日本基督教団 玉川平安教会

■2023年11月5日 説教映像

■説教題 「愛に立つ者として

■聖書   エフェソの信徒への手紙 3章14〜21節 愛に立つ者として

     

◆教会は、2000年の歴史を通じて、舟に準えられて来ました。更には、ノアの箱船にまで遡ります。福音書には、イエスさまが舟に乗られる様子、弟子たちを舟に乗りこませる場面が繰り返し描かれています。使徒パウロも最後の伝道旅行、一番大事な伝道旅行は船旅でした。

 何故舟なのか、実際がそうだったと言えばそれっきりですが、特別な意味が込められています。先ず、舟は乗り組んだ者全員にとっての、運命共同体です。一度同じ舟に乗り合わせたなら、一人ひとり勝手な方向に進むことは許されません。港に着くまでは、皆が、同じ旅を続けなくてはなりません。


◆教会が、舟に準えられて来たもう一つの理由は、出発地から目的地まで、真っ直ぐに向かうことにあります。厳密には、地形や波風に合わせて、進路を変えながら進むでしょうが、概ね、出発地から目的地まで、真っ直ぐに線を引いた航路と言えます。

 豪華客船の世界一周旅行ともなれば、寄港地があり、人が乗り降りして、観光を楽しむでしょう。それが旅の目的です。教会と言う名前の舟にも、途中で降りてしまう人も、途中から乗り込む人も確かにいます。しかし、教会の場合は、途中の港は目的地ではありません。


◆イエスさまは、弟子たちと共に、時には弟子たちだけで、舟に乗り、向こう岸に渡りなさいと言われます。ガリラヤ湖を横断する船旅ですが、向こう岸とは、神の国を象徴しています。勿論、ガリラヤ湖の向こうに神の国が開けているのではありません。だからこそ、舟の中が大事です。神の国に向かう舟は、もう、そこが神の国の一部なのです。

 教会は、神の国を目指して旅する者の集まりです。しかし、教会は同時に、もう、そこが神の国の一部なのです。

 後で、召天者のお名前が朗読されます。お手元には既に、召天者の名前が記された印刷物が配布されていると思います。これは、神の国へと向かう舟の乗客名簿です。

 

◆長い前置きになりました。肝心聖書を読みます。15節。

  … 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。…

 乗客名簿、乗り合わせた人の名前です。その名前について、パウロは、『すべての家族がその名を与えられています』と強調しています。

 長くなる説明は省きまして、結論を言いますと、名前とは、存在であり、命であり、人生そのものです。聖書の随所にそのような表現が多々見えます。

 『天と地にあるすべての家族が』、神さまから、名前を与えられている、つまり、存在を与えられている、命を与えられている、人生を与えられていると言うのです。

 

◆使徒パウロは今ここで、何故、このようなことを言うのでしょうか、それには勿論理由があります。エフェソ書を通じて、パウロは、教会の中にある様々な対立・分裂を取り上げています。その原因である意見の相違は、絶対のことではない、互いに理解し、容認しあえることだと言っています。

 そして、パウロは常に同様の論理展開をするのですが、絶対のことを上げることによって、他のことを相対化してしまいます。

 ここでも、パウロは、『すべての家族が、御父からその名を与えられています』、これを絶対のこととして、上げています。それは、ユダヤ人でも異邦人でも同じことで、ユダヤ人であるか異邦人であるかが絶対のことではなく、『御父からその名を与えられてい』るかどうかが、絶対のことだと主張しています。

 『すべての家族が、御父からその名を与えられています』という絶対的な真実の前では、他のことは全て、些末なことでしかなくなります。

 人間には、一人ひとりにいろんな違いがあります。違いを強調すれば、みんなバラバラです。しかし、この違いを持ったそれぞれが個性的な人の集まりには、一つの共通点があります。一つの舟に乗っているという共通点です。


◆16〜17節。

  … 16:どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、

    力をもってあなたがたの内なる人を強めて、

   17:信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、

    あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。…

 ここも、面倒臭いことは端折って、結論部だけ申します。

 家族にとってと言いますか、家族が家族であるために必要不可欠なものは何でしょうか。 同じ血が流れている、血縁があることを強調したい人もありますでしょう。そうかも知れませんが、そもそも家族の始まりは、夫婦です。夫婦に同じ血は流れていません。血縁から言えば他人です。

 家族にとって、家族が家族であるために必要不可欠なものは、血のつながりよりも、愛情です。間違いなく血縁がある家族が、しかし、愛を失ってバラバラになる、それどころか憎み合うようになることがあります。現代病の一つかも知れません。

 その原因は、勿論、血縁が薄くなったからではありません。愛が枯れているからです。


◆教会に流れる血液は、そもそも神さまから与えられました。創世記2章7節。

  … 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、

  その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。…

 最初の人間は、神さまの息を与えられて、『生きる者と』されました。神の息すなわち聖霊であり、すなわち愛です。教会に流れる血液は、神さまから与えられた聖霊であり、愛です。これが共通して流れているから、教会は神の家族と呼ばれるのです。


◆18節。

  … 18:また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、

    長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し …

 『キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ』という表現は、大変に興味深いものではあります。しかし、良くは、分かりません。人間の分際で、分かったら大変でしょう。

 こういうところは、暗記するくらいに心の中で繰り返し、味わい、その時々に、意味をかみしめるべきものです。これは、こういう意味ですと説明するような類のものではありません。

 19節。

  … 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、

   神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように …

 18節といい19節といい、他のことではありません。神の愛のことです。

 宇宙の真理とか、もっと具体的な託宣だとか、人生を究める教訓だとか、そういうことではありません。神の愛を知ること、これが、キリスト教信仰の奥義です。


◆もっと厳密に言えば、神の愛を知ることでさえありません。

 『神の愛にあずかり、それによって満たされるように』なのです。

 このことと、信仰共同体なる教会の姿が重ねられなければなりません。

 何とも表現に窮しますが、教会生活で、神さまの愛にどっぷりと浸ることです。理屈ではありません。具体的な信仰生活、もっと具体的には、礼拝を守ることの繰り返しです。

   

◆20節。

  … わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、

   思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に …

 この言葉こそ、一人ひとりが、その具体的な信仰生活において、体験し、味わうべき事柄です。極めて具体的なことです。

 しかし、何か具体的なことを例として取り上げてお話するならば、それだけの話になってしまいます。

 20節に記されていることが本当だなあと、実感することがあります。

 一人ひとりが、信仰生活において、実際に体験していただきたいと思います。


◆ところで、20節の強調は、人間の思いを超えて、神さまは良い実りを与えて下さるということにありますが、『わたしたちの内に働く御力によって』この部分を忘れてはなりません。

 『わたしたちの内に働く御力』

 神さまが私たちの心の内に働きかけて、私たちの心を揺り動かして下さることを、願い、信じ、祈るのです。

 確かに、私たち一人ひとりの信仰、一人ひとりの心が大事です。しかし、それは、私たち一人ひとりの心が絶対的な価値を持つということではありません。私たちの心の内に働きかけて、私たちの心を揺り動かして下さる方があることを信じるのです。これが絶対なのです。これがキリスト教の信仰です。

 一人ひとりの意見が貴い、だから民主的に選挙で決定するとか、多数決を絶対とはしないで少数意見を重んじるとか、そういう次元の話ではありません。


◆だからこそ、14節、 … わたしは御父の前にひざまずいて祈ります …

 そして、21節。 … 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。…

 この箇所全体が、パウロの祈りです。祈る群れに語りかけて下さる主を信じるのです。

 

◆今日は、召天者記念として礼拝を守りました。

 教会に、そもそも礼拝に、あまり馴染みのない方は、牧師の説教は七面倒くさいなと思われた方もあるかも知れません。こんな小難しいことを説教し、教会員は、それを飽きもせず聞いているのかと、いぶかる方もあるかも知れません。その通りです。

 教会では、常にこんな風に礼拝が守られ、こんな風に説教が語られます。これからお名前を読み上げる方々も、その礼拝を守り、説教を聞き、そうして神の国へと召されて行ったのです。


◆聖書の時代には、車も列車もありません。飛行機は勿論ありません。

 聖書の時代にこれがあったら、使徒パウロも、譬え話に用いたかも知れません。

 しかし、やはり舟が一番説得力があります。

 車では、乗員の人数が限られています。列車なら良いかも知れません。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、明らかに、死後の世界に向かう列車です。しかし、その目的地は神の国ではないようです。また、列車内は車両を移ることは出来ますが、往来は不自由です。列車の乗客同士の交流は、難しいでしょう。

 飛行機ならば、運命共同体という点では、舟よりも切実です。しかし、列車と同様、列車以上に、乗客同士の行き来は不自由です。そも、禁止されています。

 舟と他の乗り物との違いは、舟は単なる移動手段ではないという点にあります。


◆私は、健康上の理由で飛行機に乗れませんので、豪華客船での世界1周の旅に憧れています。最低でも、数ヶ月、なるべくなら半年のお休みが必要ですから、実現は困難でしょう。

 実現しないのには、もう一つ、より大きい理由があります。舟には一等から三等まであります。舟の中に社会的な階層、貧富が持ち込まれるのは嫌だなと、考えてしまいます。一等は予算的に無理でしょう。三等、若い時ならよろしいでしょうが、年取ってから、廉いという理由で三等を選ぶのは、何だか気持ちが引けます。単なる見栄でしょうか。ですから、舟のどこにも、私にとっては、居心地の良い場所はありません。

 教会にも、一等から三等まであります。礼拝堂の一番前、説教が良く聞こえる席が、一等席です。何故かあんまり人気がありません。中庭窓側の席は、夏場は二等でしょうか。自然の風を感じますし、草花も見えます。冬場は、四等になってしまうかも知れません。

 後ろの方は、エアコンの具合からも、音調からも、良くない席です。三等でしょう。しかし、何故か人気があります。

 

◆今日は、召天者記念として礼拝を守りました。

 先ほど申しましたように、牧師の説教は七面倒くさいなと思われた方もあるかも知れません。こんな小難しいことを説教し、教会員は、それを飽きもせず聞いているのかと、いぶかる方もあるかも知れません。その通りです。

 教会では、常にこんな風に礼拝が守られ、こんな風に説教が語られます。これからお名前を読み上げる方々も、その礼拝を守り、説教を聞き、そうして神の国へと召されて行ったのです。

 仏教的な難行苦行よりも、牧師の説教を毎週聞く方が、余程難行苦行だと言った人があります。その通りかも知れません。

 小難しいと聞こえる聖書解釈を端折ることは出来ません。しかし、一方で、たった一言に要約することも出来ます。神の国に入る資格は、ただ、愛のみです。この愛から、寛容が生まれます。これが、信仰の実践です。