4節に<"霊"が語らせるままに>、とありますがどういうことでしょうか。人によっては、外から来た霊によって、自分が思ってることではない事を語らせられるのか、だとか、自分が考えている事とは関係なく、勝手に操作されて、勝手にしゃべらせられるのか、と考えることもあるようです。 異言(いげん)、なんてものがあります。霊に満たされて、勝手に口から言葉が出てくるというものです。私は異言を語ったことはないですが、聖書には確かに異言なるものが記されています。ある仲間の牧師が言うには、現代の異言はラ行が多いそうです。はっきり言って何を言っているか分からない。そして恍惚状態で語っている。 現代の異言と、この聖書の時代の異言は違うのかもしれませんが、そもそも今日の聖書箇所が言う<"霊"が語らせるままに>話された言葉は、そういったものではないようです。というのも、ここでの<"霊"が語らせるままに>話された言葉を聞いた人が、自分たちの生まれ故郷の言葉を聞いている、と理解しているからです。どこの言葉で、どのような話がなされているのか、分かったのです。 それが霊の働きによってなされていると言われています。ここでの「霊」は「聖霊」と考えるのですが、聖霊が今働いている、なんてわかるものでしょうか。今日の聖書箇所では、聖霊の働きが起こる前に、突風が起こったなどの事象がありました。しかし、突風が起こったら、すなわちそれは聖霊の働きなんだ、なんて言えるものではありません。また、<炎のような舌が分かれ分かれに現れ>とありますが、聖霊が働くたびにそのようなことが起こっているなんて聞いたことがありません。 聖霊はいつ働き、その働きとはどういうものなのか。これが、あれが聖霊の働きだ、というのはなかなか難しい。それはまた、他の人が言う聖霊の働きなるものを完全に否定することも難しいということにもなります。 東京神学大学にいた時の話ですが、ある同級生は朝起きたら神様から教会に行けと言われた気がして、教会を訪ねて、その後受洗し、牧師になる志を与えられて東京神学大学に来たそうです。それを大っぴらに言っているわけではなく、控えめに、実は私はこうして教会に導かれた、という風に話していました。その方は現在、牧師として主の御用にあたっていますし、やはり、聖霊の働きだったのかもしれないとも考えたりします。 別の話で、これは又聞きなのですが、聖霊の働きを強調する教会で、Aという牧師が、Bというある信徒さんから言われました。Bさんが言ったそうです。Bさん「聖霊様が、A牧師と結婚して伝道の手助けをしなさい、と私に告げたんです。だからA牧師と結婚します」と。A牧師は、それは聖霊の働きではない、と断ったそうです。A牧師としては、聖霊は私にそう告げていないから違うのだ、というのです。 なんでもかんでも勝手に聖霊の働きにはできません。そんな無責任なことは言ってはなりません。ここでは、聖霊は一つの聖霊のはずなのに、聖霊の働きの対立が起こっています。そんなおかしな話にしてはなりません。どちらかに、本当の聖霊の働きがあったかもしれません。もしA牧師に働いたのなら、Bさんはあんなこと言っているが、それを聞いてはいけないとわかるような聖霊の働きが、導きがあったのかもしれない。いや、もしかしたら、どちらにも聖霊は働いていなかったかもしれない。 この話なら、それは聖霊の働きと違う、とバッサリ切っておしまいかもしれません。聖霊の働きではありませんでした、と当人たちでことが収まれば良いのですが、これが戦争だとか、大きなことになるとどうでしょうか。ウクライナ正教、ロシア正教、という国家に密着したキリスト教があります。詳しい内情はわからないし、知りませんけれど、どちらも今起こっている戦争について自分たちの国を擁護しています。どちらかには真の聖霊の働きが働いているのでしょうか。それとも、どちらにも働いていないのでしょうか。私たちは裁くことはできません。 聖霊が、この人には働いている、あの国には働いている、どちらに働いているとかはなかなか判断が難しいのかもしれませんが、聖書は聖霊の結ぶ実を言っています。ガラテヤの信徒への手紙5章22、23節にこうあります。<(これに対して、)霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。>とあります。霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。当たり前ですが、喜び、平和、寛容、親切などを破壊する戦争が、聖霊の導きによって起こされるはずはないのです。 聖霊の働きによって実際に成されることは何なのか。今日の聖書箇所でハッキリと言えることがあります。今日の聖書箇所で起こった霊の働き、"霊"が語らせるままに語られたこと、それは神の偉大な業です。旧約聖書に記された出エジプトの出来事だったり、バビロン捕囚からの解放だったり、神が御計画され、成され、伝えられてきたあらゆることでしょう。 また、イエス様を通して行われた全ての奇跡と、不思議な業、しるしなどでしょう。霊の働きによって結ぶ実は、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、何より「愛」です。 神の愛の最たる現われがイエス・キリストです。イエス・キリストの十字架による贖いです。その十字架の出来事です。王であるイエス・キリスト。その王様である指導者は民を率いて何か政策を実行するとか、当時の支配者であり、ユダヤ人たちを苦しめていたローマ帝国に戦争を仕掛けるとか、そういったことはなさいませんでした。ただただ、ご自身の民であるすべての人を愛し、その民の罪を贖うために十字架にお架かりになられたのです。確かにイエス・キリストは私たちの罪と共に十字架に架かり死んで、その死に打ち勝ち復活して下さった、そして弟子たちに現れて下さった。そのような偉大な神の業が確かになされた。そうキリスト教会は証言してきました。 しかし、そのようなこと、なかなか信じられるものではありません。マタイによる福音書ですが、聖霊が与えられる前までは、弟子たちの中には復活のイエス様を疑うものもいたと、証言されています。また、この使徒言行録でも1章6節において弟子たちが『「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか』とイエス様に問いますが、イエス様はあなたがたの知るところではない、とお答えになります。まだここでも、弟子たちはイエス様が立てて下さる国、ご支配なさる神の国というものがどういうものか、理解していないのです。イエス様がそこにおられても、即座に信じる事ができるわけでもなく、全てがわかるわけではなかったのです。 ましてや、それについて語るなんてことできません。とても理屈では説明できない、その事柄について、信仰なしには、聖霊の働きなしには語れない、神の偉大な業なのです。 イエス様はたびたび聖霊が与えられることを予告していました。また神の国はあなたがたの間にあるとおっしゃっていました。今、聖霊を与えられたから、弟子たちはイエス様を理解できるのです。イエス様のおっしゃっていたこと、十字架の死と復活の意味、その先の神の国、永遠の命、神の偉大な業を受け止めることになる。聖霊によって満たされなければ、理解できなかったでしょう。信じることできない。しかし聖霊によって理解し、信じた弟子たちは本当の意味で一つとされました。「主イエスこそ救い主だ」という共通の言葉によって一つとされたのです。 その弟子たちだからこそ、神の偉大な業について話すことができました。 多くの弟子たちが一つの霊によって、多言語で、一つのことを話していました。それはその弟子たちの演説を聞いている人が言っていました。11節『ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』 聖霊の働きがあるから、その偉大な業はどのような言葉を話す人でも聞くことができるものでした。東から、西から、多くの言語を扱う人々がエルサレムに、この弟子たちが聖霊によって満たされた場に集まりました。集まった人々の中にはもしかしたらイエス様の十字架の場面を見ていた人もいるかもしれません。イエス様の活動を知っていた人もいるでしょう。そうであっても、どうしても理解しきれないイエス様の事柄、信じることの出来ないイエス様の言葉があったことしょう。十字架刑で死んだ終わったイエスの何を信じる事があるのか。けれども、聖霊が弟子たちに働くことによってその本当の意味を知ることができた人もいたのではないでしょうか。この後の聖書箇所に「ペトロの説教」と表題があるように、ペトロは聖霊に満たされて説教をしました。そこで信じる者が起こされました。確かに洗礼を受ける多くの者が与えられたのです。 私たちも弟子たちが受けた同じ一つの聖霊を、信仰告白し、受洗して受けています。誰も聖霊によらなければ主を告白できないとコリントの信徒への手紙Tにハッキリと書かれています。私たちは父と子と聖霊の名によって受洗しました。その聖霊の働きによって、神の偉大な業を知り、日毎頂くみ言葉から、またこの主の日の礼拝で語られるみ言葉から、聖霊の働きを受け取っています。新しいことを始めるのではありません。人間の思いや、力ある指導者から始められるのではありません。聖霊を受けた私たちは、聞いていたこと、知らされていること、神の偉大な業、主イエス・キリストの十字架の出来事を"霊が語らせるままに、告げ知らせるのです。 その時には聞く耳を持つ人もいれば、拒否する人もいるかもしれません。今私は明治学院高等学校でその務めにあたっています。やはり拒否する人もいます。耳を向けたとしても、明らかに壁を作っている人もいます。それと同時に、何かよくわからないことが語られているけれど、何かあると思うのでしょう、こちらに顔を向け熱心に聞く生徒たちがたくさんいます。 どこでもそうではないでしょうか。家庭でも、自治会でも、友人との集まりでも、どこでも、神の偉大な業、主イエス・キリストを宣べ伝えれば、当時もそうだったように、受け入れる人は受け入れることでしょう。人によっては、「何を酔っぱらっているのか。寝ぼけたことを言っているのか。」との反応もあるでしょう。伝え方が悪いとか、聞きにくい、分かりづらい、だとかもあるかもしれない。けれども関係ありません。自身の思いを乗せるなどせず"霊"が語らせるままに、差し引きなしに、ただ主イエス・キリストの十字架を、神の偉大な業がそこで語われるのならば、そこに聖霊が働いて下さる。あとは相手がそれを受け取るかどうかです。どんな言語、言葉を使っている人でも、なんでも伝わる時は伝わるのではないでしょうか。聖霊が働いてくだされば。 「イエスという人であり、神である方が、十字架に架かって死んで復活された。それゆえに私たちの罪は赦され、神の国に生きる道があるのですよ。だからイエス・キリストに従いましょう、イエス・キリストを主と仰ごうではありませんか」と、もういくらでも伝え方があるでしょう、語るべきことがあるでしょう、様々な言葉で、言い方で、救いは主イエスにあると宣べ伝えます。あのナザレのイエスこそ主であると伝えます。もしかしたら三位一体なんて言葉も使う事があるかもしれません。三つで一つ、一つで三つの、およそ人には普通理解できない、受け止めることできないこともたくさん語るでしょう。その際、言う人もいるかもしれません。「お前は頭が変になっている。酔っぱらっているのか」とさえ言われることもあるかもしれない。『新しいぶどう酒に酔っている』そのようなことを言われる時もあるかもしれない。上等ではありませんか。私たちは主イエスが十字架の上で流された血、それを覚えて聖餐式でぶどう酒を頂いています。今日のこの礼拝の中でも、聖餐式が執り行われます。私たちはそのぶどう酒を頂く。新しいぶどう酒、イエス様の血に酔っているのです。主イエスによる新しい契約、救いの成就に喜び、酔っているのです。神が人を救われる偉大な業、主イエス・キリストの死と復活による罪の贖い、神の究極の愛の表れ、それに酔っていい。溺れていい。むしろ救いの契約の血を受け取っているのに、すまし顔のままでいることはできません。私たちは聖霊に満たされて、主の血と肉を頂き、この世を歩んでいいんだ。神の愛に溺れる、その恵みをこのペンテコステの日に、私たちは再び覚えることが赦されているのではないでしょうか。 だから、私たちは神の偉大な業を語り続けたいと思います。"霊"が語らせるままに神の偉大な業を伝え続けるその務めを忘れてはならないのではないでしょうか。学がなくとも、カリスマがなくとも、私たちには聖霊が与えられています。弟子たちも漁師だったり、嫌われ者の徴税人だったりした者たちだけれども、イエス様のことを聖霊の働きによって宣べ伝えることができたのです。だから安心して、聖霊に満たされて、伝えるべきことを、語るべきことを、知らせたいと思います。イエス様こそが私たちの主であり、ここに救いがあると。 主イエス・キリストの十字架を、聖霊の助けによって語る。具体的に説教を聖霊が導いて、聖礼典に働いてくださることを願い祈りたいと思います。主の十字架の死と復活の意味。そこで知らされている福音。もう神の国は近づいている。いや既にこの教会の交わりの中で、神の国を垣間見ている。味わうことが赦されている。言葉では言い尽くせない、与えられている全ての恵みを覚え、伝道していきたいと思います。 私たち自身はとても誇れる器ではないかもしれません。弱く頼りない者かもしれません。けれど、私たちを一番よく知っておられる神様が、私たちを選んで聖霊を与えて下さったのです。今もこの礼拝で語られるみ言葉を、それぞれが与えられている同じ唯一つの聖霊を通して受け取りたいと思います。そして、ここから遣わされて行き、語り伝えたいと願います。 主の言のもと安心してこの1週間を神に仕え、聖霊に満たされて、霊の語らせるままに、主イエス・キリストを宣べ伝えることができますように。また、次の日曜日、主なる神の教会であるこの玉川平安教会に、聖霊の導きによって集まることが適いますように。共に祈りましょう。 |