしい言い方かも知れません。神への『恐れ』、この場合は恐怖の恐れよりも畏怖の畏れです。畏れ、を知って、『恐れるな』と言う神の言葉に信頼した者が、救いに与るのです。始めッから畏れを知らない者は、救いに無関係だし、恐れを拭うことの出来ない者も、救いに与ることは出来ません。 ◆ところで、この箇所でもう一つ気になることがあります。既に申しましたが、マタイでは、マリヤへの受胎告知は無く、このヨセフへの告知だけだと言う点です。 ここでも私たちは、ルカとマタイを重ねて読むことでかえって、ルカとマタイがそれぞれ表現しようと試みたものを見誤っています。教会学校の聖劇のように、マタイもルカも全部重ねてしまうから、大変ドラマチックだけれども、全体的にとても信じがたい、奇蹟物語の連続になり、昔話風になってしまいます。むしろ、個々の記事が強調していることにだけ目を向け、読みとるべきです。 難しいことを言っているのではありません。聖書が記していることだけを読めば良いと言うことです。 ◆22節を先に読みます。 … このすべてのことが起こったのは、 主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。… 旧約聖書の言葉を引用して説明するのはマタイ福音書の特徴ですが、その出典が、はっきりとは分からないのもまた特徴です。イエスとインマヌエルと、直接的には結び付かない気が致します。また、インマヌエルが出て来るイザヤ書の場面に当たってみても、余り合点はいきません。 唯、細かいことは言わずに、マリヤとヨセフに起こったことは全て、偶然の出来事ではなく、神さまの御旨に依るのであって、800年も前から預言されていたのだと読めば、何となく分かります。『このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。』そのまま聞けばよろしいでしょう。 ◆23節。 … 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。… インマヌエルの出典であるイザヤ書の場面に当たってみても、ピンときません。しかし、『「神は我々と共におられる」という意味である。』とありますから、何となくでも分かります。 神が共におられる。私たちの歩みと共に神がおられる。私たち人間の歴史に、神さまが関心をもっていて下さる。神が私たち人間を愛していて下さる。 これがクリスマスの意味です。 ◆最後に21節を読みます。 … マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。 この子は自分の民を罪から救うからである。… イエスと言う名前は、旧約聖書のヨシュアに相当し、救う者の意味を持ちます。名前については、それだけと言えばそれだけのことです。むしろ、『自分の民を罪から救う』と言う点に注目すべきだと思います。ローマの暴政から救うのでも無く、貧困から救うのでも無く、他の何事からでも無く、『罪から救う』と述べられています。このこと自体、教会とは何か、信仰とは何か、更にはクリスマスとは何か、を教えていると思います。 ◆『神われらと共にいます』とは、私たちに神さまの愛がある、神さまの御守りがある、勿論そういうことでしょう。しかし、同時に、神さまの裁きがあるということでもあります。神さまの正義が行われるということでもあります。 マタイとルカに記されている通り、クリスマスの出来事に遭遇した人々は、一様に恐れを感じます。しかし、その後、『恐れるな』と言う御言葉をいただいて、慰められる者と、その御言葉をいただくことの出来ない者とがあります。御言葉をいただくことの出来ない者とは、自分の地位を守るために、救い主を殺そうとしたヘロデであり、救い主が生まれることを知識として知りながら、自分の地位を守るために、拝みに行こうともしない律法学者であり、御言葉をいただくことが出来た者とは、… 前提を崩してルカとごっちゃにしていますが、御子を礼拝し、主の御言葉に聞いた者なのです。 真の意味でクリスマスを受け入れるか、拒むか、問われているのです。 |