日本基督教団 玉川平安教会

■2023年2月12日 説教映像

■説教題 「恐怖が破滅を呼び寄せる

■聖書   マタイによる福音書 14章1〜12節 

       

☆福音書の中では例外的にドラマチックな出来事が描かれています。オスカー・ワイルド、ギヨーム・アポリネールの、どちらも『サロメ』という作品になってもいます。しかし、両方とも実際には、聖書とは殆ど関係ありません。何しろ、ここに登場する少女は、『サロメ』という名前かどうかも不確かです。

 ここで話は既にややこしいので、これ以上ややこしいことになるのは避けます。ここに登場する少女、或いは歴史上の『サロメ』について説明を加える必要はないと判断します。


☆1節の『領主ヘロデ』については、最低限のことを説明しなければ、この出来事、また、そこに込められているメッセージを聞き取ることは出来ません。

 細かいことは省略して、要点だけを申します。この『領主ヘロデ』・ヘロデ・アンティパスは、クリスマスの場面の『ヘロデ大王』の子どもで、使徒言行録の『ヘロデ王』の叔父に当たります。父の領地の半分ほどを相続しましたが、彼は『領主ヘロデ』であって大王でも王でもありません。王と名乗ることをローマに許されませんでした。

 彼は自分の立場を固めるために、隣国のナバテヤ王アレタスの娘と結婚しました。後ろ盾になって貰うためです。しかし、このことでローマに睨まれました。むしろ彼の地位は脅かされます。そこで慌てて離縁し、ためにアレタスに攻め込まれます。


☆ヘロデは、この状況で『兄弟フィリポの妻ヘロディア』を娶ります。ヘロデ自身もそうですが、彼女は、ローマに育ちローマに知友があります。つまり、結婚は何れも政略結婚でした。3〜5節の文章には、その辺りのことが反映されています。バプテスマのヨハネは、人倫上、また律法の視点から、この結婚を批判したのですが、それだけではないかも知れません。結論だけ申しますが、旧約聖書以来、預言者は極めて政治的な発言をしています。決して、浮世離れしたことを説くのが預言者ではありません。


☆1節に戻ります。『そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き』

 極めて珍しい場面設定になっています。1〜2節は、時間的には3節以下よりも後の出来事です。この時点でバプテスマのヨハネは既に殺されています。5節には、

 『ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。

  人々がヨハネを預言者と思っていたからである。』

 とあり、9節には、『王は心を痛めたが』とあります。ここで『王』と記されていることは面倒なので無視するとして、領主ヘロデの揺れ動く心が表現されています。


☆マタイ福音書2章2〜3節。

 『「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。

  わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

  3:これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。』

 クリスマスの説教で申しましたように、大王と呼ばれていたヘロデですが、その権力基盤は盤石ではありません。東の方からやって来た博士たちの情報に『不安』を抱く程、脆弱でした。独裁者の定めです。独裁者ほど、実は足下に不安があります。ために、周囲の、従来彼を支えて来た人にも脅え、これを粛正します。今日でも全く同じです。


☆息子の『領主ヘロデ』も、父『ヘロデ大王』と同様に、不安を覚えています。『イエスの評判』が気になります。むしろ脅えます。

 独裁者とは、周囲の意見など全く聞かず、自分の思いのままに行動する人のように思いますが、存外そうではありません。むしろ、他の人の評判に左右されます。自信、確固たる信念がないから、他の人の評判に左右され、結果的に独裁者になるのかも知れません。

 旧約聖書に描かれる王の姿は、正にそのように描かれています。この『領主ヘロデ』も、父『ヘロデ大王』も、その人物像は、歴史的事実に即して描かれていると言うよりも、旧約聖書の王の姿を戯画的に描いたものではないでしょうか。


☆2節。

 『「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。

  だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」』

 同じ場面を、ルカ福音書は、次のように記しています。9章、7〜9節。

 『7:ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。

   というのは、イエスについて、

  「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、

  8:「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、

  「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。

  9:しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。

  いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」

  そして、イエスに会ってみたいと思った。』

 ヘロデの不安や、脅えの根拠は人々の評判なのです。


☆マタイ福音書14章6〜7節。

 『6:ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、

   ヘロデを喜ばせた。

  7:それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。』

 どんな踊りだったかまでは記されていません。ワイルドやアポリネールでは、エロチックな場面ですが、そんな根拠はありません。

 それよりも、『「願うものは何でもやろう」と誓って約束した』、ここに注目します。嘘です。『何でもやろう』は、ほぼほぼと言うよりも、絶対に嘘に決まっています。要求されても叶えられないことが無数にありますでしょう。この約束が真実ならば、『何でも』に、随分沢山のプロテクトを付けなくてはならないでしょう。


☆一ヨハネ5章14節。

 『何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる』

 当たり前です。ヘロデが『何でも』と言うのは嘘に過ぎません。同様の表現が他にも沢山あります。『神の御心に適うこと』ならば『何でも』です。


☆マタイ福音書14章8節。

 『すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、

   この場でください」と言った。』

 ワイルドの『サロメ』では、サロメ自身の意図で、『ヨハネの首を』求めますが、聖書は『母親に唆されて』です。

 母ヘロディアが、何のためにヨハネの首を求めたのかは記されていませんが、自分のプライドを傷付けられたと考えれば、その通りかも知れません。ヨハネの批判が正しいからこそ、彼を赦せないのかも知れません。

 もう一つの解釈があるかと思います。もう一度5節。

 『ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。

  人々がヨハネを預言者と思っていたからである。』

 つまり、ヘロディアは、ヘロデの思いを知っていて、これを叶えるためだったのかも知れません。そうしますと、サロメは母の言葉に逆らえず、母はヘロデの思いに阿り、ヘロデは『民衆を恐れ』て、この結果になったことになります。


☆9節。

 『王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、

   それを与えるように命じ』

 今度は『客の手前』、格好付けです。口先だけの男だと評判を落とすことを恐れたと言えます。独裁者、ヘロデは独裁者にしてはあまりに小物かも知れませんが、体質的には独裁者です。独裁者は何物をも恐れない人では決してありません。むしろ、脅えだらけの人です。それは、今日でも全く同じでしょう。独裁者は存外小心者です。


☆『誓ったことではあるし』という表現も、無視出来ません。誰に誓ったのでしょう。ヘロデに誓う対象などあるのでしょうか。誰に誓ったのかは、全然問題にはなりません。

 誰の前で誓ったかが問題の要です。

 大脱線かも知れませんが、誓いと言いますと、私は結婚式の誓いを連想します。

 松江北堀教会の時、教会を新しくしたら、結婚式を挙げて貰いたいと言う人が大勢見えました。その思いは尊重します。教会にとっても嬉しいことです。

 しかし、志願者に、私は意地悪いことを言います。

 「信じてもいない神さまの前で愛を誓うことは、そもそも、嘘で結婚生活を始めることになりませんか」

 その意地悪い問いに答えた人だけが、準備に入ります。

 多くの人の思いは、決して嘘ではありません。むしろ、大変健全なものであることが分かりました。教会で愛の誓いをしたいのは、その思いが勝手な思い込みではないこと、一時的なものではないことを言い表したいからであり、その気持ちを、良くは分からないが神さまの前でしたいからであり、家族や友人たちの前でしたいからです。


☆久し振りに統一原理の話です。統一原理は、ホテルで結婚式を挙げる組織を持っています。司式するのは、一言で言えば偽牧師です。統一原理の信者だったり、欧米人のアルバイトだったりします。まともな牧師が、日曜日ホテルで結婚式など出来る筈がありません。

 人がもっとも大事にすることを、嘘で塗り固める、こんな罪な話はありません。そんなことが平気で出来る人たちは、地獄に落とされても仕方がないでしょう。

 そんな人たちが、平和な家庭を謳い文句にしても、全く信用できません。


☆10〜11節。

 『10:人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。

  11:その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。』

 何とおぞましいことが出来るものです。

  おぞましいと言わなくてはならないのは、人の首を乗せた盆を持ったことではありません。この時代の王族ならば、そんなことは平気、当たり前だったでしょう。

 日本だって、戦国時代、刎ねられた首を綺麗に洗い髪を整えるのは、武家の婦人たちの務めでした。武家の婦人ならば、躊躇なくそれをしなくてはなりません。

 

☆おぞましいのは、『人を遣わして … 首をはねさせた』ことです。

 残忍な独裁者が、直接自分の手で、人を刺し殺すことなどあまりありません。人にさせます。毎日毎日、人殺しのニュースが報道されています。おぞましいことです。しかし、もっと恐ろしいのは、人に人を殺させることです。この罪の方がより重いと考えます。

 戦争に駆り出された兵士が、人を殺すのは仕方がないとは申しませんが、本当に罪が重いのは、兵士を戦場に送る人です。

 違法薬物や売春も同様です。薬物にはまることも、売春することも罪に違いありません。しかし、もっと重い罪は、人をそこに駆りたてることです。人にそれを強いることです。違法薬物や売春にはまってしまった人に対しては、糾弾したり罰したりする以前に、更生出来る道を備えることが大事でしょう。

 しかし人にそれを強いた人、違法薬物を売ったり、生産したり、売春の斡旋をした人の罪は赦されるものではありません。簡単に赦してはなりません。


☆領主ヘロデは、自分の地位の確立のために、随分バタバタ、みっともないことを繰り返し、結局はそれが命取りになります。聖書には記されていませんが、ローマに領地を取り上げられ、惨めな死に目に遭います。

 ヘロディアやサロメのその後については、確かなことは分かりません。


☆12節。

 『それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、

   イエスのところに行って報告した。』

 イエスさまとヨハネとが、関係付けられています。1〜2節もそうです。福音書記者にとって、大事なのはこのことです。この一点かも知れません。バプテスマのヨハネは、イエスさまの先駆けです。何よりも、その刑死において、十字架の出来事の先駆けなのです。

 

☆若者を戦場へと駆りたて、その命を奪うのが、独裁者です。バプテスマのヨハネ、そしてイエスさまは、真逆です。二人とも不当な裁きによって殺されます。殺したのは、現状に不安・不満を持つ人々です。殺したのは、躊躇いながらも、周囲の人々に遠慮してのことです。殺したのは、疑心暗鬼に陥った人です。彼らの不安が、恐怖が、結局、自らを滅ぼします。

 サムエル記や列王記を読みますと、もっとも典型はサウル王ですが、疑心暗鬼に捕らわれて、不安になり、遂には精神状態がおかしくなり、無用な殺戮・粛正を行い、結果は、ますます自分を追い込みます。そして、自らを破滅させます。この同じようなパターンが、サムエル記や列王記に繰り返し描かれています。

 一言で言えば、不信が不安を生み、そして自滅を産みます。